フェイク
BGM:Tokyo No.1 Soul Set「Elephant Bump」
先述したようなエントリを書くと、大体の場合は「あなたの書く小説には恋愛が書かれているじゃないですか」という異論が返ってくる。
私は恋愛感情を理解出来ない。だからこの年齢になるまで彼女というものを特に作らなかったし、それでいいのだと思っている。死ぬ時は独りぼっちで死にたい、と。話が逸れたが、とにかく理解出来ないものはどう転んでも理解出来ないのであって、それは動かしようのない事実だったりする。
小説の中で恋愛を書けていると思われるのは非常に嬉しいことではある。それは自分が頭の中で(つまり、実体験を伴わずに)考えたことがリアルなことであるという、想像力が現実のコードの中にしっくり収まるということを意味するのだろうからだ。ただ、私は恋愛を描いていても結局は自分は脳内で作り上げた虚構を書いているというか、フェイクを書いているという意識しかない。これもまた確かなことだ。
フェイクということで言えば、話がまた逸れることになるが自分が書いている小説自体が先行する小説群のフェイクなのではないかと思うことがある。私は小説を書いていても、これが小説だと胸を張って言えるかというと戸惑ってしまうのが正直なところだ。例えば大江健三郎氏や金井美恵子氏が書くようなものが小説なのであれば、自分が書くものはそのフェイクに過ぎないのではないか、というように。
それは形式としては散文から織りなされているという点で似ているだろう。登場人物らしきものが登場し何らかの会話が起こり、そして出来事が発生するという点でも似ているだろう。しかし 99 %まで似せることは出来ても、残りの 1 %において自分の書くものは先行する偉大な文学作品の紛い物なのだ、という感を強くする。
音楽の世界で言えば、あらゆる表現はやり尽くされてしまったという絶望から出発しないロック・バンドがいるとするならそういうバンドは過剰に楽天的であるか自分に嘘をついているかのどちらかだろうと思う。既にジミ・ヘンドリックスが、あるいはビートルズやドアーズが、もっと言えばストーンズやボブ・ディランやヴェルヴェッツがやり尽くしたことの懐からどう出られるだろうか? それが重要な課題になって来るはずだ。
やろうと思えば今の高校生にだってジミ・ヘンドリックスのウッドストックのあの音は出せるだろうし、ギターを練習すれば完コピだって夢ではないだろう。しかし、それはジミ・ヘンドリックスが切り開いた地平から一歩も出るものではない。完コピ出来たからと言ってその人物がジミ・ヘンドリックスと同等のギタリストになれたかと言うと、そうでもないだろう。
話が纏まらなくなってきたのでこのあたりで一旦切り上げるが、例えば殺人を犯していなくてもミステリは書けるし、裏社会に身を置いたことがなくてもアウトローの小説を書くことは可能なのだ。私が恋愛小説に対して接しているのも、概ねそのようなスタンスにおいてである。
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