炎上する言論とフィクション

Yoshihito Kuranuki
3 min readMar 11, 2018

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Photo by Connor Jalbert on Unsplash

SNSやブログで、特に過激な意見や極端な言論を表明すると、賛否両論で意見が応酬されて、炎上することがある。

わざわざ炎上するようなことを、公衆の目につくところで発信しなければ良いのに、とも思うが、一方で、そうした極端だったりする意見からは、第3者にしてみると新しい発見が得られることも多い。

だから、炎上するくらいに賛否両論が起きるような言論には、大いに価値があるはずなので、もっと世に出てきて欲しいとも思う。

かといって、そうした発言は、その発信した人のすべてを表したものではない。当たり前だが、「こういう風にも考えられますよ」ということではないだろうか。

自分の中に何人もいて、極端な意見を言うやつもいれば、心遣いのできる大人もいる。みんな、多かれ少なかれ、そういうもんだろう。

時には極端なことも考えたりするが、それだけをそのままSNSなんかで表現すると、もしかしたら誰かを傷つけることになるかもしれないし、頭のおかしいやつだと思われるかもしれない。

自分と言論がくっつき過ぎている。だから、みんなSNSなんかでは大人しくしてる人が殆どだし、匿名の掲示板なんかだと好きなことを言ったりしてる。

しかし、過激なことや極端なことでも、フィクションの中の登場人物が語ったとしたら、どうだろうか。

フィクションの中で、頭のおかしい登場人物が出てきて何か語ったからといって、その意見で一喜一憂する人はいないだろう。そのフィクションを書いた人があぶないやつだとも思わないだろう。

それは、1段階メタな構造になっているからだ。その世界での話なのだから、それで怒ったりする人がいたら、現実との区別がついてない。

フィクションの中で、意見の対立をさせることが出来れば、一方的な考えしかもっていないとは思われないだろう。そして、実際に自分の中には対立し合う意見などいくらでもある。

色々な意見を知って、多様な切り口を持っていた方が、何か自分が、創造的な仕事をする際や、難しい問題に取り掛かるときに、考えるための土台になってくれる。

だから、世の中には多くの賛否両論の、そして、極端な意見があって良いと思う。もっと知りたいし、もっと伝えたい。しかし、それを「自分の意見」として発信するにはリスクが大きい世の中だ。

そんなとき、フィクションという形をとることで、言いたかったことや考えていたことを、恐れることなく表現することができるとしたらどうだろう。フィクションにすることで、自由になれるのだ。

ただ、今のネットではフィクションを書くのに適した場所がそんなにないのも事実だ。ブログでフィクションは難しい。というか、それはブログではないような。

実在の人物だと思うから、きっとカチンときて炎上したりするんじゃないか。フィクションの中の人だと思えばスルーできる。

実際のところ、どんな実話も誰かの言葉で表現されたら、受け取る側にとってはフィクションとの区別はつかない。

だから漫画や小説、映画からだって、学べることは多いし、考えを広げるための切り口や観点を得ることができるのではないか。もちろん、そこに自分にはない新しい切り口や観点、意見や知識が含まれていれば、だが。

・・・という意見を、フィクション風に書けばよかったかな。

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Yoshihito Kuranuki

ソニックガーデンという会社を経営しています。「心はプログラマ、仕事は経営者」の精神で、プログラマという仕事を誇れるものにすることがミッション。 ブログ http://kuranuki.sonicgarden.jp ※2019年1月に新刊「管理ゼロで成果はあがる」でました。→ https://goo.gl/reZez1