自分のことを棚に上げる仕事
たまに、何らかの審査委員であったり、有識者としての意見を求められる仕事を受けることがある。
そこで、期待される役割は、正論を述べることだ。
もちろん、表現はオブラートに包んだりして気を使うが、それでもロジカルに正しいとされることを言うのが仕事だ。
公正な審査や、襟を正すための意見が求められているのだから、そういうことだろう。
そんな時に気をつけるのが、自分のことは棚に上げて話すということだ。
誰かに意見を言うべき際に、果たして自分を省みるとどうなるのか。ブーメランを恐れて、甘いことを言ってしまうと、それでは求められた仕事を果たしたことにならない。
わかってる。意見を言いながら、自分だって、そんなに偉そうなことは言えたものでもない。だけど、そう心では思っていても、言葉にするのは正論でなければいけない。
存外、大変な仕事だ。
「 あなたたちの中で罪を犯したことのない者だけが、この女に石を投げなさい。」
そんな言葉が頭によぎるけれど、それはそれ、これはこれ。こんな役割を担わなければいけない場面は、他にもあるだろう。
取締役会なんかだと、社外取締役や監査する側が、なぁなぁだと、経営は崩壊してしまうだろう。不正が起きるかもしれない。
成果物のレビューや、プログラムのコードレビューもそうだ。自分を守るために甘いレビューをすると、レビューしている意味がなくなる。
厳しいことを言うのはつらい。優しいことだけ言ってる方が楽だ。後になって、言い過ぎたかな、と少し落ち込むこともある。
相手にとって耳の痛いことを言うのは、嫌な役回りだが、あえて苦言を呈す人がいなければいけない場面もあるのだ。
なるべく本人への意見ではなく、作品や成果物など、出されたものに対する意見とするよう心がけてはいるが、それでも傷つくよね。
レビューをうまくやるテクニックはあるが、それはさておき大前提として、自分のことは、もう見えない位遠い向こうの棚に上げておかないと、厳しく言えない。
コンサルタントやスポーツのコーチなんかは、自分ができないことでも、きちんと指導をするから、その存在に意味がある。
人は自分のことは、自分ごとになればなるほど、見えなくなることもある。楽観バイアスがかかることも少なくない。
だから、外部からの第三者の視点は、それだけでも、とても価値がある。
そう考えて、審査のときなんかは、役割だからと、自分のことは棚に上げて、あえて厳しいことを言っている。
うん、まぁできるなら、何を言うにも、なるべく自分のことを棚に上げなくても良いようにしたいし、そのためにも自分にできる努力はしていきたい。