仕事と遊びの逆転

Yoshihito Kuranuki
4 min readFeb 4, 2018

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餃子を皮から作った。わりと簡単に餃子の皮は作れると知って、皮から作ってみたくなったのだ。

スーパーに行って材料を買って、家になかった生地を伸ばすための麺棒も買って。「餃子の皮 レシピ」でググると沢山の情報がインターネットには溢れてる。詳細はどれも違うが、大体は同じだ。

薄力粉を混ぜ、捏ねて、寝かせる。それを伸ばして、切って、丸めて、円に伸ばして皮ができる。不恰好だが、それもまた良し。焼いて食べれば同じだ。自分で作ったことで、2割り増しで美味しく感じる。

自分で作ってみると、プロの人が作るのはやっぱりすごいな、と感じる。同時に自分には、これを毎日やって腕を磨くのはやれないな、とも思う。

材料費だけではなく、稼働する時間も考えれば、コストパフォーマンスで考えると、市販の皮を買ってきた方が早く安いし、なんだったら出来合いのものを買ってくる方が安い。

だけど、わざわざ皮から作ったのは、どちらかといえばレクリエーションの一環だ。遊びなのだ。遊び感覚だから、やってると楽しいし、下手でも笑ってすませることが出来る。

言ってみれば、初めてやる人にとっては職業体験みたいなもので、そういうアトラクションに行ったら、むしろお金を払って体験するようなものだ。

ここに、これからの仕事のあり方を考えるヒントがありそうな気がする。

コストパフォーマンスだけで考えると、あえて効果の悪いことをするというのは、遊びなのだ。遊びとは贅沢なものだ。

贅沢なことが出来るようになることが、文明の進化と進歩なのだ。はるか古代の人類が、一日かけて狩りをしてやっと生活が出来ただろうが、今や、そこまでの危険もコストもかからない。

野菜だって、買ってくる方が安くて楽なのに、あえて家庭菜園をするのは、生活のためというより、楽しみのためにする人が多いのではないか。

昔は仕事だったものが、今は遊びやスポーツになってしまっているものもある。狩りは仕事だったし、釣りや漁は今でも仕事であり、遊びだ。

この流れは、テクノロジーが発展するにつれ、今後さらに加速していくのではないだろうか。特に、専門的に同じことを繰り返すのは機械の方が得意なため、人間でなければ出来ないことは減っていく。

それで仕事が奪われると嘆く必要はない。人類が楽になっていくというだけだ。蒸気機関が発明され、電気が普及して、人類は楽になった。それと同じことだ。

そうして、人間は無駄なことが出来る。あえて、コストパフォーマンスの悪いことをする贅沢が出来る。遊ぶ時間が増える。

逆に、本人たちが遊びでやっていることも、昔の人からすると働いているように見えることもあるだろう。家庭菜園もそうだろう。古代の人が見たら、あれは仕事ではないのか?と聞くはずだ。

だから、もしかしたら今は仕事だと思っていることが、この先の未来では、遊びになるかもしれない。特に、繰り返しの単純作業ではないような、ナレッジワークは全て遊びになっていくと思うのだ。

例えば、今だってプログラミングなんて、やっていること自体が楽しいものだし、ブレーンストーミングなんて、遊びみたいな感覚でやった方が良いアイデアが出るんじゃないか。

お金のためもあるが、それ以上に仕事そのものが楽しくてやっている人も、それなりに多いのではないか。それに、そういう人の方が、仕事をうまくやれているようにも思う。

目的のない仕事は面白くないが、きっとそうした仕事の目的は、世の中をよくすることになるのではないか。遊んでいることが、世の中の役にたつのかもしれない。

仕事と遊びが逆転し、遊びと仕事の境界が曖昧になる。今すぐじゃなくて、もうしばらく先のことかもしれないけれど、そんな未来なら悪くないな。

そんなことを考えながら、焼けた餃子を食べた。

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Yoshihito Kuranuki

ソニックガーデンという会社を経営しています。「心はプログラマ、仕事は経営者」の精神で、プログラマという仕事を誇れるものにすることがミッション。 ブログ http://kuranuki.sonicgarden.jp ※2019年1月に新刊「管理ゼロで成果はあがる」でました。→ https://goo.gl/reZez1