宇宙の外側を巡る問題への関心はその後、空間の形とその表現の問題へと移行したまま凍結しているけど、またすこし温めて解凍してみる。もともとこの関心は、提示される答えに私が、少しもリアリティが感じられないことに端を発していた。理解するということは対象が実在性を持った或る表現として、その人の中に存在するということであろ うから、それは認識の問題であって、その観点からいえば、それは哲学の領野に掛かっている。このリアリティ=実在性が厄介なのは、自身が現在の持ち手で、それぞれの方法で獲得するしかないこと、つまり一般的化できない点だ。それは具体的な何らかの経験をともなって、ヨチヨチと千鳥足でたどる、各々が自身の表現を獲得する道のりだ。そして、そのような歩みの過程であるならば、答えは一時的なものであって、立てた問いを超えることはないから、問いの立て方あるいは、発見の仕方の方がより重要なポイントになるだろう。ここで例えば、そんな多種多様な「お題(問い)」を思考のパーツと呼ぶならば、その道のりはそんなパーツをコツコツと集め、組み立てていく行為だといえる。そしてなによりも、実在性を含む思考は何らかの具体的で個別な事象を伴い、その「問い」は対象の背景=外側を条件として含むから、その行為は或る対象へのハッキングとでも呼ぶべきものかもしれない。


ポアンカレ予想を一般読者向けに解説した本がある。原題では宇宙の形を探すと謳われている。ひとつの数学のアイディアが生まれ発展していく歴史的で丁寧な解説が続くけれど、それはまた同時に本題である「空間の形」の外側を規定し、形作っていく行為だ。著者(米国の数学教授)に、このように気の長い冗長な表現(=メッセージ)を発信させている大きなモチベーション。それがおそらく著者の中にある空間の実在性なのだろう。そしてそれは、ある種の力の流れとなって私に届いたことになる。ここで、そのひとつを前述の思考のパーツとして拾ってみよう。それはリーマンの多様体の宣言と共に生まれた空間。まず、キャンバスとしての空間を準備し、その上に構造を持った空間を定義する。順序をもった単なる数値の組として表現される「位置」は、視覚イメージからの解放を可能にするだけではなく、その「量」としての側面は、測る(指し示す)という行為を包含している。さらに行為は連続性と差異を生み出すから、そこに時間が織り込まれることになる。パラグラフ(表現化したお題)としてはこんなところだ。数学の持っている演繹的な手法を今から訓練することはないだろうけど、実在性を含む思考のパーツとしてコレクションすることはできるだろう。余談。宇宙の外側(果て)のについての現在の理解・認識(リアリティ)は「外側はない」というものだ。外側は高次元の方向にあり、今あるこの場所に偏在する。それは、例えば2つのゴムボールの表面(宇宙の境界面・膜)を、対応する全ての点で張り付けることで出来上がる空間のようなイメージ。

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