自由と孤独と「知るに価する情報」

その「事実」が知るに値するかなんか、だれにもわかりません。

「対立か共闘か? メディアとプラットフォーム」
http://www.nhk.or.jp/d-navi/link/bundan/article04.html
最近、目にするようになった、「フェイクニュース」(デマ)について、 CNNやガーディアン紙、バズニュースとかと、フェイスブックやグーグルの人らが議論したそうです。

「知るほどの価値」は誰が決めるのか

すべての真実に「知るほどの価値」があるわけじゃない。どうも「すべての真実には知るだけの価値がある」ことを前提にしているように読めた。そして「真実に知るほどの価値があるか」を決めるのはジャーナリストとかの人ではない。

たとえば、お医者さんのしごとは「命を助けること」だけれど、医者は「その命には助けるほどの価値があるか」を判断しない。診察で「あなたの命には助けるほどの価値がない」なんて言われたらこまるじゃないですか。内心そう思っているかもしれないけれど、基本的には目の前の命は助けようとすると思う。

上のURLの記事に登場している人たちも、へんな話だけれど「その真実には知るだけの価値があるかどうか」を判断できないし、たぶんしていない。いや、もちろん「私の伝えたことは、皆さんにとって知る価値がある」と主張するとは思う。けれどそれは医者が、「私の助けた命はすべて価値がある」というのとあんまり変わらないし、その主張を支える根拠は、実はないんじゃないかな。

「真実に知るほどの価値があるか」を決めるのはジャーナリストとかの人ではない。すべての真実に「知るほどの価値」があるかどうかなんか、わからないよ。

価値を決める自由のさびしさから逃げ出したい

もっと直接的に「知るほどの価値があるか」を決めるのは、視聴者だったり読者だったり、情報を受け取った側です。価値があるかどうかどちらを選んでもいい。そこにはものすごい「自由」がある。

自由度が高まると、同時に「孤独」も増します。たとえばテレビでお笑い番組を見ていて、基本的にはどの場面で笑ってもいい。何人かで見ていても同じ。いつ笑おうと自由。じぶん一人だけが笑う場面があってもいい。そんなの自由。

けれど同時に、さびしさ=孤独感も抱くはず。もし一人だけ笑いどころがちがったら。

なので、だんだん笑いどころがひとと同じになるよう、「調整」するようになる。あるいは、じぶんと笑いどころが違う人とは離れていき、同じ「センス」を持つ人といっしょにいるようになる。

孤独からの逃走イコール自由からの逃走。

「知るほどの価値があるか」を決めるのも同じで、人間は孤独に耐えられなくて周りに合わせるか、あるいはじぶんと同じ人を探すかしはじめる。

FacebookとかTwitterとかはそれを助けるかもしれないけれど、この2つがあるから人間が「そう」なったんじゃなくて、はなから人間にはそういうところがあるんだと思う。生存本能かなにかで。

そんな僕らが判断する「知るほどの価値」は、はたして正確なんですかね? びみょうじゃないですか? 「読者が決める価値」もたいしてアテにはならない気がしますよね。

だから、「知るに価する情報」は、いつでも相対的なものです。

じぶんが期待していることは何か、わかっているか

もうひとつ「知るに値するか」を決めているポイントは、「期待」だと思う。情報を道具として使うには、少なくとも「期待」に応えてくれないとこまるから。

ぼくらがスマホを、しくみがわからないのに使えるのは、「あ」をタップしたらちゃんと「あ」って表示したりするからです。「あ」を押したら「あ」が出てくる期待に100%応えてくれるから。これが50%の確率で「き」とかが出てきてしまったら、使いものにならないじゃないですか。

つまり、「期待」に応えてくれないものを、ぼくらは道具としては使えない。なので情報も、「期待」に応えてくれるものかどうかで受けとめていますよね、ということです。それが、まちがった期待であることも、おうおうにしてあるのだけれど。

なので、情報を送る側は、ときに、受ける側の「期待」にそむかないといけない。それもけっきょくは孤独な作業なのかもしれないけれど、しょうがないよね。

逆に、受ける側としては、「じぶん自身がいったい何を期待しているのか」を、きちんと把握することがだいじなんだろうな。じぶんが期待しているものは何か、じつはわかっていないことが多いのかもしれない。そんなわけのわからないものに、じぶんの得る情報を左右されてたまるかい、と思えるかどうか。

「知るに値するか」を孤独に決められるか、じぶんの「期待」をじぶんでコントロールできるか。そういうのは大人になってからでも、トレーニングで身につけられるのかどうか。それが、過去をくりかえさないようにするポイントだと思う。

すくなくとも人間は、自由から逃げ出してしまったことで、アテネとドイツの2回失敗している。高まった自由から、孤独から逃げるために、共感などを最優先したデマが蔓延して、何が起きたのかは知っていても損はないと思います。

結論を忘れていた

上記みたいなことから、必要なのは対立でも共闘でもなくて、「孤独」だと思います。メディアもプラットフォームも、それぞれが孤独に決めたり行動したりするほかないんじゃないかな。

世の中のたいせつなことは、だいたい孤独に決まっている気がする。

Show your support

Clapping shows how much you appreciated KTHK’s story.