iPhone X を買ったのをきっかけに、今まで使っていた iPhone 6 を子供に与えました。

子供にスマートフォンを与えるべきかというのはとても大きなテーマです。特にうちの子は10歳(小学校四年生)なので、まだ早いのではという葛藤がもちろんありました。

子育ての方針は家庭の数だけあるので、何が正しいと言いたいわけでは勿論ありません。それぞれの方針が尊重されるべきです。このありふれた話題に対して特に目新しい意見を持っている訳でも無いのですが、自分がどう考え、具体的にどういうデバイスを子供に与えたのかをメモしておこうと思います。

スマホをいじるよりもやるべき事が子供にはある、というのは本当にそうだと思います。特に子供がゲームをやり過ぎてしまう問題は深刻で、子供は自己の欲望をコントロールする力が未熟なので(多くの大人もそうですが)、なんらかのサポートをする必要があると感じています。

スマートフォンやゲームが直接子供に害をなすというよりは(私は、むしろ創造性の宝庫だと信じています)、意外と忙しい子供の可処分時間が全て消費されてしまい、結果として活動の幅が狭まってしまう事はリスクだと感じています。暇だからやってみた事が意外と向いてたり、気が進まなかったけどやって見たら楽しかった、という事はよくありますからね。

とはいえそんな子もいつかはスマートフォン(もしくはもっと新しいテクノロジー)を手にする日が来るわけです。

その時にいきなり何の制限もないデバイスを渡され、うまくその力を使いこなせるだろうか、というのが最初の問題意識でした。

まずは原始的な機能しかないデバイスから始まって、親と一緒に使い方を学びながら、徐々に高度で自由度の高い機能やコミュニケーション手段がアンロックされていくようなやり方はどうだろうか。まずは家族の中だけの保護された世界から始める事で、より安全にテクノロジーの意味を理解し、使いこなす訓練をする事が出来るかもしれない、と思うようになりました。

それだけではなく、スマートフォンがあると「親が助かる」というのも導入を後押しした理由の一つです。

GPS を使った「iPhone を探す」を利用して位置が分かるので、誘拐にあったりスマートフォンを奪われた場合にも、少なくともその最終位置を知る事が出来ます。どこかに出かけて帰りが遅い場合も、現在位置がわかるのはとても安心です。

子供と直接通話できるのもとても便利です。電車に乗ってどこかに一人で出かけるような事も、いざという時に電話連絡が出来るならチャレンジさせてみようかと思えるので、子供が一人で行動できる範囲を広げる事が出来ます。そういった緊急時の電話だけでなく、仕事が遅くなる日に職場から「宿題やった?」みたいな電話を子供に掛けられるのはとても新鮮で、新しい友達が出来たような嬉しさがありました。

具体的には、以下のような状態のスマートフォンを渡しました。

  • 一度本体初期化した iPhone 6
  • 最新の iOS にアップデート済
  • 新規に作成した子供の Apple ID
  • MVNO (mineo) のデータ通信 500MB/月 + 通話 プラン
  • 機能制限(ペアレンタルコントロール)付き

子供が12歳以下の場合、親のアカウントに紐つく子供のアカウントを作成する事が出来ます。この関係があると、親が購入した音楽をダウンロードしたり、子供が自分の権限を超える行為に際して親に許可を求める事が出来るようになります。
ファミリー共有とお子様用の Apple ID

iOS のペアレンタルコントロール機能を利用して、ブラウザの利用を含む殆どの権限を無くした状態にしました。iOS の機能に関する部分は細かく設定できるのですが、アプリ内のコンテンツに関してはきめ細かい設定ができるわけでは無いので、基本的には「安全だと分かっているアプリだけを入れて、新規のインストールは禁止する」という方向で制限することになります。

消しゴムの抑止力

中学の時に、消しゴムの使用を禁止している数学の先生がいました。理由としては、

  • 消しゴムで消さなくてもノートの余白は潤沢にある
  • 実際ノートを最後まで使い切る事はほぼ無い。
  • 間違えたり失敗したとしても、別に消す必要は無い。学習中は間違えるのが普通だし、間違えた記録が残っている方が情報量が多い。あとで見返すことも出来る。
  • だから消しゴムで消すメリットはほとんど無い

という感じの事だったと記憶しています。消しゴムを使うことをあまりにしつこく制止するので、当時は「変な先生だなあ」としか思わなかったけど、今となってはなんとなく、なぜ先生が消しゴムの使用を明示的に禁止していたのかわかる気がします。

僕の小学生の息子も宿題で間違った箇所を消しゴムで消すのですが、かなり面倒くさそうにしています。そもそも消しゴムってたいして消えないし、消しクズが出るし、紙もクシャクシャになるし、いいことが全然ないのです。「間違ってしまった」という気持ちでただでさえダウンなところに、面倒で汚い「消しゴム労働」でさらにペナルティを与えられてしまう。

その様子を見て、実はこの毎日反復される「失敗すると面倒な事になる」という体験の繰り返しが、答えを書き始める(もっと言うと何かを始めようとする)勇気を徐々に削いで、考えることを億劫にしていくんじゃないかと思ったんです。あの先生はたくさんの生徒を見る中で、消しゴムのこの挑戦抑止効果に気づいて積極的に排除しようとしたんじゃないかと。

大人になった僕にも思い当たることがあります。子供の頃読書感想文で文章を書き始めるのが本当に苦痛でしたが、今であれば

  • PC のエディタを開く
  • 書かなければいけない要素を箇条書きにする
  • それぞれについて内容を付け加える
  • 順番を入れ替えたり、必要ないところを削除したりして推敲する

という手順で、「とりあえずガーッと書き出す」「書き出した要素を俯瞰して整理する」というステップで段階的に文章を組み立てていく事ができるので大分気が楽です。一度書いたものを削除することによるペナルティも無いため、気負わずに思いついたことをとりあえず書くことが出来るわけです。このやり方が圧倒的に楽で結果として(僕にしては)良い文章が書けるので、印刷物に長めの文章を書く場合(例えば学校に提出する「夏休みの子供の様子」等)にも PC で必ず下書きしています。

これは文章を書くということが「軽い」という事のとてもポジティブな一面で確実にデジタルの恩恵だと思います。失敗のペナルティを排除することで、アウトプットの量を増やして、外部化された思考を俯瞰することでさらに書こうとしている対象への全体理解が深まるという。

横道ですが、「心理的安全性」のあるチームがなぜ強いかという話ともどことなく通じる話な気もします。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48137?page=4

もしすべての子どもたちが消しゴムを使わずに、タブレットやPCのテキストエディタで文章を書いて推敲するようになったら凄いことになるんじゃないだろうか。

文章の質も思考の深さも、僕たち鉛筆世代よりもはるかに高くなりそう。

最近は家事や育児に参加する男性が増えてきていて、それ自体はとてもいいことなんだけど、なかなかそれを手放しでは喜べない、何かこうモヤモヤする、という話も主にオンライン方面から聞く事が多くなりました。

例えば「イクメン(夫)ばっかり褒められてズルい問題」。パパはちょっと育児をしただけ、少し家事を手伝っただけで「偉いね」「立派だね」と褒められる(身の回りの人からも、社会からも)。今までずっと家事育児を誰にも褒められずに頑張ってきたママからすると、やってもらって助かる気持ちはあるけど、しっくりこない。私かやるのは「当たり前」で、パパが「手伝う」と褒められる。不公平じゃない?

例えば「夫の家事クオリティがイマイチ問題」。手伝ってもらえるのは嬉しいけど、料理を作って後片付けしないとか、サランラップが切れたのに替えてないとか、そのお皿が収納されるべき棚はそこじゃ無いとか、色々とやり方が雑だったりする。妻からすると、今まで自分はもっと丁寧にやってきたし、そのことを軽視せず、理解して気を配って欲しい。

わかる。実際に力が足りない事も多いはず。
(僕だけがダメな夫の可能性も、大いにありそうだけど。)

その上で感じるのは、これは家事育児が “ソロプレイ” から “チームプレイ” へ「質的な」変化を遂げているんじゃないかということです。

今まで一人でやってきたことを複数人で分け合う体制に(社会全体としても)移行しているので、チームプレイ特有の難しさに直面しているんじゃないかと感じたんです。例えば先ほどのような問題であれば、

  • タスクの把握(家の中にどれだけやらないと行けない事があって、誰がどれだけやっているのか)
  • 各人のタスク分担、クオリティラインの確認
  • 暗黙知/決定事項の共有(この洗濯物はネットに入れる。消耗品の替えはここに置いておく、とか)

みたいなことが少なくとも必要なのかもしれません。

家庭内での事に置き換えると大げさすぎて冗談みたいですが、複雑な課題をを複数人で分担するにはこういった事が必要で、管理やコミュニケーションのコストがあるから、労働力としては 1 + 1 が 1.6 くらいにしかならないという認識を共有すべきなんじゃないかなあと。

ホワイトボードに付箋を貼って家庭のタスクを管理しよう!ということではもちろんなくて、二人で家事育児をするというのは、辛抱強く話し合い確認を繰り返して、初めて機能する難易度の高い協力プレイなんだという認識が必要なんじゃないかと思ったんです。そもそも難しい事に挑戦してるんだから最初はかみ合わなくても当たり前だよねと。

お互いに粘り強く対話出来るかどうかで、前時代的な対立構造に戻ってしまうのか、自律的な強いチームになれるのかが分かれる、今の時代はその正念場なのかもしれません。

少なくとも、「これは複数人で何かをする事の難しさなんだ」という視点があると、「自分 vs相手」の構図から「わたし達 vs 問題」の構図に持っていけるので、とても良い気がします。

まあでも人間には感情があるから、なかなか思い通りに出来ないものですけどね。

レビューを見ただけで実際に見た気になる症候群

ほんとに深刻。特に映画とかは先に評判とか感想が耳に入って来ちゃう事が多くてなかなか避けられない。プロの批評家のレビューとかを先に見ちゃうと、それがいい内容であっても「見たつもり」になっちゃって見たくなくなるんですよね。知ってる映画見るのもったいないな、みたいな感じで。実際は見ていないのに。

芸能人のモノマネとかで、誰かがモノマネしているのをマネするのは簡単だという話があります。それは最初にモノマネしたひとが対象の芸能人の「エッセンス」を抽出して、見た人がわかりやすいようにデフォルメしたものをそのままコピーするだけだからです。実際にはその抽出とデフォルメの作業にこそ専門性があるわけです。

映画批評を聞いて満足してしまう問題にも近い構図がある気がするなあと思ったんです。映画の批評家がその作品の構造や面白いポイントなどを整理して提示するので、その映画の概要や「意味」のようなものを理解した気になり、もう自分の中では消化されたものとして落ち着いてしまうのかなあと。本来であれば映画を見て何かを感じたり、自分なりの解釈を与えたりする部分にこそ価値があるはずなのに、そのチャンスが失われているという。

情報はあればあるだけいいと思われがちですが、以外とこういう風に「だいたいこんな感じでしょ」っていう判断で新しい体験の機会が遠ざかる事ってありますよね。単なる老化かもですが。実際にはそれを体験するプロセスに価値があるのに、結果が見えている(ように感じる)とやる気がなくなるという。

目の見えない人は世界をどう見ているのか」という本を最近読んですごく面白かったのですが、この本では目が見えないハンディキャップに対する福祉的な視点を一旦脇に置いて、「見ないがゆえに得られるもの」について書かれています。目が見えると自然と人の外見や道端の広告などに意識を(半ば自動的に)持って行かれてしまったりして、判断が鈍ったり集中力が低下したりしますが、見ないことでそういったことから自由になり、もっと別のことを考える余裕が生まれるという。すごく面白い視点ですよね。

情報を得ることで、実際には選択肢が増えるどころか、制限されている事もあるんだなあと。

Salomon 4100D Nozawa Onsen (65K)

My greatest discovery from my running habit is that suffering is periodic. When running for a long distance, suffering starts gradually around 20km. After bearing suffering for a while, it suddenly disappears.

This is the so-called “runner’s high”, and it feels incredibly good even though my body is so exhausted…

Nakano Kyohei

Atmoph co-founder, Software Engineer, Trail hiker.

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