2017年、幸福について

こころ
3 min readJan 10, 2017

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こうふく。

やさしくてむずかしいこの4文字を、定義も肯定もできないままに、それでも探し続けてきたように思う。

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壊れるほど愛されても三分の一も伝わってこなかったし、愛するように壊されたら3倍くらい幸せになったから、 歪んだものを歪んだふうにしか愛せない私は、歪んだ幸せを手に入れるしかない気がしていた。

ありふれたものをありふれたふうに愛せる人はきっと幸せになれる人だけれど、「いい子だよ」と他人に評されるような人間にはどうしてもなりたくなかった。誰もが認める「幸せ」は、いざ目の前に差し出されてみるとどうしようもなく色褪せて見えて、「それは『私の』幸せじゃない」としか言えなかった。

誰もが認める「幸せ」方向へ私をdriveしたがる人に、「私が不幸になるか幸せになるかは私が決めるし、そもそもそんな幅の狭い幸せの枠の中に私を押し込めようとしないで」とあの頃ずっと言っていた。その「幸せ」を私に与えられるわけでもないくせに、偉そうに私の幸せを語るなと思っていた。

世界で一番不幸でないと、嘆くことさえ甘えだと言われるなら、いっそ世界で一番不幸になりたいと思った。私は不幸になる自由さえあるのだと気付いたあの日、初めて自由になれた気がしたけれど、それはもはや呪詛だった。

自由になればなるほど、人は不幸なのかもしれない。

誰かから愛されること許されること認められることはきっと幸せなことだけれど、代替可能な私として愛されているのなら、その愛は私にとっても代替可能だ。

代替不可能な唯一無二の私として愛されることは美しいけれど、かといって、「私を見て」という声が大きくなればなるほど、人は醜くなるような気がする。

醜い私を私は愛せないし、私が愛せない私を他人に愛されて満たされるわけもなく、私が愛せない私を愛する人を私が愛せるかという問いに対する答えはいつだってNoだった。

自分を愛し許し認めることはどこかで必要なことだけれど、誰かに愛され許され認められている自分でないと自分で自分を愛し許し認められないのなら、他人の価値観に依存するそれは酷く脆くて不自由だ。

いまだに私の幸福の形は不明確だけれど、結局「幸福」というものが奈辺にあるのかというと、「自己承認」「自己肯定」なんぞという言葉が脳から吹っ飛んだあたりだと思う。

「これをしているときの自分を好きでいられるか」「この人といるときの自分を好きでいられるか」がここ3年ほど私の行動規範だった。どこにでも行ける自分が好きだったし、なんでも選べる自分が好きだった。それこそが私の「自由」だった。

けれどきっと、もうそれは超えていい。今私にとって大切なのは、「そんなことさえ考えずにいられるか」だ。

意識の限りを自己に向け、自己に拘泥し耽溺している限り、ひとは決して幸せにはなりえないのだと思う。

どこかに埋没し、融合しているとき。認めてほしいと殊更に声を上げることも、自己と他者との認識の差異を追い求めることも必要ないとき。幸せを幸せだと認識することすらなくなったとき、おそらくひとは幸せになったと言えるのだろう。

際限のない自由を求めることをやめ、自分の世界の範囲さえも自分で規定できるようになったとき、私はようやく私から自由になるのかもしれない。

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生きる資格がないなんて憧れてた生き方