情報アーキテクチャの国際学会「IA Summit2017」帰国前の所感
情報アーキテクチャ(IA)の国際学会である”IA Summit 2017”出席のため3日前からカナダ、バンクーバーに滞在している。
自身としては5回目となるが、6年前にはじめて参加した際にはひとりもいなかった海外のIA/UXエキスパートの友人も年々増え、IAの最先端の考え方や思考モデルに触れるという目的と同時に、年に一度海外の専門家たちとの再会を楽しむ場ともなっている。
今年の年次テーマは「Designing for Humans」。
2012年の「Reframing IA」2013年の「Reclaiming IA」、2014年の「A Path Ahead」、2016年の「A Broader Panorama」と、情報アーキテクチャが価値を持ち、責任を果たす領域が、社会的な領域にまで拡大してきていることを象徴的に表わしている。
すでに数年前からIAは、その成長背景であるWebやデジタルにおける構造化・意味形成の範疇を飛び出し、「ひとがよりよい人生を過ごす」ことを助け、実現する役割になりつつあるといえよう。
そのように毎年出席を楽しみにしているIA Summitであるが、今年は自身にとってさらに特別な年になった。
なぜなら、デザインリサーチ、UXデザイン、特にペルソナ開発の仕事に携わって17年近くになる自身にとって、まさに心の師(勝手に言ってる。笑)であり、アイドルとも言える「デザインペルソナの父」であるAlan Cooperが、カンファレンス全体の指針になると言っても過言ではない初日の基調講演を務めたからである。
Alanは、ソフトウェアは使う人が目的を果たすためにデザインされるべきという「ゴール指向デザイン(Goal Directed Design)」の提唱者であり、広く捉えるとぼく自身がこの10数年来従事している人間中心設計(Human Centered Design=以下”HCD”と略記)の提唱者とも言える人物である。
今回の出張に出る前に、過去10数年の間に何度読み返したかわからない愛読書のひとつ”The Inmates Are Running The Asylum”(和訳版の書籍名は「コンピューターは難しすぎて使えない」)を久しぶりに再読した。
18年前に初版が出版された書籍であるが、「たったひとりのためにデザインする」ことの重要性とそれによって得られる(ユーザーのみならずデザイナー・開発者が)メリットについて、そしてそのアプローチを実践するための具体的な手順と手法についての記述は、今読み返して色褪せることがない。
基調講演では、6年前にサンフランシスコ郊外からカリフォルニア北部の広大な農園(Ranch)に移住したAlanが、都会から農園に身を移し、テクノロジーと向き合う毎日から農業に取り組む日々へと生活が一変した中で、ソフトウェアデザインやテクノロジーとの関わりについて考えていることを語った。
農業や自然と向き合う中で、アランは昨今の工業化・商業化された農業の限界(サステナビリティの欠如、自然に対する円環的によくない影響をもたらす構造)を実感し、ソフトウェア(デザイン)についても全く同様のことが言える点に言及。
近視眼的な生産効率性や利益追求を起点としてつくられるソフトウェアやシステムは、ユーザー中心につくられているのではなく、産業中心につくられていることと、そのような製品は前述の農業と同じく永続性がないものであると、静かに、しかしきっぱりと断言。
そもそもソフトウェアはひとがテクノロジーを扱いやすいものにするために存在する、と言うAlanにとって、ユーザーではなく自社にとって都合のよいデザインは忌むべきものであるのであろう。
日々HCDの現場でデザインを考える我々にとっては当然のことではあるが、質の高い製品こそがユーザーに利益をもたらすのであって、利益を生むためにつくられた製品がユーザーに利益をもたらすわけではない、ということを明言した。
「ユーザーはその製品がよいから選ぶのであって、その製品が作られるのにいくらコストがかかったか?に価値を払うのではない」
あくまでも、ひとを中心に考えることを提言したキーノートは、まさに今年の年次テーマを起点に以降のさまざまなセッションをつなぐ羅針盤になった。
以降、3日間にわたって、様々なセッションやワークショップが持たれたが、その中でも印象的であったもののひとつが、2日めの午後に行われたデザインストラテジストのThomas Wenditによる”Decentering Design OR A Critique of HCD”というスピーチであった。
「脱中心化するデザインーまたはHCDについての批評的思考」と題された本スピーチでThomasは、Alanのキーノートに呼応するような論調として
従来の人間中心設計(HCD)は、
1.設計思想の構造的にいくつかのパラドクスを抱えていること
2.商業化されたHCDにおいては、必ずしも対象が「本来のユーザー」でなく、「カスタマー(マーケティング的に有効な顧客)」になりがちであること
による構造的課題を抱えており、今はその飽和的時期にきている、と主張。
1については、HCDのオーソドックスなプロセスでは最初に「ユーザーの利用状況の観察と理解」からスタートすべきとされているものの、実際のプロジェクトにおいてユーザーを理解しようと思うとそのために問題そのものを理解して解決のための指針を考えなければならないケースがあり、逆もまた然りである、という逆説的状況が見られることを引き合いに出して論説。
2については、本来純粋に”人間の役に立つために”体系化された手法であるにもかかわらず、HCDを実践しようとする企業の多くがコマーシャリズムと資本主義の中で自社の産業構造を維持しているために、企業(ビジネス)の論理が介入することによって必ずしも純粋に「人間」に向き合っているのではなく、自社のビジネスを成立させるのに有益な「顧客」に向いてしまい、結果としてサスティナブルでなくなっているのではないか?という提言を展開し、従来HCDというモデルが次に考えなければならない課題に触れた。
この点においてThomas自身はスピーチの中でハッキリとした言葉では触れてはいなかったが、ぼく自身は従来のHCD(視点でデザインされるプロジェクトのうちのいくらかの割合で)は、人間=ユーザー中心とは言いつつも、最終的には”様々な解釈と意図を考慮したうえで”デザイナーがイニシアティブをとってデザインしていたが、このデザイナーによる中心構造が崩れ始めていて、本来のユーザーと関わりをもった「参加型デザイン」のようなアプローチを必要としているのではないか?というメッセージと解釈した。
しかしそれは決してHCDを否定するものではなく、HCDがよりよいものになるために敢えて”批評的”な視点で指摘をする、愛のある批評であるとも感じた。
この懸念については、自身でも以前から折に触れて問題意識を抱いていた課題でもあり、日本においてHCDのプロフェッショナルとして仕事をし、かつ末席ながらもHCDの専門コミュニティ運営にも関わらせていただいている身として、危機感と、次の展望を描いていく必要性を感じた。
Thomasのセッションが終わった後、次のセッション開始の時間が間近に迫っているにも関わらず多くのオーディエンスが彼との意見交換を求めに集まっていた様子を見ていると、海外のHCD専門家たちの中にも少なからずぼくと同様の懸念や問題意識を持っている人たちがいるということであろう。
これらのスピーチの他にも、実務に使える思考のフレームワークや、技術的な観点からの新しい視点など、多くの収穫を得たカンファレンスになった。
個々のセッションの内容については、今後機会があれば報告と共有をしたいと思うが、全体的な所感として、
・人工知能(AI)がデジタルにおける情報世界に実用レベルで介入してくる時代において、IAは人と機械をつなぐ役割を担う重要性をもつ(IA meets, AI)
・Webの世界がSNSの台頭に代表される新たな潮流によってよりセマンティックになり、かつてWeb世界の絶対的良心であり掟でもあった検索エンジンですら、情報の民主化の中で資本主義に影響を受けるご時世に、IAは情報環境(Information Environment)を社会的に良いものに維持する責務をもつ
・その結果として、ひとがより安心で安全に、豊かに生きていくための持続可能性のある社会であるためにIAは貢献すべき
という宣言を自身の解釈とした。
そして、閉会の際に早くも来年の開催予定が発表されました!
IA Summit2018はシカゴにて、2018/3/21–25に開催。
もしご興味ある方はぜひご一緒しましょう。
#ias17 #ias17j
帰国前のバンクーバーにて