ローマ人の物語を読めない人のためのユリウス・カエサル概論

塩野七海氏の「ローマ人の物語」で最高にボルテージのあがるガリア戦記からルビコン越えを勧めたら「ガリア戦記の最初の10ページで力尽きた」と言われた。

歴史小説を読み慣れてない人や、ヨーロッパの地図が頭に入っていない人には大分辛いというのは理解できるのだが、とにかく僕はこの話が好きで好きでしょうがないので、なんとか分かって欲しい!それでは、ということで自分なりに必要な情報をまとめて、少しでも興味をもってもらい本を読む気力を出して欲しいと思い、この文章をまとめ始めた。

少なくとも本を読むよりは簡潔にこの辺りの話がまとまっているはずです!


なお、自分は塩野七海氏の本とWikipedia以外ローマ史の勉強はしていない。齟齬がある場合は、自分が司馬史観ならぬ塩野史観に毒されているからである。決してここに書いてあることが真実だと決めつけないように。自分で他の資料も当たってみましょう。


社会背景

ローマは王政から始まり、その後紆余曲折を経て現代の議会に似た元老院が国政をあずかる共和制に移行した。元老院議員達は持ち回りで様々な役職に就き、国を運営していた。

この元老院による支配は共和国がまだローマのまわりのみを支配していた頃はりっぱに機能していたが、戦争に勝ち領土が広がっていくと同時に社会が成熟していくと、様々な社会の仕組みの歪みが浮かび上がっていった。

カエサルの登場前には貧富の差や格差のために様々な抗争があり、このころローマは一時期内戦状態だったこともある。

その一端としてガイウス・マリウスの台頭があった。彼は平民出の軍人・政治家であり、その出自のため彼の権力の基盤は元老院(いわゆる貴族)ではなく民衆にあった。そのため既得権益層である元老院と対立し、独裁者のように振る舞う時代もあった。

その後権力を手中にしたルキウス・コルネリウス・スッラは元老院支配こそが国家を運営するのに最適だと信じていた人物で、彼は武力を盾にローマを包囲し、独裁官(ディクタトール)に就任し自分の信じる体制を強化するために何百人という人間を処刑し血の粛清を行った。その後独裁官を辞任し、ローマを共和制に戻す。この粛正の成果により、この後しばらくは元老院体制は安定し、続くこととなる。

なお独裁官について補足すると、通常時の首相/リーダーである執政官(コンスル)は二人おり、何事を決めるのにも二人で合意する必要があったが、独裁官に限っては非常時の特殊な危機管理ポストだったため、超法規的な権限を与えられていた。

ローマの国際的な立ち位置

ローマはこの時代にはすでにポエニ戦争を経てアフリカ北部を属州化し、その後マケドニアを滅ぼしギリシャ、そして小アジアの一部もその版図に加えていた。

この段階ではまだ我々の知るヨーロッパは存在しておらず、大部分は人は住んでいても未開の地だった。旧カルタゴ領のカルタヘーナ、ギリシャ人植民地のマルセーユ等は版図に入っていたが、基本的にローマの影響力の及ぶ範囲は地中海沿岸付近に限られていた。

この時期、本気でローマに対抗できる国家は他に存在していない。ただ、フランス圏のガリア人の各部族、そしてドイツ以東の森に住むゲルマンの部族は定住をせず、時折食料危機等があるとローマ勢力圏になだれをうって移動し略奪をしていくので武力をもって対処する必要があった。

カエサルという人物

まず、興味を持って貰うために敢えて言い切ると、カエサルとは日本の歴史で言うところの織田信長である。

彼は体制側に生まれていたのに、変革者であり革命家であった。戦えば(ほぼ)勝ち、愛人を方々に持ちながら女達からは恨まれなかった。若かりしころは借金にまみれたが、金にはこまっていなかった。自分の生き方のポリシーをはっきりと持ち、当時のラテン語を極限までに洗練させた文化人としても知られる。

カエサルが歴史の表舞台で生き生きと動き始めるのは彼が40代になったころからである。

カエサルは紀元前五世紀頃の王政時代までさかのぼることができる家系の出であるが、彼の家系は貴族ではあってもそれまでほとんど歴史の表舞台にはでていない。つまり、貴族ではあってもそれほど強力な後ろ盾が最初からあったわけではなかった。

また、前述のスッラの粛正の時代に20代だったカエサルはローマから追放処置を受けている。遠縁ではあったが、彼も民衆派ガイウス・マリウスの縁戚であったからだ。そう言った事情もあり、彼の公的な生活は最初から前途多難であった。

カエサルはその後ローマに復帰し、元老議員として国政に参加し始める。

ガリア戦記

そんな中、カエサルは執政官を勤めた後、前執政官(プロコンスル)としてガリア属州知事として就任する。当時のローマ本国で軍隊を持つ事は執政官であれ許されていなかったが、属州に赴いている間プロコンスルは軍隊の指揮権を得る事ができる。彼は未だ安定していないガリアの地に軍隊を持って向かった。

なお、カエサルの赴任直前からすでにゲルマン人の西進に突き動かされる形でガリアでヘルヴェティ族が前述の民族移動をし始めており、すでに不穏な空気が流れていた。ひとつ間違えばこれらのガリア部族達は玉突き事故のようにお互いぶつかり合い、最終的にはローマの版図内に侵攻してくるのは目に見えていた。

結局のところ、ローマに安全をもたらすにはガリアに安定をもたらす必要があり、さらにそのためにはゲルマン人達を確実に抑えておく必要があったわけだ。

カエサルはこの状況を鑑みて、ガリア制覇に乗り出す。それまで大小様々な規模に別れていたガリアの諸部族を攻略ないし、外交でまとめあげ、安定したガリア — 後の西ヨーロッパを「作る」ことにしたのである。

カエサルはこの後約9年に渡りブリタニア上陸も含み、ガリアで転戦していく。その後ヴェルチンジェトリクス率いるガリア連合の最後の抵抗も抑えガリアを平定する。

ルビコン越え

カエサルがガリアを平定すると、当然のごとく本国では彼の名声はあがる一方であった。しかし元老院議員達はそれまでも元老院体制を公然と批判し、民衆を味方につけ様々な横紙破りを行ってきたカエサルに対してもともと良い感情を持っていなかった。

そしてカエサルの名声がああるにつれ元老院側はカエサルに権力が集中するのを恐れた。その当然の帰結として、ガリア制覇がなった時点で元老院はカエサルの速やかな罷免を狙っていた。

当時元老院は「元老院最終勧告」というものを発行する権限を持っていた。

これを発行された相手は「国家の敵」と見なされ、裁判無しでの死刑も許されていた。

彼らはこのカードをちらつかせ、カエサルに属州知事を辞させて軍団司令官としてではなく一市民としての帰国を命令していた。しかし軍団無しで帰国するということは丸腰で虎の檻の中に放り込まれるようなものである。

最終的にカエサルは帰国命令をよしとせず、禁断のルビコン越えを決行する。

ルビコンとは当時のローマ本国の北端にあった川である。これより北は属州、南はローマ本国。そしてこの川以南に軍隊を伴って渡れば国家に刃を向けたものとされ、国法を犯した事になる。そうすれば内戦が始まりローマ人同士の殺し合いが始まる。

しかしここを超えなければ彼と彼が9年間苦楽をともにしてきた兵士達、そして彼のシンパ達の身の破滅は避けようがない。

ここで彼は迷ったと言われる。

「ここを超えれば、人間世界の悲惨。超えなければ、我が破滅」

そして彼はルビコン川を渡る決心をする。

「進もう、神々の待つところへ、我々を侮辱した敵の待つところへ。賽は投げられた!」

内乱記

元老院派はカエサルがここまでするとは予想していなかった。元老院派は当時切っての武将であるグナエウス・ポンペイウスを旗印としており、この当時の体制側の全てに真っ向から反抗してくる愚行をカエサルが犯すとは思っていなかったのだ

ルビコンを越えたカエサルはその後、電光石火でローマ本国を掌握し、独裁官に就任した。カエサルがローマの正統政府をその手中にしたころ、ポンペイウスと数百人の元老議員達はギリシャに逃れ、ギリシャで暫定政府を維持しながら反撃の時を待った。

当時の地中海世界ではローマ以西は社会の成熟度合いが低く、ひいては経済力もギリシャとアジアを含む東方とは圧倒的な差があった。それもあって元老院派は潤沢なリソースを持ち余裕を持ってカエサルとの戦いに備えていた。

対するカエサルは正統政府を掌握しており大義名分は持っていたが、いかんせん人手不足と資金不足は否めなかった。

人手不足はその頃までに充分な戦闘経験のあった中堅以上の元老議員は皆ポンペイウスとともに国外に脱出してしまっていたからである。カエサルの手元には若い世代の経験不足な人員ばかりだった。

ただ、そのおかげでカエサル派はカエサルの一存で動かす事ができた。元老院派は皆自らの権益のために行動を起こしたいがためになかなか統一的な見解の元に行動することはできなかった。

カエサルの圧倒的な不利ではじまった元老院派との戦いは紆余曲折を経て最終的にファルサルスの戦いでカエサルの圧倒的勝利で終わった。

ポンペイウスは逃れ、エジプトで再帰を目論みエジプトに渡ったが、元々そうするつもりであったエジプトの高官達の手による出迎えの一隊に部隊から引き離され、殺された。ポンペイウスを追ってきたカエサルには油漬けのポンペイウスの首が送られた。

アレクサンドリア戦記、その後

カエサルはその後エジプトはアレクサンドリアに滞在していたが、その時にエジプトの後継者争いに巻き込まれる。有名なクレオパトラとカエサルの逸話はこの頃の話である。最終的にクレオパトラを王位につけ、しばしの休暇を楽しんだ後カエサルはエジプトを後にする。

彼は小アジア地方から逆時計回りでローマの覇権の確認を様々な国々と行い、ついに覇者としてローマに戻った。なお彼はこの時期にエジプトの天文学者達に命じて、ずれる一方であった暦の改革を行い、ユリウス暦を策定、施行する。この暦は1532年にグレゴリウス13世によってグレゴリオ暦が制定されるまで約1500年間の間地中海世界で使われる事になる。

カエサルは終身独裁官、という地位を手に入れていたが、皇帝にはなっていない。ローマの初代皇帝はカエサルの養子であるオクタビアヌス(後のアウグストゥス)である。

もちろん、いつか彼は皇帝かそれに準ずる称号を自らに与えていたかもしれない。しかしその日はこなかった。

カエサルは内乱の際に自分と敵対したほぼ全ての人間を許し、地位の剥奪もしなかった。しかしそれらの中の不満分子達 — しかも彼らは誰もがカエサルの身を害しない事を誓約する文章に署名していた — に、元老院議場内で寄ってたかって刺され、殺された。

紀元前44年3月15日、カエサルは死んだ。

この後カエサルが遺言書で指名した後継者であるオクタビアヌスは「クレオパトラとアントニー」で有名なアントニウス派との内戦を含む権力闘争に13年かけ、最終的にオクタビアヌス率いるカエサル派がローマを完全掌握し帝政ローマが始まっていく。