質と量
ムービーとスチール
テレビの報道カメラアシスタントから業界入りして20年が経つ。
ムービーの仕事をしていると無性にスチールに興味が湧く。wktkだ(笑)
仕事も最初は報道で、その後制作、情報番組とかバラエティ番組、ドラマやスポーツ、アダルトの現場も踏み込んだ。映画制作にも加わったし、Webコンテンツ動画や企業ビデオ、ブライダル、コマーシャル、PV、MV、デジタルサイネージも制作協力してきた。最近では日本ではメジャーなアイドルユニットのオフィシャル記録にも携わるようになった。
おもしろいのはターゲットや媒体が違うほか、制作するもののお金の出所が全然違ったりする。これはまた別の機会に話をするつもりではある。
今日はグラフィックにおける価値について思うところを記しておきたい。
世の中の映像あるいは画像、それをひっくるめて視覚情報と呼ぼう。その
視覚情報が増えれば増えるほど映像もしくは画像1コマの価値が下がるのではないか
YouTubeにアップロードされる動画の量が、1分当たり100時間、つまり4日と4時間分になったと発表している。
好む好まざるに関わらず膨大な情報が日々倍々ゲームよろしく量産されているのは事実である。
報道をやっていた時はそういう感覚はほとんど無かった。最低限の情報を切り詰めてお茶の間に最速で伝送する使命感があったからだと思う。多くの情報を集めてもカセットテープ収録なので、編集のために頭まで巻き戻す時間数分、そこから必要なカットを探す時間、ノンリニア編集ならばキャプチャーする時間、実際の編集時間などを考えると無駄な収録が足かせになる場合が多い。
時は流れ機器の進化、収録メディアの低価格化が進み、映像の収録しっぱなし(いわゆる回しっぱなし)が可能になった。監視カメラもその類だし、Ustreamも無料でダダ漏れできてしまう。スチールではフィルムからデジタルになったおかげで36枚で交換していたものが今じゃ何千何万カット、あるいはWi-Fiを使えばほぼ延々撮影できてしまう。
もう1ショット一球入魂ではないな。先輩とよく「今日の珠玉の1カット撮れたか」なんて話をした事があったが、ここ最近思い出せない自分がいる。
1日に多くを撮影しすぎていいショットも自分のなかで埋没しているのではないだろうか。
今日本屋で改めて思った事がある。
色とりどりの表紙に装丁、ぎっしり記事の詰まった中身。
これはもう情報過多。
一人の人間の生涯の仕事量には限度がある。いろんな人を巻き込んでする仕事は楽しい。ただ漫然と仕事はしたくない。
ルーチンから脱却したい。ちょっとした緊張感、非日常感が欲しい。
地金やダイヤモンド、石油などは供給側が量をコントロールしている。量が増えればそのモノの価値が下がるから当然だ。消費者側はどれだけの埋蔵量があるかは知らされていない。
同業者に「君はしたたかだね」と言われた。かもしれないが質を求めて仕事の時間を楽しく過ごしたいその一心だ。
映像は「時間を記録できるんだぜ」に対しスチールは「時間を止められるんだぜ」ということだ。

Email me when 中尾幸太郎(非公式) publishes or recommends stories