「雑につくる」への抵抗を消す方法

子どもとつくる、ノルマ化する

森哲平
テッペイの森

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「できない」という人を見ていると、本当に「できない」のではなく、「やっちゃいけない」と、まるで誰かから呪いをかけられているかのよう、禁止されているかのようなんですよね。

これは自分もそうで、自分は絵を描けない、絵が苦手と思っているので、「何でもいいから描いてごらん」と筆や絵の具を渡されても、ちっとも描きはじめることができない。自分にはできない、自分にはそんなの身につけられないと思ってしまっている。

本当は違ってて、雑につくって、改善していけば、結構いいものができるし、別にいいものなんてつくらなくたっていいじゃないか、「つくれ」と言われてるだけなんだから、それが「ベスト」「グッド」である必要なんか全然ないんですよね。

けれども、「雑に作っていいよ」どころか「雑につくれ」と言われてるのに、それでも「つくる」に対して抵抗がある。

個人的にこの抵抗を消す方法を2つ発見してる。①子どもとつくる。②ノルマ化する。この2つだ。

子どもとつくる、子どもと学ぶ

これが個人的には一番効果がある方法だと思う。子どもの前ではかっこつける必要がないし、子どもは完璧なものをそもそも要求してこないから。

最近、『作ることで学ぶ』という本を読んだ。これは「とにかくつくることが一番の学習だ」と主張している本なんだけど、これを見て、娘の教育についてちょっと考えて。勉強をどうさせようかと思ったけど、一緒にいる時間を何かを作る時間に、できるだけしていこうと思うようになった。

で、今作っているのが、娘が大好きな『かいけつゾロリ』シリーズの「ゾロリじょう」。お城ですね。もちろん、素材はガムテープ、段ボール、ビニール紐とかなんだけど、もう、これが楽しい。

つくる途中で娘は様々な道具の使い方を学ぶ。ひらがなも学ぶ。「ゾロリじょう」の看板を作らなくちゃね、ということで、一生懸命文字をかきはじめた。もちろん、たくさん間違えてる。でも、いいじゃないか。間違いを指摘するのは簡単だけど、文字を書きたくなくなると思ったので、そのままにしてる。すると、どんどん書きたがる。

一緒に作業しているぼくも、自分にこんなに「つくりたい」という気持ちがあることに驚いている。最初は面倒がりながら作っていたんだけど、半分近くまで完成した、段ボールの「ゾロリじょう」を見ていると、うーん、もうちょっとよくしていきたいなーという欲が出てきた。娘も「全然お城っぽくない」「お城に見えるようにしたい」「もっとかわいくしたい」「ベッドが欲しい」などと言い始めた。この時点で、小さく、小さくでいいのでバージョンアップをしていけばいいわけだ。

考えてみれば「できない」「雑につくれない」という呪縛は、基本的に、ぼくらが大人であることを演じさせられていることに基づいている。「大人を演じる」ことと「雑につくる」という役割が相反している。だから「雑につくれ」と言われても、真面目な人(つまり、真面目に大人を演じてしまう人)ほど手が止まってしまう。

そこで、子どもと遊びながら「子どもを演じる大人」を演じてしまえば、このハードルはやすやすと飛び越えられる、というわけだ。

ノルマ化する

「こんなことしたい。でも、私にはできない」「やりたいことがある。でも、私なんかにできるのだろうか」。

こういう風に相談してくる人は、非常に多い。そこで「こんなやり方がある」とクチャクチャとアドバイスしても、たいていはできないままだ。頭で考えていても、ちっとも「つくる」ようにはならない。

これはきっと「やりたい」ことというのは、一番「失敗できない」ことだからなんじゃないかと思う。

「やりたいこと」というのは、自分なりの強い理想があるものであることが多い。たとえば、パンが好きで好きで、パンをつくって販売してみたい、という人がいるとする。こういう人は、理想が強すぎて、普段から自分にいろいろと「呪い」をかけている。「あそこのパン屋はメディアでは紹介されているけれど、そんなにおいしくない」だとか、「パンとはそもそもこういうものでなければならない」といった形で。

その「呪い」が、自分がつくるときに、すべて返ってきてしまう。

嫌いなこと、やりたくないことなら「こんなの私じゃない」と言い訳できる。でも、好きなことだと、通常は「誰にも頼まれないのにお前が自分で選んでやったことだろ」ってことで、逃げる言い訳ができない。

自分が一番大事にする領域で、言い訳もできない状況で失敗したら。自分が深く傷ついてしまう。だから、みんな「ああしたい」「こうしたい」と言うのだけれど、取り組み始めない。

幸いなことに、自分がしたいことは、誰からも決断を迫られない。だから、いつまででも決断を先延ばしにできてしまう。「いつか」やりたい、というわけだ。

そこでこれを逆手にとる。「好きなこと」を、小さくていいから、ノルマ化してあげるのだ。

「チラシの下案つくって」「イベント案書いてみて」「記事書いてみて」など。本当に小さなことでいい。

他人から「ノルマ」として頼まれたら、とにかく「納品」するしかない。なので、いくら恥ずかしくても、提出せざるをえない。

で、ノルマを提出してきたら、そのクオリティをとにかくほめる。すると、皆、勝手に「もっとこうしたい」「ここを改善しよう」と取り組み始める。

ここがおもしろいのだけれど、提出してきてくれたものに対して、あれこれ意見を言うと、どんどんやる気をなくしてしまって、そこで改善がストップしてしまうのだが、「すごくいいじゃん」と褒めると、皆、勝手にいつまでも改善をしはじめて止まらなくなるのだ。

人間誰しも、自分がつくったものには愛着を覚える。つくったものがほめられたら、ますますよくしたくなる。考えてみれば当たり前のことだけど、「どんなクオリティのものが出てきてもほめる」って、結構難しい。

文章だって同じこと

文章だって同じこと。「書けない」「下手だ」という人は、文章に対する理想が高すぎることが多い。「雑に書け」って思うわ。

この文章の雑さを見てご覧。書きながらですら、無数の「ひどい点」をみつけられる。文体も統一されてなければ、修飾句のかかり方もごちゃごちゃ。かなが多く、文章の硬度が低く読みにくい。表記も統一されてない。パラグラフごとの要点がとりづらい。これを自分の文章だと認めるのにはとても勇気がいる。

でも、ま、いいんじゃないかと思う。

下手だと言われれば「雑な下書きなんで」「捨て書きなんで」って言い切ることにしてる。実際そうだし。「下書きをウェブに公開するな」って言われても「見なきゃいいだけじゃん」で終了。「あの記事、よかったよ」と褒められでもしたならば、そのときはじめて、下書きをリライトしていけばいい。

文章の巧拙なんかよりも、そこにアイデアがあるかどうかを、ぼくは(特にmediumでは)重視してる。mediumはウェブのパブリッシングだ。ウェブのパブリッシングでは「すべてがリライト中の下書き」だ。

読んだ人が、補足したり、わかりにくいところを指摘したりすればいい。それで改善していけばいい。

でも、やっぱり何より、褒めてもらいたいな(笑)。みんながおもしろがってくれたなら、なんかもっと、記事をよくしようって思うかも。

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森哲平
テッペイの森

1979年兵庫県生まれ。2011年より徳島に移住。2015年から徳島市沖浜町にて私設の図書館や子ども向けプログラミング教室を運営している。