なぜ医療職の私が起業家という道を選んだのか。

Monthly Pitchにて

Introduction
初めまして、株式会社バックテックの福谷です。今日からMediumでブログを開始しようと思います!まずは、自己紹介を。

私は、1989年の冬に愛知県名古屋市で生まれました。父親が食品関係の会社、母親は看護師という家庭で育ちました。

”まっすぐで素直な人に育つように”と『直人』という名前なのですが、小学校3年生の頃までは、友達とケンカや悪さをしては、呼び出され、親に怒られという少しヤンチャな毎日を送っていました。そして、小学校4年生になり、ずっと野球が好きだったので、野球部に入部しました。当時は、本気で野球をやりたかったものの、野球部の指導者は学校の先生で、例年、冬は寒いので休部という状況だったので、春夏は野球部、秋冬はバスケ部に入部しました(笑)。しかし、バスケ部に入部して約2週間が経った頃に、友人の親が元甲子園球児ということで、その方が監督に就任し、1年中、野球部が活動できる環境になりました。ここからが私の野球人生の始まりです。運も重なり、チームのキャプテンになり、ピッチャー、4番という花形のポジションを頂いていました。しかし練習量も多く、小学生の頃から、肩や肘の痛みに悩まされながら野球を続けていました。

小学校を卒業し、中学校にいくと、野球部の先輩方は30名程度いましたが、なぜか中学1年生から野球部のキャプテンとしてチームをまとめることになりました。いまになってですが、このときの野球部の先生には、『なぜ、このような意思決定をしたのか!?』ということを聞いてみたい自分がいます(笑)。当然ですが、早々に先輩方は全員退部しました。その日から、先輩方にはいじめられ、窮屈な学校生活でしたが、野球部としては中学1年生だけのチームでこれまでの中学校の歴史上、最も結果を出したチームを作ることができました。ここでの学びは、『結果を出すには年齢は関係なく、想いやビジョンを共有して、全員が同じベクトルになっているチームは強い』ということでした

高校に進学し、野球もやっていましたが、私が医療職になったのは、この高校時代がキッカケでした。これまで野球で肩や肘を痛め、整形外科にはよく通院していましたが、高校時代に初めて、いまの現職である”理学療法士”と出会いました。このときは、肘の靭帯が断裂するくらいの怪我を負い、リハビリに通うことになりました。リハビリは強烈な痛みがあり、涙が出るほどでした。このときはリハビリ時の痛みが強すぎて、毎回行きたくないなと思いながら通院していました。しかし、ある週から水曜日だけ三重県から非常勤できている先生に担当が変わりました。これまでの先生のリハビリでは、特に世間話をするわけではなく、ひたすら痛みを我慢する時間という印象でした。しかし、新しい水曜日の先生は学校生活のこと、テレビのこと、恋愛のことなど色々とコミュニケーションをとりながらリハビリを進めてくれて、常にリハビリ中、笑っていたかのように思います。これまでは表情を歪めてリハビリを受けていたのですが、この先生とのリハビリの時間は毎回楽しみで、知らないうちに終わっていて、もっとリハビリしたい!という気持ちが自然と湧き上がりました。かつ、肘の動きも順調に改善していきました。

もしかしたら、看護師の母親から、『あなたは理学療法士に向いている』とずっと言われてきていたこともあるかもしれませんが、私はこのときの先生に憧れて、理学療法士を目指すことに決めました。自分のやり方次第で、こんなに患者さんの人生を豊かにできる可能性が広がる仕事は非常に魅力的でした。この経験を通じて、”リハビリは痛いもの”という考えから、”リハビリは健康で困っている人の人生をデザインする仕事”という考えになりました。今でも、わずかな時間ではあるものの、理学療法士として、整形外科でリハビリを担当していますが、我々の仕事は病気や痛みをみる職業ではなく、その人の人生のバックグラウンド(ストーリー)を理解した上で、人生をデザインしていくことだと思いながら、臨床に取り組んでいます。

Why
かなり長くなりましたが、そんな医療職の私が”なぜ起業家という道を選んだか”という本題に入ります。愛知県の藤田保健衛生大学という大学を卒業し、理学療法士として介護老人保健施設で常勤として働きながら、修士課程の大学院に通学していました。私が社会人1年目でリハビリを担当できた患者さんの数は120名程度でした。しかし、本当にこの人の人生をリハビリを通して豊かにして家族を含めて笑顔にできたと実感できるのは、ほんの数例でした。この事実を俯瞰していたときに、定年まで理学療法士として臨床に立ち続けたときに、自分が笑顔にできる人の数の上限が見えてしまい、個人的な価値観から、上限が見えるのはモチベーションが上がらない人生だと思いました。そこで研究をして、新しい評価方法やリハビリの手法を見つければ、臨床で働く理学療法士がそれを自分のみている患者さん還元してくれれば、自分が起点になって、この世界に、より多くの笑顔を生み出すことができると思い、修士号を取得後、京都大学大学院医学研究科の博士課程に進学しました。もちろん、臨床で実際に健康に課題を抱えている方々の生の表情や声を忘れたくないので、京都に来てもずっと臨床に立ち続けていました。京都大学では未熟な私の研究を数多くの先生や院生が指導してくださいました。周りのご支援を受けながら、研究論文も執筆していたのですが、なんだかモヤモヤする毎日を送っていました。その大きな要因は『今、自分が英語で書いている論文は、本当に患者さんを笑顔にできているのだろうか』という疑問がどうしても払拭できないためでした。私の行動の根源となるものはビジネスでいうとエンドユーザー、つまり健康で課題を抱えている人を笑顔にすることです。その中で研究というのは、その目的を達成するための手段として考えていたのですが、最終的に私が価値を提供したい患者さんの顔が雲がかかったように、ハッキリと見えてこない。それだったら、これまでに培って来たノウハウや知見を、もっとスピード感もって、より多くの世界中の人々に直接伝えたい!!その手段として、”起業家”という道を選びました。特に昔から会社を自分で起こしたいとは思っていなかったですが、今の自分の達成したい目的を最短で達成できる手段が起業家という道だったため、現在は起業家として日々取り組んでいます。

本日は『なぜ、医療職の私が起業家という道を選んだのか。』という内容を、個人的な経験を踏まえて書いていきました。今後も更新していこうと思います。次回はバックテックという会社を通して”どんな世界を創るのか”、”どんな課題を解決したいのか”について書いていこうと思っておりますので、また目を通していただけますと幸いです。

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