α9で考えたこと

おそらく、LeicaM-Dという選択肢が頭に降ってきた原因のカメラ。

理由は殆どの場面で失敗の確率が少ないカメラとなってしまったから。ここまでいって、オリンパスのプロキャプチャーモードを搭載したら、シャッターチャンスという言葉がなくなるかもと考えてしまった。時間の問題かぁ~と思っていたけど、まだ現実味はなかった。ところがα9の登場で現実味を帯びてきた。失敗の率を極限まで下げることのできるカメラ。こういったカメラが登場してきた時、日常の記録と言った場面で写真は?どうなる?videolog?livephoto?

livephotoの凄さを勝手に感じている。カメラがここまで到達したときに出せる手の一つ、アップルはそこを見越していたのか?故に撮影機会のネックとなる容量を削減するものまでだして。まぁパナソニックの4kphotoと一緒じゃないかと言われればそうね~と言うしかないが。

私が思うにα9など撮影結果を見ることができるカメラは、目的、撮りたいもの、情景が決まっている場合、すごく便利なものだと思う、ただそれ以外日常を記録するためにそこまで必要かと考えると私には必要ないみたい(考え方が古い?)私が日常を撮るときは、ここから矛盾が始まりそう。何気ない場面を残したい。これが発端でここから行動に移る、α9だとほとんどの場面で野球でいうヒットの写真が取れるだろう。これで何が不満だ!と思うかもしれないが不満である。それは私という要素を入れたいから、それは構図などでできるかもしれないが、ここで言う私は失敗の仕方。ここが矛盾残したいけれど確実に残したいわけではない。だが残したい。そういったもの、運といったものに任せる。

話は変わって、ばあちゃんの家で見た古い手紙、そこには、優しさあふれる文面。手紙を書いた人の話を聞きながらどんな人かを想像する。多分私はこういった。今は全く関係ないかもしれないが、ずっと先でわたしがいなくなったとしても、ふりかえってねぇ~といいたいのだろう、やっぱり出しゃばりだなぁ~自分

といったことを考えると自然とフィルムカメラになるのだけれど、あれは逆に手間がかかりすぎてしまう。かかり過ぎてホント意味でタイムカプセル化してしまいそう。

となると液晶画面のない、絞り、シャッター速度、ISOこの要素だけを操作できるカメラが必要になる。現代にそんなカメラがあるそれがLeica M-D

失敗写真:ホントはバイクの横を撮りたかったが、間に合わずピントも間に合わなかった。

それは、失敗してもいい理由を作りたいだけでは?と問われればそれは違う。実際フィルムの頃はもう気が気がじゃない。ちゃんと撮れているかはわからず、全く撮れていなかったらどうしようと、ひたすら考える。だから、失敗しないために露出計で測ったり、それこそ確認できないぶん、神経質になる。じゃ液晶あったほうがいい?と思ったら、この問題はループする。

そう、まだ私の中ではっきりしていない、記録として残そうと思う。

文面めちゃくちゃで申し訳ない。

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