World IA Dayから考える情報環境におけるデザイナーの責任

昨日行われたWord IA Day Tokyo 2016に参加してきました。今年のテーマは閉じこもるインターネットという本に出てくるフィルターバブルという概念とIAの役割に関して。ボクは職種としてはIAではなくデザイナーですが、以下、自身の観点からカンファレンスを通して感じたことを大きく2つに分けてまとめておきます。

そもそもフィルターバブルとは

まずフィルターバブルって何?という方に対して。これはインターネットにおいて、個々人が好きであろうという推測にもとづいて情報をパーソナライズして受け渡す、といったフィルターに囲まれた情報環境を表した言葉です。例えばGoogleで同じワードを検索してもボクと友人Aさんでは検索結果が異なる可能性がある。または、Amazonであなたにおすすめ、と表示されている商品もAmazonの独自のフィルターであなたが好きそうだと判断されたものしか出てきません。

要は、ボク達はひとりひとり異なる情報環境に身を置いていて、それは無意識的に無自覚的に構築されています、そして選択の余地なく一定偏った情報を受け取っているわけです。最近だと、Twitterがタイムラインにアルゴリズムを導入することなんかはタイムリーな話題ですよね。

心地いい情報環境

こうなるとボク達は基本的に興味関心のある情報にのみ包まれた「心地よさ」から抜け出せなくなるのではないかと。世界は自分の認知によって成り立っているわけで、自分の心地よさの外側にある情報が全く見えず、それに気づかない場合、その世界っていうのは自分にとって存在しないも同然なのではないかと思います。

というのも丁度昨日イベントに行く前に、ジャーナリストを目指している後輩と久しぶりに会ったのですが、彼は先日難民の取材のためにギリシャへ行ったそうで。

経済破綻をしたギリシャの光景や、そこで出会ったドイツを目指しているパレスチナから難民の生々しい描写を彼から聞いて、かなり衝撃だったんですよね。それは普段、自分が仕事していたり生活している上では到底接しえない情報で、接したとしても受動的にニュースで流れてたら耳にするくらい。しかし生で一次情報を得た人から聞く話は全く違う。そのような興味や視野を広げて考えさせてくれる情報や、自分の外側の世界にあるけど実はとても意味のある情報に出会えることってあんまりないんだな、とその話を聞きながらまさにフィルターバブルともつなげて考えていたわけです。

話を聞いてる時、自分の興味範囲や好ましい情報に身を包んでいる「心地いい」日常から引き剥がされたような感覚がしたんですよね。それは4前に、東日本大震災の被災地に自ら足を運ん見て感じた、石巻市の海岸沿いの光景や確かにあったはず人の日常の面影、それらを目前としたときに似た感覚になりました。そういった心地よさを突き破って目を背けたくような現実世界もあるということを知るのってとても大事なことではないのかなと。

リテラシー問題とデザイナーの説明責任

ただ勿論、やっぱりフィルター自体は必要なんですよ。今自分が欲しい情報が得られやすい情報環境自体は便利であって、それが今なくなったら困るわけです。だからこそ、自分自身がその状況にいることを認知して、自分自身で異なる情報源を取りに行ったりすることが重要だと思いました。All or Nothing ではなくて、バランスなんですよね。別に簡単にできるアクションもある訳で、本屋行くとかでもいいんですよ全然。普段あわない人とか全然ちがう業界に就職した友達に久しぶりに会って話聞くとかでもいいんですよね。

しかしそこでカンファレンスでも論点となっていたのが受け手の無自覚、という点。メディア・リテラシーの問題です。そもそもリテラシーが低ければ、偏りある情報しか得られない状況に気づかないし問題視もしないわけですね。じゃあここに関してどうしていくのか、と。

勿論、根本突き詰めると教育問題に帰着してしまい、いちIAやデザイナーが出来ることはすくない。しかしそれを前提としてそこで思考停止してはいけない。少なくともデザイナーはじめ事業やサービスの作り手が出来ることとしては、説明責任を果たすことだと。作り手が、しっかりとそこに透明性を持たせる。なぜそういうアルゴリズムなのか?なぜそうする必要があったのか?どういう思考過程がそこにはあったのか?そういったことをわかりやすく説明して、受け手の理解を設計することが重要。それが松浦さんや櫻田さんも話していた”信頼”にもつながるし、受け手のリテラシー向上にも多少なりとも寄与できるのではないか、ということが述べられていました。(限界があることは否めませんが)

この透明性っていうのは、思えば去年からさんざん言われてきたことだと思います。オリンピックのエンブレム問題などにもありましたが、プロセスや意図を作り手も委員会も開示すべきだと。また、wikipediaが「インターネット初の透明な検索エンジン」をつくるプロジェクトを始動させたりもしているそうで、この動きは加速させていかないといけない。

デザイナーの倫理責任

もう1つは、パネルディスカッションで話されていたキーワードでもある”倫理”に関してです。先にも述べたようにやっぱりフィルターは便利で必要なものではあります。ただ、それによってセレンディピティの損失などといった弊害が起こる。(これが本当に弊害なのかという点はありますが)

パネルディスカッションにおいて、メディアというコンテンツ発信の立場での倫理性みたいなものが問われていましたが、これはネットサービス全般に関わるものですね。

ネットってやっぱ世界中の人をフラットにつなげるわけで、それは素晴らしい思想なんですが、その分影響力も範囲も甚大です。現在は気軽にスタートアップ立ち上げてサービス作って、みたいな人が増えてきて好ましいことなんですが、そこでデザイナー含む作り手は、今手がけているものが社会に対して及ぼす良い面だけでなく、悪影響の可能性についても考えることが必要なのかなと。

ネットサービスって、ユーザーという言葉で括ってしまえばそれまでですが人間1人の人生を変えられるわけです。Googleで得られる情報を常識として受け入れてしまうのであればその人の思考はGoogleによって形作られていくわけです。そうなればその人を洗脳操作もできてしまう。

だからこそ、作るものにもっと責任を持つべきだし、もしくは作る前にそこの倫理性を問うことがとても重要。もしかしたらそのサービスは一定の価値を一部に対して生み出したとしても、レイヤーを上げてみたり、時間軸で見たら何かしらの悪を生むのかもしれない。だからこそ、人の認知を通して影響をあたえることのできるデザイナーはもっと倫理責任と作ったものに対する責任に自覚的であるべきなんだと感じました。そこの責任をデザイナーが全て負うとかって極論ではく、そういう意識を持ちつつ作り手全体も受け手も含めたステークホルダーと共有する、という姿勢を少しずつでも持ち始めないといけないかなと感じました。