馬に乗るということ

こころ
6 min readAug 10, 2016

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―愛するということは、対象の価値を最大化することである

べつに、艱難辛苦を乗り越えたり苦渋の決断をしたりした上で結果を出したいなどと思っていたわけではなかった。

大学時代、碌に講義にも出ずに部活ばかりしていた。私が所属していた大学馬術部では、2回生の夏から原則1人1頭担当馬を与えられ、その馬の体調管理や調教方針に責任を負い、日々共に汗を流し、試合を目指すことになる。

馬術は貴族のお遊びだと思われがちなスポーツだけれど、実際には騎乗時間より馬のための労働時間の方が遥かに長い馬の奴隷たちの、泥臭い競技だ。作業といえば1日4回の餌やりに始まり、厩舎の掃除、敷料の確保、堆肥の処理、馬場の整備など枚挙に暇がない。MTの軽トラで、両脇が側溝の農道を爆走したり、山奥の舗装もされていない砂利道に分け入ったりしたのも、今となっては懐かしい記憶だ。

そんな日々の中で、非言語的なコミュニケーションを模索し、人馬一体となって1つの結果を達成する面白さに、いつしか夢中になっていた。

2回生の時に担当していた馬は、過去の調教に無理があったのか、試合場に入ったら爆走せねばならないという謎の強迫観念に捕えられていて、随分対応に苦戦した。というより、彼を上手く導き安心させてやるほどの技量の持ち合わせが、残念ながら私にはなかった、というのが正直なところだろう。馬は信頼を寄せる人間の鞍下では、後軀に体重を落とし、実に自信に溢れた歩みを見せるものだから。

あまり可愛げのない馬だったけれど、半年ほど経つと、私が馬房の前に立つと寄ってくるようなデレ方を見せてくれたりもした。1年間、家族より友人よりも長い時間を共に過ごし、1日の半分以上を彼のことだけを考えて過ごした。でろでろに愛で、甘やかし、彼が喜ぶことならなんでもしてやりたかった。反面、省エネや甘えに走る彼を厳しく叱ることができなかったのが私の罪科だった。

馬は、決して、人を乗せて障碍を跳びたいわけではない。

跳べば褒めてもらえるだとか、うまくやればそれでその日1日の運動が終わるだとか、そういう学習経験に基づいて、経済動物として生きるための反復行動を、求められるまま繰り返しているだけだ。規範を逸脱したときに叱られないままであるということは、経済動物としての彼の学習にとって最悪だった。

結局彼と私は最後まではかばかしい成績が残せず1年が終わり、後輩に彼を引き継いだところで、部員数減の煽りを受けて離厩の話が湧いて出た。

この業界で、弱小大学の馬術部にさえいられない馬の末路は限りなく暗い。馬の行方なんてすぐ分からなくなってしまう。競走馬は年間何千頭と生産されるけれど、繁殖に上がれるのは数少ない優秀な牡馬と、相応の数の牝馬だけだ。競争成績が振るわなかった馬たちの中で、愛されて育った扱いやすい馬たちへはまだ、乗馬業界への参入パスが与えられることもあるけれど、乗馬を嗜む人口が多いわけもなく、受け皿はさして大きくない。換言すれば供給元はいくらでもあるわけで、使いにくい馬はあっさり「用済み」だ。

私の知る最底辺は、いわゆる「祭り馬」と呼ばれる馬たちで、各地の祭事で、武者装束や十二単などに身を包んだ町の方々を乗せて行列に加わる。神域や道路を汚してはいけないから、1日中水も食べ物も与えられないこともある。祭の朝には身体を洗いブラシをかけてもらえるけれど、普段は掃除の行き届いていない狭い厩舎に押し込められ、運動もさせてもらえない。筋肉が落ち骨が浮き、毛艶も悪く、瞳には光がなく、蹄は歪みきっている。そもそも馬は臆病な動物だ。はためく幟や群衆のざわめきなど、彼らにとってはストレスでしかない。その環境に耐えて粛々と歩めるおとなしい馬である、ということはつまり、生物としてはもう死んでいるということに近いと私は思う。

乗馬業界へのパスを得られなかった馬たちや、祭り馬としての適性もなかった馬たちは、動物園のライオンの餌になったりペットフードに加工されたりしてその一生を終えることになる。これが、華やかな競馬業界を支える一連のシステムだ。

愛する馬が死んだように生きていくのを何もできずに見ているくらいなら、いっそ死んでくれた方が遥かにマシだという考えが脳裏を過ったのはひとえに私のエゴだけれど、ひとまずありとあらゆるコネを使って足掻きに足掻いてみたところ、似たような運営の仕方をしている某大学の馬術部が引き取ってくれることになった。強豪校だと合理的な判断のもとにまたきっとすぐ居場所をなくしてしまうだろうから、失礼な話ではあるけれど競技成績を追求することのみに重きを置いているわけではない大学が手を挙げてくれたことは、彼と私にとって本当に幸せなことだった。離厩の前日、夜が更けるまで一緒にいたときに珍しくよく甘えてきた彼の顔を私は一生忘れないし、何があっても彼を行方不明にはさせないと誓った。

その後彼の繋養先はまた変わったけれど、いまだに転厩する際には連絡をくれるよう我儘なお願いをし続けている。できるだけ長い間乗馬として多くの人に愛されていてほしいけれど、そろそろ20歳にもなろうとしている彼が引退の時期を迎えたら、余生はのんびり過ごさせたい。

彼の1年間に責任を負っていた人間として、競技で結果が出せなかった、つまり彼の部内での存在意義を作り上げられなかったために、彼の生命を危機にさらしてしまったことで漸く、私は経済動物と人間との関わり方について深く考える機会を得た。

太古の昔から人間は動物を「利用」して生きてきた。そのこと自体は善でも悪でもなく、ただその「利用」の仕方には善悪の判断がありうると私は思う。どんな動物であれ、同じ一個の生命として尊重し、飼育下に在ればできるだけ快適な環境で過ごさせ、貢献には正当な報酬を与えてはじめて、その「利用」を正当化する端緒が与えられるのではないだろうか。

経済動物の生/死は、どうしようもなく人間の都合に振り回される。

きっと正解なんてないけれど、私が辿り着いた答えは、経済動物と関わる中で、苟もその動物を愛していると言いたいなら、私にできるのは、決して無条件に甘やかすことなんかではなく、結果にこだわり、その動物の価値を最大化することだということだ。たとえ私が私一人の手で守れなくても、できるだけ多数の誰かがその動物に価値を見出し守ってくれ、最大限に幸福な生を全うさせてくれるように。

愛する彼が教えてくれたことは2頭目の担当馬との日々に活かされ、その馬が今も母校の馬術部で後輩たちを乗せて練習に試合にと活躍している様子を、陰ながら見守っている。私以外の誰かに愛されているのはやっぱりちょっと妬けるななどと思いながら。

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