全人教育の価値体系

修理固成
Cre8 University
Published in
Apr 21, 2018

教える人も教わる人も、何物かがヌケているのではないか。

詰め込み教育、就活予備校、出世病、非人間的教育…これらが教育を破綻させ、マコトの人間を破壊している。今ほど全人教育、綜合全一を必要とする時代はない。

全人とは、綜合人格すなわち調和ある人格を意味する真人間である。哲学のない宗教も、宗教のない哲学も生命がない。だから、生命がもつ全体の卓越性を再発見するための筋道が要る。そのためにこの全人教育の価値体系がある。

人間文化には六方面がある。
すなわち、学問、道徳、芸術、宗教、身体、生活の六方面。

学問の理想は真であり、道徳の理想は善であり、芸術の理想は美であり、宗教の理想は聖であり、身体の理想は健であり、生活の理想は富である。

特に、知情意の三作用に対し、価値として「真」「善」「美」の三つがある。

全人教育の理想とはすなわち学問(真)、道徳(善)、藝術(美)、宗教(聖)、身体(健)、生活(富)の六方面に価値を創造することだ。この6つの文化価値が、秋の庭前に整然と花咲くコスモス(Cosmos)の花のように、調和的に成長してほしいのだ。

学問でも、藝術でも、道徳でも一々突き詰めていくところに、超感覚的な極致、超世界的な聖域が開けてくる。プラトンは真善美の上にさらに「最高善」を置き、カントはそれを「神聖性」と述べている。

だから、図の中真には「聖」と置いた。人間の生活はすべて統一せる全我活動であって、決して分裂したものにあらず。人間の精神生活の総量、人生生活のあらゆるものの綜合が宗教経験(聖)である。

統べ括って、教育の根本命題としての真善美聖だ。

真に「人」が純粋に神ながらに成長していくならば、当然そこには渾一的調和的境地が現出される。この境地こそは、哲学だの道徳だの芸術だの経済だのと分けることはできない。そこにては、一切が芸術であり、道徳であり、宗教であり、学問であるのです。ただそこにはひとつの生活文化そのもの、「人」そのものの営みがある。ひとつの「純一」のみが残される。

「二つを一つに」

貧乏人の教育もやったが、金持ちの子の教育もやった。
天才教育もやったが、劣等生教育もやった。
並外れた虚弱児も世話したが、並外れた体育家も仕上げた。

肥桶も担がせたが、ピアノも弾かせた。
聖書も読ませたが、算盤も確実にさせた。
大バカになれと教えたが、蛇の如く慧くとも教えた。

背広も着せたが、労作服も着せた。
最も男女生を近づけたが、最も男女生間の純潔を保たせもした。

高遠な理想家だが、着実な実行家でもあった。
奔放な空想家だが、綿密な実際家でもあった。
極めて胆は太かったが、極めて細心でもあった。

物質を最も使用したが、物質に最も淡泊だった。
理解力はすこぶる広大なくせに、頗る我は強かった。
人一倍怒りん坊だが、人一倍泣き虫だった。

最も妻を愛したが、最も妻に暴君だった。
誰にも負けぬ国際主義者であるが、誰にも負けぬ愛国者だった。
複雑極まりないが、極まりなく単純であった。

最も個性を生かしたが、最も他のために働いた。

反対のものを一つにする名人 — 小原先生

絶対矛盾の自己同一”を示唆した西田幾多郎先生は「真善美の合一点」という論文を遺している。それは宇宙の本体や如来の発見であり、桑原自身の言葉で云うなら「∞」だと念えてならないところ。

Illustration:M・Yoshikawa

人間の最深内奥より湧き出づる霊肉合致の妙境、理想と現実の二つが止揚(アウフヘーベン)された真実の世界を開拓せねばならない。

ところが、世の指導役となるべき教師が、指導どころか、三十年も四十年も後からよたよたと喘いでいるとは!

それどころか、⚪︎⚪︎理論や何々教育といって狭いイズムの世界の中にかぶれすぎている。アクティブラーニングといえば一斉教授なぞどうでもいいと蔑視され、なんとかラーニングといえば決まったメソッドがあると早合点され、個性尊重といえば身勝手個人主義と同一視される。

自由教育といえば子どもに唯好きなことをさせることと思い込み、教えない教育といえばなんでも子どもに答えさせ教師は一言も教えてはならぬように勘違いするなど、本質を捉えないで形体に心酔し盲信しているなんてことが少ないくない。一参考にはなろうがスベテではあるまいのに、世に皮相なる参観人や悲愴なる模倣者の多いことよ。

これでは、教育理想の「ある一方面」の開拓の意味しか有せない。ただ方法論を捨てよ、根本問題や思想だけでよいと訴えたいわけでもない。方法の末節に囚われすぎた本末転倒を、根本から究めなおそうというだけ。両方が等しく大事であるため、不均衡から動的平衡へ来いということ。根本ばかりこだわって方法が蔑視される時代が来たら、その時は方法を訴えよう。

従って、全てはひとりの生きた人間の側面に過ぎない。相補い相助けることで真に人間の本質に叶うならば、全て可。何も恐れる必要もない。嫌うことも、かぶれることも要らない。念とすべきは、全体と核心を掴むことだ。

時代が変革する一大波頭に出くわして、いかに舵を切るかが問われている。新しい時代をつくる生命の芽が吹き出る時を待っている人が大勢いる今、一人一人の生命に起こっている真の要求を感知できるかできないかが、個人にとっても世界にとっても重要なことになってきた。

真我の燦たる霊光を以って、無明の暗を照破せよ。そして、大きな雅量と、広く深い識見とを以ってコペルニクス的一大転回を試みなければならない。

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