豊かさとつながりと資本主義

最近、転職をしましてSTANDARDという以前インターンをしていた会社に再びお世話になることになりましたが、この会社でのミッション(会社の存在意義)において、「豊かさ」というキーワードがあり、豊かさとはなんぞや、と考えている最中でもあります。

個人的にもデザイナーという何かしら人々の問題を解決していく仕事に携わるのであれば、この大きな命題の追求は必要なのではないかと。問題解決するには理想の状態が描かれていないといけないわけで、そもそも理想の状態や今よりもっと良い状態があるであろう、という考えがなければ目の前の事象が問題だということにも気が付かない。

でもここにおいて「良い」とはどういうことなのか?って判断基準は非常に難しいですよね。何かしら豊かな未来や良い社会にするために働いているけれどもそれはとてもふわっとしたものでもあります。

その豊かさを”つながり”という観点から考えて、資本主義社会のこれからと絡めながら少し考察したいと思います。

物的豊かさについて

物欲なき世界」という本にもあるように人はモノを買うことが減ってきています。物欲が失われてきている。CDを買わずにストリーミングで聞いたり、車を買わずカーシェアをしたりと、単にモノによって心が満たされる時代は終わりに近づいているのではないでしょうか。

時代背景から追っていくと、戦後の日本はあらゆるモノに対する需要が非常に大きかった。それゆえに急激な経済成長を遂げられたが、それによって労働力確保もあって人口が地方から都市部にどんどんと流入していきました。しかし、都市部の人口は増えても仕事で昼間はいないので近隣と顔を合わせることも少なかったりと、周囲の人とのつながりは希薄化していきました。

欲求はモノを買うことで満たされていたし、それがある種の幸福の象徴的な意味合いを持っていた。そのためにお金も稼いでいた。ただ、近代化に成功してモノに溢れかえった現代では、物的豊かさは満たされはじめ、次第に価値観がシフトしているのは、誰しもが薄々感じていることでもあると思います。

モノからコトへ、と謳われているのもそれの1つですし、地域復興やコミュニティデザインなどといった、人のつながりに注目が及んでいるのもその1つなのではないかと。

幸福は良い人間関係から

最近見たTEDに「人生を幸せにするのは何? 最も長期に渡る幸福の研究から」というプレゼンがあり、とてもおもしろい内容でした。

心理学者のロバートさんは、人類の幸福と健康に寄与するものは何なのかを知るためにハーバードで成人発達の研究をしています。この研究プロジェクト、1938年から始まり75年間で724人もの男性の全人生、つまり働いている様子や家庭生活などを記録してきたらしい大掛かりなものです。その間インタビューを続けたり、研究対象者の健康測定や脳画像の分析をしたりと、続けてきてそこでわかったことが、幸福にするには良い人間関係に尽きる、だそう。

関係が希薄な人は身体的健康や精神的健康に大きく影響を受け、ひいては脳機能にまで障害が及ぶことがわかりました。しかし、友人や家族の人数の大小には関係なく、身近な人との関係の質が高い人達は80歳になっても、もし身体的健康を害していたとしても、精神状態はとても優れていたそう。

もちろん、自分にとっての豊かさが全て人間関係に帰結しているのか?は考える余地は多分にありますし、幸福の尺度は人によっての差異はありますが、この人間関係、つまり人と人とのつながりは、社会が成立するうえでの基盤であることは間違いありません。

“借り”で生まれる人のつながり

そして、この”つながり”を読み解くにあたって、マルセル・モースの贈与論の概念が非常に有用なのではないかと思います。

パプア・ニューギニア周辺の島々に住む民族の間では、クラという交易が行われています。クラは数百キロも離れた部族間で行われるやりとり。一方の部族が、遠洋航海に出て、貝殻で作った首飾りや腕輪などを、他の部族に対する贈り物として持っていく。そうすると、それを受け取った人は、長い期間を経て、返礼として贈られた物と同等と期待される何かを贈り返す。ここにおいて、同等と期待される、というのは必ずしも等価でなくても良いということ。これらはそもそも贈り物なのであり、そこに品物に対する評価は与えないことになっています。

以上がクラの概要ですが、これが何のために行われているのか?それは、離れた地域におけるつながりを保つためだそうです。wikipediaには、

贈り物と奉仕の相互交換を2人の間に生み出し、何百キロメートルも離れた人間を直接または間接的に結びつけ、義務のやりとりで複雑な規則を守らせる。これにより、部族間に網目状の関係が作られる。

とされています。少しむずかしいのですが、噛み砕いて考えていきます。まずクラはあくまで贈り物であり、物々交換ではありません。ましてや現代に行われる貨幣交換でもない。つまりそこには、共通化された価値基準となる物差しはないので、必然的に幾ばくかの差が生じる。ここに対して、借りの哲学という本では”借り、負い目”という概念を持ちだして説明しています。

例えば、ボクは先日会社の先輩に飲みに連れてってもらい、恐縮ながらおごってもらったのですが、ここにおいてボクは飲み会代という贈り物(実際はお金だけでなく色々話きかせてもらったりも含みますが)をしてもらったと捉えられます。この無償の贈り物に対して、そこにはやっぱり、ボクの中で負い目が生じます。しかしそれは、「ああ、おごってもらった分、仕事で結果だそう」だったり「自分も後輩に同じようにして、若い世代につなげていかなきゃな」だったりと。つまりある先輩からの贈り物に対して、返礼の方向は必ずしも先輩に向くわけではない。それは違う人に向く可能性もあり、それは贈ってもらったものと必ずしも等価ではない。

また別の例では、家族におけるコミュニケーションも同じく借りの概念にもとづいているのではないでしょうか。無力な赤ん坊から、無償で養ってもらい、立派に育ててもらい、ボクらは大人になります。それは多大な贈与でしかない。しかし、それに対して借りを負う気持ちがあるが故に、社会人になって親孝行しようと旅行につれてったり、ご飯につれていこう、と思う。または、自分が子供を持ったときに同じような愛を持って贈与をする。これによってつながりの連鎖が生まれて成り立っています。

以上のような不均衡で不釣合いな状態が生じます。そして、それは”借り”という概念によって、人と人をつなぎとめ、時には新たな方向へのつながりを生み出すもの。これはまさに社会におけるコミュニケーションの基盤となるものなのではないでしょうか。

このような贈与と奉仕、それにより生じる借り、これらをベースにコミュニケーションは生み出されるのです。思えば、相手のために無償で何かしてあげること、それは深い関係が気づかれていれば必ず行っていることではないでしょうか。逆説的に考えると、その無償の贈与を通して関係性を深めていくのかもしれません。

しかしここに、経済成長を追求して、人々はモノの所有を追い求めた資本主義が犯した功罪が見て取れると思います。それは、「贈与」と「借り」を一切になくしたことではないでしょうか。

資本主義や貨幣主義によって、完全なる市場の等価交換が現在の社会経済の中核に据えられてしまった。つまり、借りや負い目が常に清算されている状態、よってつながりはそもそも断絶され、生まれづらくなってしまっている、と考えられます。資本主義は、モノの生産と交換における利潤追求に焦点を当て、人間の幸福に大きく影響する人のつながりが生まれづらい構造になっているのです。


これからは先に述べたような価値観のシフトに伴い、モノやお金に向かずに人とのつながりが生み出せる社会のあり方やシステムが必要になってくるのではないでしょうか。そこでは近所のおばさんからお惣菜をおすそ分けしてもらうことで生じる借りによって、つながりが保たれ潤沢なコミュニティの中で生活するなんてことが都市部でも当たり前に起きたり、孤独を感じず人と向き合う社会になっていく、そんな方向に向かっていくのではないでしょうか。

また今回は人のつながりに焦点を当てましたが、これに限らずサービスを手がけるデザイナーは常に何が人にとっても良いのだろうか?を考え続ける必要があります。Twitterがタイムラインにアルゴリズムを導入するというニュースありますが、それが本当に、良いことなのか。気づけば操作された形での情報にしか触れられなくなっていくことで、弊害はないのでしょうか。常に人や社会にとっての豊かさであったり幸福であったり良さとは何かを様々な時間軸で見る視点が必要とされているのを強く感じます。