Masaharu Higashino
9 min readMar 24, 2015

【ネタバレ】なぜアシタカはサンと一緒に暮らさないのか? もののけ姫

もののけ姫

作品テーマ:「文化の衝突」

人は自ら生まれ育った文化を簡単に手放すことができない。

だから、人は争うし、戦争は終わらないんだ。

「もののけ姫」は、そんな文化の衝突を描いた作品である。

■アシタカの文化

主人公のアシタカは大和朝廷との戦いにやぶれ、大和の支配を逃れた部族の民である。

アシタカの部族では「人間」と「もののけ」が対等な関係で存在している。その象徴がアシタカとヤックルの関係である。

アシタカはヤックルに話しかけたり、ヤックルが傷ついた際には励ましたりもしているが、特に印象的なシーンは、旅の途中で、アシタカとヤックルが同じ物を食べ合うシーンである。

現代であれば、人間と動物が同じものを食べことは考えにくい。

実際には、人間と同じご飯をペットに食べさせる人もいるだろうが、それでも意識の上では、私たちは人間が食べるものと動物が食べるものを区別してしまっている。

その証拠に、私たちのほとんどが、一度動物が口にしたものを、口にすることができない。

この不可逆生は、私たちは、動物(ペットや家畜)が口にするもの物は「餌」と呼び、人間の食事とは別格のものとして区別していることによる。

つまり、同じものを食べ物を共有するということは、アシタカが人間と動物を対等な関係で捉えていた証でもある。

<アシタカとヤックルの食事>

まず、ヤックルに食べさせ、その後アシタカが食べる。

アシタカとヤックルの関係が垣間見れる。

タタリ神の呪いを受けたアシタカは、自らの部落を出ることになる。この時、髪を切ることになるが、これは自分の部落には二度と戻ってこないという誓いの儀式である。

この時アシタカは自分が育った文化の外で生きることを決意したのだ。

<アシタカの断髪>

二度と自分の部落には戻ってこないという誓いの儀式

アシタカは旅の道中で、ある里に辿り着く。そこは田畑があり、市場が存在していた。

アシタカの集落と比べると、かなり実に文明が進んでいる印象を受けるが、こうした人の手が加わっている部分は、アシタカが今までと異なる文化の地にやってきたことを印象付けている。

<田畑>

自然の恩恵では無く、田畑によって人の力で農作物を収穫している。

<市場>物々交換ではなく、お金でのやり取りが行われている。

■ジコ坊の文化

里でアシタカはジコ坊と出会う。

ジ コ坊は、天皇に勅令を受けた「唐傘連」の頭領である。

要するに、ジコ坊は天皇文化に属する人間なのである。

また、下記はジコ坊の台詞であるが、彼は神様や不老不死を信仰したりするよりも、見たまんまのものを信じる「もののけ姫」の作品の中では非常に珍しいタイプの人間である。

ジコ坊は損得勘定で行動するある種の「商人気質」な一面があったのではないかとも言えないだろうか。

■「獣とは言え神を殺すのだ」

シシ神退治についての発言。ジコ坊がシシ神を「神」としてよりも「獣」として認識していることが分かる。

■「やんごとなき方々の考えはワシにはわからん」

シシ神の首を狙っている理由についての発言。

天皇からの勅令に関してはあまり理由について深く考えてないことが分かる。

<ジコ坊>

天皇の名によって、シシ神の首を狙う。

また、作品の最後「バカには勝てん。」という台詞があるが、ここで言うバカとは、「天皇の支配を理解しないバカ」と「損得勘定ができないバカ」という二つの捉え方ができる。

■サン(もののけ姫)の文化

アシタカはジコ坊のいう方向へと旅をつづけると、

そこでは、戦いで傷ついたタタラの人間がいた。

彼らを助けようとするアシタカの目の前に現れたのは、

同じく戦いで傷ついたモロの傷を手当てするサンだった。

人間であるサンが、獣であるモロの手当をする姿。それは、人間と獣という境を超え、純粋な母へ対する慈愛の行為として、アシタカには「美しい」と映るのだ。

<母の傷の手当をするサン>

必死に母親のモロを救おうとするサン。タタリ神の憎しみによって文化を捨てなければいけなかったアシタカにとってサンの姿は、「美しい」と映る。

■エボシたちの文化

アシタカは傷ついた人間を救うため、山の中を通ろうとする。

そんなアシタカの目の前に現れたのは、コダマ(木霊)であった。

前を走るコダマに対してアシタカは言う

「道案内をしてくれてるのか。迷いこませる気なのか」

アシタカが、自然に対して身を委ねる文化に属していることがよく分かる台詞である。

これに対して、けが人であるコウロクは、「こいつらワシらを帰さねぇ気なんですよ」とコダマに対して否定的である。

これはコウロクが自然に対峙する文化に属する人間だからであろう。

<コダマを恐れるコウロク>

アシタカとは異なり自然を人間の力でコントロールしようとする文化にいるコウロクはコダマに身を委ねることができないのだ。

そうして、山を抜けたアシタカたちが辿り着いたのは、

エボシのタタラ場であった。

<タタラ場>

山を切り崩して築いた製鉄所は、自然に対峙する象徴的な存在として描かれている。

山を切り崩し、鉄を作り、自然に抗うエボシたち、そのエボシの鉄砲の玉こそが、タタリ神を招いた原因であったことをアシタカは知る。

エボシの文化、それは当然単に自然を破壊するだけの文化ではない。エボシは自然と戦ってでも守って来たものがあったのだ。

売られた女と重病患者、エボシは弱い立場の人間を守るコミュニティーを形成しようとしていたのだ。そんなエボシは、アシタカの「曇り無き眼」にはどのように映ったのか。

やがてアシタカはタタラ場で、エボシとサンの戦いを目の当たりにする。それは、アシタカが初めて見る「人間」と「もののけ」の争い

結局アシタカが出した答えは、「ここ(タタラ場)を出て行く。」であった。結局、アシタカはタタラ場の人間になることはできなかったのだ。

<タタラ場の女性>

タタラを踏む事で生計をたてている。

もともと社会的弱者であった彼女たちの明るくて強気な姿こそエボシが守ろうとしたものの一つなのである。

<重病患者>

病気がうつることを恐れてか、人が近寄らない。

エボシはそんな彼らにも仕事と酒を与え、人間として扱いをする。

やがて、エボシとジコ坊の「人間」はシシ神の首を狙い、

それを守ろうとするサンが属する「もののけ」と対峙することになる。

どちらの文化にも触れて、しかし、そのどちらの文化にも属することができないアシタカは、懸命に「共に生きる」方法を模索するも、結局その思いもかなわず、その場を去ろうとする。

そんな折りに、アシタカはタタラ場が侍たちに教われる事をしる。

そうして、アシタカは目の前に起きている悲劇を必死で解決しようとする。

それは、人間も、もののけも救おうとする道だった。

どっちの味方にもならない(なれない)アシタカに対して

エボシとジコ坊との印象的な台詞がある。

エボシ:「シシ神殺しをやめて侍殺しをやれと言うのか」

ジコ坊:「あいつ…どっちの味方なのだ?」

結局エボシもジコ坊も「人間」と「もののけ」、「タタラ場」と「侍」と文化を対立させる二元論で考えている。

しかし、そんな二人にアシタカは言う。

「森とタタラ場双方生きる道はないのか!?」

アシタカにとって「文化が違う=争う」にはならないのだ。

そうして共生の道を模索するアシタカが

最後にシシ神の首を返す際にサンに対して言ったセリフ。

「人の手で返したい」

「人間」と「もののけ」との争いをどちらかの勝利で終わらせるのではなく、双方がお互いを認め合う結末をアシタカは目指したのである。

■「もののけ姫」のメッセージ

「共に生きよう」

結局、文化が違いは、簡単には融合することはできない。

かといって対峙させてしまうと争いが起きる。

もともと人間であったサンですら、

もはや人間の世界では生きることはできないし、

それは彼女が背負ってきた歴史が、

そうさせてしまうのであろう。

アシタカもまた、もののけに属する事はできない。

一度は自分の文化を捨てた彼も、結局は人間としてタタラ場で暮らすことを選んだのだ。

そうして、アシタカは最後にサンに言う。

「それでもいい。サンは森でわたしはタタラ場でくらそう。共に生きよう。会いにくいよ。ヤックルに乗って」

文化の違いを融合も対峙も無く、共生の道を開くことができたのだ。

現代で考えてみる作品が公開された1997年だが、その6年前には湾岸戦争が開始しており、自衛隊をペルシャ湾に派遣。

1999年には周辺事態法が成立。2001年にアメリカで同時多発テロが発生しアフガニスタン紛争が勃発。2003年のイラク戦争の影響で日本は、イラク復興特別措置法を成立させた。

敗戦して、戦争をしないと決めた日本だが、世界でやむことのない戦争に無関係ではいられない。文化は衝突する。

じゃあ、そこに日本は、あるいは日本人はどうやって介入したらいい。

アメリカ側につけばいい?イラク側につけばいい?

だけど、私たち日本人はやっぱり日本人としてしか振る舞うことができない。文化の衝突し戦争している時にどちらかの文化に組するなんてことはできない。

ただ、お互いが違うということを認識し認め、共に生きようとするしかない。戦争がなくならない現代で日本人がどういう立場に立つべきかというメッセージが聞こえる。