世界的な教育乱世がますますカオスなことになっている

新しい学校や学びが提唱され、実験され、賛同を得て、「教員が決められたカリキュラムをひたすら同年齢の生徒に詰め込み、成果を試験で測る教育」以外の試みがテクノロジーベースで増えている。

一方で、Hero Makersのインスピレーションになったアメリカの教育政策「対立」の構造は、ますます深まるばかりだ。

日本でも、世界でも、教育畑以外のある程度力のある人間(若さとかお金とか権力とかネットワークとか)が「教育を良くすることに貢献したい」というアイデアをふと思いついた時に、ほぼ全員が脊髄反射的に「でも現場の先生が」「既存の人たちは理解しない」「頭固いだろうし」と、「現状の教育システム及びステークホルダー」を「仮想敵」として認識する。

「どうせ、あの人達は頭が固いからわからない」と、おそらく自分が経験した最もだめな教員の顔を頭に浮かべながら首を横に振る。「やってらんないから、新しい学校作ったり新しいシステムを作ったりしようか」となる。Teach for Americaも、チャータースクールも、N高も、みんなそうだ(私も素敵な先生に出会い、タクトピアを創業するまではこっち側だった)。

学校の外側の教育家が持つ、典型的な思い込みの壁である。

同時に、日米の両方で、「学校の先生」の大半は無力感に苛まれている

これは日米共通の問題だが、その本質的原因は「学校の先生」という職業が「医者や弁護士と同じように高度な専門性と献身性と複雑性が要求され、安易なKPIでは評価しにくい仕事」であるにもかかわらず、制度や文化的にリスペクトと待遇が全く追いついていないことだ。

米では公立の先生も副業が可能だが、安月給のあまり学校後にブルーカラーのバイトをする先生も珍しくない。

日本の場合は、どちらかというと「制度の歯車」のように扱われ「自分の理想とする教育」を考える自信と時間と自己効力感を奪われている。両者に共通するのは、高い理想を持って教職についたのに、「どうせ自分には本当にやりたいことはできない」という無力感である。その無力感がまた、次に入ってくる若手や外部の人間の新しいアイデアを無力化する。「自分も(やりたかったけど)できなかったことだからやめときなさい」と「無力」そのものを文化にすり替える。で、あとでチェックしてみると、みんなに反対されると思ってた「やりたかったこと」は、実は法的にも制度的にもなんの問題もなかったと判明する。

これは、学校の内側にある思い込みの壁だ。

Hero Makersとは、結局、第一期をやってみないと判明しなかったことだが、参加する内外を問わず、様々な立場の「自分のやりたいことを諦めない」教育家たちによる、何重にも張り巡らされた「思い込みの壁壊しパーティ」である。

ベルリンの壁崩壊は、内外同時に壊したから、「パーティ」なのだ。(片方から壊したら侵略か内乱である)

同じ国の人間が、厳しさが予想される子どもたちの未来を思って手を取り合うのに、何の障壁が必要だというのだろう。


Hero Makersの先生たちから得た予期せぬ学びとして、「教育者に限らず教育のステークホルダーというものは、基本的に外国の教育の常識、たとえば北欧の教育がどんだけいいかってやつだけじゃなく良いところも悩みも課題も、勉強になるとか相対化されるとかそういうのも重要だけれど、本質的に、全部好奇心の対象なのだ」というものがある。だから、ここで気が向いたら語ってみることにしたい。

実はアメリカについても語りかけなのだが、時期が時期だし、この前私も最近、シリコンバレー化が激しい深センの某高等教育機関から役職をもらった記念にちょっと語ってみよう。

中国の大学入試、高考の基本情報

毎年、6月はじめの数日は、中国全土の約1,000万人の18歳が文字通り死ぬほどペーパーテストを頑張る日として有名だ。それこそ小学校低学年から数しれぬペーパーテストを受けてきた若者たちが「人生で最大の本番テスト」と称するのが、全国一斉大学入試、高考(ガオカオ、と読む)である。

ちなみに、よく考えると、日本で教育起業とかしている身からすると、1学年約100万人弱の子供の人数を鑑み、大学入学率の5割弱を鑑み、そしてよく考えてみたらそもそも中国では高校入学率がまだ6割くらいだったと思い出して、この1,000万という数字に今更戦慄している。

で、この巨大規模の試験って一体どんなん?という素朴な好奇心に答えるために、日本との違いを中心にさくっと説明してみる。

  1. よく「センター試験と同じ」と説明されるが、高考も韓国と同じように全国統一試験である。が、国が大きすぎるので全国をいくつかのブロックに分けた上で難度が同じの少しばかり違う内容のものを、その地区全員が受験する。
  2. センターと同じっていうと「マークシートで答えられる簡単な問題たち」のイメージがつきまとうので、あまり好きではない。みんなが同時に同じ問題を解く二次試験と同じエグさの問題たちって言ったほうが良い。
  3. 日本のそれのように、各大学の二次試験は存在しない(つまり、大学ごとの過去問や傾向や対策も存在しない)。日本の私大のように、統一試験なしでも独自の試験だけで受験出来る制度も存在しない。
  4. 内容としては、全員が強制受験する「国・数・外国語」の3科目(150点x3)+文理選択で「文科総合(歴史地理政治から全部出るエグい総合問題)」OR「理科総合(物理化学生物から全部出るエグい総合問題)」(各300点)で合計750点である。つまり、文系なら地歴公民に精通してなければいけないし、理系なら物理科学生物全部がフェア・ゲームというエグさだ。
  5. 国語の中国語表記は「語文(現代文・古文・作文)」。古文については最近の傾向はともかく、少なくとも昔はある程度の古典は読み方を知っているという以上に丸暗記出来ている前提で問題が出される。
  6. そして、この作文というのが最高に面白い。日本の大学入試で小論文や論文を出すのは昔の東大文III後期とか慶応SFCの小論文とか「変わり者採用試験」などの手段として有名だが、一応論説文の形を取れとか小論文の形を取れとか、形式が決まっている。だが、高考の「作文」はそれをすべてすっ飛ばすくらい、フリーダムなのだ。
  7. どれくらいフリーダムなのかというと、まずお題の例:「勤労について若者をインスパイアする演説原稿を800字で書け」「信じるということについて書け」「君子とは何か書け」「2035年の18歳へのメッセージを書け」「未来について思うところを書け」
  8. 毎年この時期になると、「満点作文」と「零点作文」なるものがネットで出回る。中国語が読める人はBaiduで検索してみると良い。過去に話題になった満点作文というのに、全文を正しい古語で書いたツワモノもいる。お題が曖昧なやつについては小説を提出する者もいれば詩を提出する者もいる。ネットで出回るくらいなので、だいたい大人をはじめとする人間たちは自国の18歳たちの才能に唸る。確か、150点満点の「語文」の中で、作文は60点相当のかなりの高配点だ。
  9. どうしてこんな高いレベル要求をしてくる作文を1000万人もの受験生に課せるのか?理由はざっくり2つ。「そもそも良い文章を書く力が千年単位で大事にされる文化(科挙は100%作文だし)なので、国家を背負うエリート人材たる大学生が文章を書けないのはありえない」これは古くからの伝統の話。もう一つは、私の中国における最終学歴が幼稚園中退であるにも関わらずかなり実体験を込めて語れる話、「共産系プロパガンダ文化の副産物」である。
  10. 2019年現在はちょっとノリが変わった可能性があるが、共産圏の国というのは基本、社会の中に「共通認識としての正義」が存在する。中華版のそれが教育文脈に入ると、「社会通念上の道徳的正義(例:お年寄りに席を譲るとか、小さい子を助けるとか)」に噛み合うように「革命思想」がわかりやすい形でまず子どもたちに語られる。
  11. それの是非は別にここでは論じないことにして(どうせ今はちょっと違うことになってるだろうし!)、幼稚園とかそこらから、子どもたちが「自分の行動はどうしてこうあるべきか」みたいなことを正義ガイドラインを軸として演説することは珍しくないのである。
  12. これが個性の圧殺かというとそうでもなく、基本的に自分の言いたいことを上手いことガイドラインっぽいものに載っけてそれっぽく言えたら大人(幼稚園の先生など)は「よく出来ました!○○ちゃんは進歩的ですね。みなさんもよく見習うのですよ!」的なノリで褒めてくれるので、子どもたちは結局、学校の中ではエアでもそういうロジックをひねり出して言いたいことを言う訓練をすることになる。意識高い者勝ちなのだ。ちなみに記憶の中でもこの先生ってやつは本当によく見ていて、いつもの優等生メンツじゃない子がたまにそういう発言をすると「XXちゃん、進歩が著しいですよ!この調子で頑張りましょうね!」みたいなことを保護者会とかでも言ってくれるらしい。あ、日本でいうと戦前の修身みたいなやつだ!わかった。アレだ。
  13. この意識高いスピーチ合戦は、小学校に入ったあたりから、「意識高い作文合戦」になる。文章が上手くなるには、結局他人のフレーズを盗みながら自分の形にしていくプロセスをたどるので、何をどう書けば褒められるかわかっている子どもたちは、こういうとこでも頑張ることになる。まあ、だから、小学校に入る前から文章的思考の訓練はバッチリなのだ。耳も目も肥えるわけなので。あ、あと何かやらかすと反省文を書かされる風習もあったな。
  14. 名前もずばり『高考』という、浪人生ドキュメンタリーを観たとき、あまり成績の良くない子(四年制大学に合格スレスレの子)がなぜかノリのいい、表現豊かな文章を書いてみんなの前で発表していて、「悪い方でもこのレベルの語彙力と文章力なのね・・・」と戦慄が走ったのをお覚えている。
  15. 作文の話が長くなってしまった!数学は文系数学と理系数学が地域によっては分かれている。内容はセンター並の問題〜差をつけるために後ろのように難問があったり?らしい。私は全部忘れたので問題を読んでも判定不可能。笑。ガチ文系でも数学から逃げられないので多分大変なんだろう。
  16. 英語は、何も言うまい。問題をとりあえず一部抜いたので載っけておくよ。あと、リスニングの問題が多かった気がする。(ここにあった:http://www.gaokao.com/zyk/gkst/lnsxgkt/

17. 以上のように「キツイ」理由は、おそらくカバー範囲の広さと競争率の高さではないかと思われる。

18. で、プロセスとしては以上の試験を2日間かけてへいこら解いたあと、ネットや電話回線などで、750点満点から自分の点数を告げられる。あと、ほぼすべてが国立大なので、各大学ではなく、国立大合格ラインというものを告げられる。このラインっていうのが複雑で、「1本、2本、3本」という点数が高い順に3本線なのだ。色々複雑なのだが、3本ラインに引っかかれば、一応「何らかの高等教育機関に合格した」ことになるが、1本がまともな国立大生ライン、3本合格は高専とかそういうの、みたいな区分け。ちなみに900万人が一応「合格」はする計算で、そのうち450万人までが、四年制大学合格。残りの450万人は三年制の「専門学校」扱いの学校に入れる。ちなみに浪人も日本ほど当たり前ではないが存在する。

19. この「自分の点数」ってのが面倒なのだ。実に面倒なのだ。受けているのが特定大学の二次試験ではないので、点数が出ても志望大学に受かるかどうかはわからない。その点数を持って特定大学の特定学部に入学を希望する旨の書類を出し、特定大学の特定学部は上から合格させていくので、他の人間の点数が出揃わないと、究極合否がわからない。「1点でも高く!!!」みたいな感じになるのはそのためだ。

20. もっと面倒なことに、地域格差とか地域逆格差というものがある。地域格差というのは、地元地域の学生がある程度優先される制度だ。例えばみんなだいすき北京大学に、北京地元人は750点満点中500点かそこらで合格できて、山東省人は700点でも足りない、とか。山東省など、めちゃめちゃ人口多い上に伝統的有名大学の数が少なく点数も高いとこだと、熾烈な競争になる。

21. 地域逆格差は、地域というより民族や人種のアファーマティブ・アクション制度。ウィグル族とかチベット族とか中国には認定されているだけで56の民族があるが、少数民族加点制度があって、大学入学率が低くて貧しい民族出身者は、30点とか50点とか下駄を履かせてもらえる(1点の重みを考えるとこれはパない)。そういう制度があるため、「少数民族、優遇されてんじゃん」と国民はみんな思っている。アメリカでもちなみに同じようなことが起きている。ネイティブ・アメリカンは数が少ない上に大学入学率がかなり低いのでちょっとでも血が入ってたら点数低くても難関大学が楽勝とかなんとか。

22. こういうアファーマティブ・アクションについては、別にアメリカのマネをしたわけではなく、なんなら科挙の時代からの伝統である。そもそも身分制度の概念が薄く(士農工商という概念は身分ではなく職業!あんまり固定ではない)、貴族制度も度重なる王朝の交代と乱世による「個人の才能至上主義社会」が何度かあった関係で、中華帝国の中央集権制は「領土の隅々にいる才能ある個人の登用」が前提で成立してきた。

23. それは皇帝権力が官僚制度で貴族豪族と対抗するためでもあったが、なんていうのだろう。「地方にいる才能のある個人=謀反の種」なのだ。巻き込まなきゃその地域のコントロールや人心を失う。だから、単純な作文の出来よりも各地からまんべんなく人材が登用されているかを皇帝が気にしすぎて流血沙汰になった事件とかもある。

24. ここらへんの歴史を踏まえると、今の中国の少数民族に点を足してでも大学を目指してもらおうとする感覚は超わかる。あと、大学入試の平等性(地域格差はあっても)やら公平性を信条にしまくるのも本当によくわかる。

25. 平等性や公平性について、日本では最近英語の試験がどうのこうので揉めまくってる(一部の人が)感覚があるけれど、国立大学が国家による人材登用という性格を持っている以上、なんとなく言いたいことはわかる。リソースに恵まれない地域の学生たちや教育者たちが「自分たちは国家に見放されている」と思っては色んなものの威信に関わる。

26. が、平等で公平にみんなが英語出来なくなっちゃうのは問題なので、中国の一部地域ではもういっそのこと英語を選択科目にするという提案がなされている。学校で普通の先生が教えるやつを中心に勉強するよりも自費であるいはゼロ円でYouku觀たりDVD觀たり観光客に話しかけたりしたほうが本質的な英語力が身につくし、英語力が高いほうが人材としての競争力が高いことはみんな知っていることだから別にどの家庭もおろそかにはしないだろうという理屈だ。

話がそれ始めたので一旦ここで止めるけど、質問ある?


振り返ってみても、Hero Makersほどこんなにまで周囲に反対された企画はなかったかも知れない

私は基本、新しい企画を立ち上げるときのベースは、実践的な妄想から始める。

自分自身の経験というより、MITで浴びるように受けてきたコンストラクショニズムの概念で速成した英語独学方法のネイティブ脳も、効くかどうかは妄想だった。

2014年当時の新潟国際情報高校や箕面高校のような「海外に行くのが当たり前ではない」高校生相手に、ガチのMBAに近いアントレ教育をベースにしたプログラムを創ったのも、ついてきてくれるかどうかは妄想だった。

その高校生アントレBootCampを20カ国にまで広げて共創させようぜ、しかも日本語のヘルプはゼロね。なんていうFutureHACKも当然、ちゃんと混ぜ合わさるのかは妄想だった。

だから、昨年の4月くらいに、『未来の教室』の企画を聞いて、

「未来の教室には、未来の先生が必要だ。

日本からグローバルリーダーを生み出したいなら、先生がみんなのロールモデルとしてグローバルリーダーにまずなるのは必須だろう。

どんなすごいテクノロジーを開発しても、思いを理解しない人間にかかれば、教室の隅でホコリをかぶるだけだけど、自分で思いを持って未来を創る気概を持つ人間にかかれば、国単位の教育問題も余裕で解決できる」

と、ひらめいたのは、私にしてみれば「いつもの妄想」の一つだった。

例のごとくアイデアが浮かんだときのクセで、色んな所で言いふらしていたら、本当に色んな人に、

「そんなの無理だ、やめておけ」

と言われた。(私の周りの人は優しいため、私に面と向かってそれを言う人は実はそんなにいないので(笑)、一番多かったのは「難色を示す」だったんだが)

彼らが「無理」という理由は、大きく分けて3つある。

1. 「先生だから」無理。(ほとんどの人はこれ)

2. 「白川寧々だから」無理。(少数名ほど)

3. 「先生x白川寧々だから」無理。(約2名ほど)

2ー3は、私の性格の一部を反映しているので、「ごめんなさい(笑)」というしかないのだが、大多数の反対者は1なのである。

色んな年齢の色んなタイプの教育事業をやったりやらなかったりしている人、そして時には仲の良い現職の先生自身にまで、時に諭すように、時に吐き捨てるように、難色を示された。

今思えば、反対した人の脳内回路は痛い程よくわかる。

「(頭の中に浮かんでいる今まで出会ったサイテーな先生の顔と照らし合わせて)あいつが変わるわけなんかない」

と、おそらくなっているのである。

2−3の「白川寧々だから無理」系の人たちも、一応私のやっていることや価値観には少しは賛同して頂いている仲の良いお友達だったりするので(じゃなきゃ話し相手になってない)、

「(今まで出会ったサイテーな先生の顔と白川寧々がしょうもなくバトる図を頭の中に浮かべて)やめておけ」

と、たぶんなっている。

この最初の3連休回に限り、そういうバトりもあったけどね。

わかるのは、タクトピアを立ち上げる前の私が「かつて」そういう思考回路だったからだ。

タクトピアは、そもそも教え子にとってはHeroみたいな複数の先生たちの熱意と訴えがなければ成立していなかった。そういう先生たちに偶然出会ってなかったら、性格上私が「学校と組んだ教育事業をしよう」なんていう結論に至るわけがないのだ。そして、ボストンやシリコンバレーで、そういうイノベータータイプの先生に巻き込まれた引率の先生たちが、すごい勢いでアントレプレナー化していく図、その背中に生徒の熱い視線が刺さっている図を見て「なんだ、先生ってイケてるじゃん」というパラダイムシフト経験が私にはたまたまあった。(その前はかなりアンチ学校だった)

別に私に限らず、教育を変えたい人間というのは、たいてい自分が受けた教育に大して、怒りを伴う理不尽な原体験が複数あるものなのだ。教員自身も、それが多い。「嫌な先生がいたから自分はもっといい先生になろうとして先生になった」パターンはHero Makersの中にも外にも沢山ある。

けれど、公教育が多様な個々人の思いを汲まずにトラウマと課題を製造する装置であることは、別に特定の生身の人間である先生だけがどうにでもできる問題ではない。

なのに、生身の人間としてそうした理不尽たちの体現者、代表者、執行者として現場で矢面に立たねばならなかったのが先生だった。ゆえに、ひとりひとり能力も個性も志向も違う人間たちが、「Bad Newsを運ぶ人間は憎まれる法則」の被害者のように十把一絡げに、一番いい記憶ではなく一番悪い記憶をベンチマークに作られた『先生像』の中に押し込められている。

なので、「タクトピアで出会ったような先生は一部の上澄みで、実際の先生のマジョリティがあんな感じだと思ったら痛い目にあうぞ」とも、何人もの教育関係リーダーに忠告された。

(ここは結構不思議で、みんな自分の出会った「いい先生」のことは「例外」として処理し、「悪い先生」のことは「常態」として処理するのである。私も、中高時代に関しては嫌いな先生など一人もいなかったが、「うちの学校は特別」として処理していた。実際特別だったけど、それにしたって『人としての先生像』に対してはかなりアンフェアである。)

問題は先生ひとりひとりではなく、人々が学校制度で体験した理不尽を押し付けて共有された『平均するとネガティブな先生像』にあるよね?

そしてこれは私の周囲の問題でもなんでもなく、ましてや日本の教育特有の問題ですらなく、外に対して閉じてしまいがちな学校制度の構造的な問題である。

例えとして適切かどうかわからないが、天気が悪くて被災したり農作物の収穫が悪くなったり遠足に行けなかったりすることを直接伝えてきた気象予報士のせいにする構造と少し似ている。心理学的にも、「悪いニュースを伝えた人間」を人は憎みがちなものだという研究がある。『三国志』とかで、よく使者が斬られてるのも同じ現象だ。

「いやいやいやいや、気象予報士と違って、サイテーな人間が先生になるとその人のせいで実害が発生するじゃないか」だって?

ご指摘はごもっとも。日本だけで何十万人もいる「先生」の中には絶対にサイコーな人もサイテーな人もいる。もちろん、制度ではなく個人的な理由で実害を作り出す人もたくさんいるんだろう。けど、その実害を容認しちゃっているのは制度そのものですよね?って話なのだ。

ブラック校則もブラック部活も理不尽も才能の取りこぼしも、問題のある個人が何かしら振りかざせる制度的正義の後ろに隠れて、守られている現実がある。


この記事をきっかけに、#HeroMakers に参加している先生の人たちから、

「寧々さんはアメリカのいい感じの教育メソッドを日本でローカライズしてるけど、この前『崩壊する米国公教育ー日本への警告』(鈴木大裕 著)を読んで、アメリカの教育の光と影の影の面についてはどう思ってるのか知りたい。そして実態も知りたい」

というリクエストを受けっぱなしにしていた。色んな所で書き散らかしているけどこれを機に多分同じような疑問を持つ先生の人たちの役に立てるかなと思って、とりあえず書いてみる。

アメリカの話に入る前に、他の国の教育を論じるのは楽しいけど前提としてさあ、って話をまずしようか。

先生たちの対話と、鈴木氏の著書のカスタマーレビューを読んでまたかなり驚いたのは、

「アメリカの教育は素晴らしいと思っていたけれど、こういう問題もあるのだから手放しで真似してはいけないなと思った。日本の良さもあるので日本は日本のままでいい

みたいなコメントが多いことである。

まじかよ。

まず、日本人の一般認識の中のアメリカが、そんな桃源郷のような位置にいたとは知らなかったよ。アメリカは、ちょっとでも行ったことある人ならわかると思うけど、ご飯だってまずいし(美味いものは値段が高い)、道にはゴミが落ちているし、貧富の差だって先進国随一だ。見た目からして別に桃源郷ではない。

教育だけの話をすれば、まあ、日本で伝えられているように、当然先進的なところがたくさんある。

個別にボストンやシリコンバレー(とは便宜上とりあえず言ってみるけど、主にボストン)などにあるちょっといいシステムや新しい試みはそりゃどんどん生まれているし、大学発のイノベーションもアクティビズムも資金力も多様性も随一だし、ちょっと目を離したスキにミネルバ大学みたいな面白い機関も生まれているし、ホームスクールも自由だし、受験プレッシャーがなくて質の良い公教育はたくさんある。そして、全体的にリーダー輩出能力が非常に高い教育システムだということは、私が接してきた90年台生まれの起業家達を見ても一目瞭然だ。

そう、真似(出来るかどうかはおいておいて)すべき良いところは非常に沢山ある。

が、大国であるがゆえに割と日本がまだ現時点では真似しようもない理由による、しょうもないところだって当然沢山あるのだ。

そもそも日本人が割と気にしているめのPISAスコアだって確かG7最低の28位とかだし、そもそもアメリカに対してどんなイメージを持っていた上で「アメリカの教育が素晴らしいって聴いていたのに鈴木氏の本を読んでショックを受けた」人がこんなに多いのだろうと疑問に思えてならないのだが、それだけ大国の前例は興味津々ってことなのだろうか?

それと同時にすごいびっくりなのは、「日本の教育の良さもわかったので変えなくていいと思いました」的なコメントである。

例えて言うなら、「富国強兵。西洋に追いつき追い越せ!」モードの直前だったときの日本には、確かに英国のように産業革命真っ只中で子どもが労働者として酷使される問題はまだ存在しなかったに決まっているが、「そういう問題があるから産業革命とか工業化とか西洋の真似とかやめましょう」という議論にはならないはずだ。

(一部ではなったかもしれないが、明治維新の経緯を考えるとありえない流れだ。ちなみにガンジーの構想するインドは工業化大反対だったらしいが、死後すぐに「ありえねえわ」と覆された)

結局日本で、産業革命に伴う労働者搾取の問題は回避できなかったが、なんでも新しいものを他国から学ぶ場合は、普通その制度の失敗や危険性も認知した上で、なるべく恩恵の方が多くなるように調整しながら取り入れるものであるに決まっている。

私が#Heromakersの序文、

でも触れたように、アメリカも含む世界中の国々が教育改革に走っていて、世界は教育軍拡レースだ。

そんななか、自分のとこの国の教育が完璧!って思っている教育関係者は、よほどの世間知らずか、現実逃避・思考停止者かだ。

(残念ながら、職業柄、日本でそういう現職教員を見たことがなくはないのだが、そういう駄目教員の一番の被害者は生徒、二番目の被害者は同僚の心ある先生とかなので本当に同情申し上げる)

何度も何度もいうが、今世紀の問題を解決するための人材が、既存のグローバルスタンダードである工業型教育モデルでは育たないんじゃないか?という前提で世界全体が動いていてる。

私は、「日本だけが遅れているから諸外国の真似をしよう」というマインドセットでは到底ない。

諸大国がみんなスウェーデンやデンマーク、イスラエルや中国を視察し、自前でアントレプレナー育成プログラムやAI教育プログラムを作成し、STEMに大金を投じ、世界的教育軍拡レースの様相を呈している今、たくさんのことを知っているというだけでなく、世界をちょっとでも変える勇気ある人材がとりあえず必要な今、2000年台では「周回遅れ」だが2010年台後半からは「一周回ってチャンスがある」と私がみている日本の教育現場がアメリカ発の左派教員組合系プロパガンダ日本語訳版(しかも考え方が10年古い)に付き合っている暇も振り回されている暇もない。

特にこれから大変革の立役者となるはずの現役先生の人たちにはそんな暇はないので、この私のシリーズ化しそうな文書は完全にFFでいうとディスペル(解呪)の役割および、一国の教育システムを論じる際に役に立つだろう思考フレームワーク提供という役割を果たせたら幸いである。

米教育システムを語るときの枕詞は、常に「良くも悪くも」なので、安易な言論には注意せよ

日本にだって、中国にだって、教育システムには、「良くも悪くも」が存在する。この部分は本当に面白い。今この瞬間に表面化している問題やその是非ではなくて、その骨の構造の部分に切り込めるからだ。最深部ではまったくないが、わかりやすいので羅列してみる。

例えば、日本の教育システムは、「良くも悪くも」……

1) 平等主義的 2)中央集権的 3)上意下達的 4)点数重視主義的 5)形式主義的 である。ざっと説明すると、

  1. 平等主義的。これは言わずもがなだが、教育の中身も成果も平等が重視される。いわゆる一条校間の格差は教員の個人の資質を別にすれば同じ教科書・同じ指導要領・同じ教員免許試験を受けた人間が教える。エリート教育に対してみんながアレルギー反応を示す。これは別に当たり前のことではない。あと、生活指導的な部分でも、給食・校庭・保健室・運動会・体育・芸術科目…それらの習慣が地域にかかわらず一条校であれば保証されている。これもアメリカからすればちっとも当たり前のことではない。
  2. 中央集権的。1の平等主義を可能にしているのが、学習指導要領・教員免許・検定教科書を握って上意下達的に運営している文科省だ。ローカル教育委員会で色々新しいことに挑戦しているところもあるが、基本は公務員なので制度的に教育は中央が決めるモノ、ということになっている。アメリカは地域教育委員会が地方選挙で決まり、国は割と一切口を出せないから面白い。
  3. 上意下達的。2の制度上、個々の教員は「基本的に免許を持っていたら誰がなっても同じ」前提で運営されている。実際のクラスルーム運営の知恵や現場の苦労はさておき、地方の事情もさておき、基本的には「国の政策でアクティブ・ラーニング教えなさい」→「はい(腹の中はまた別の話)」という構図である。例えば「うちの地域はこうやって教えます」「うちの地域は大学受験から英語を外します」→中央政府「わかった。とりあえずやってみ」みたいな、中国のような流れはありえない。あと、生徒や保護者との関係においても、学校が国の権威を着て上から接することに保護者が腹を立てて色々物申し始めた昨今の事象をモンスターペアレンツと呼んで対話どころじゃない感を醸し出しているのも、ピラミッド型な組織図の最低部に生徒がいるという構図を物語っている。
  4. 点数重視主義的。これは東アジア文化圏というか、旧中華帝国文化圏の影響を受けた国なら全部そうなんだけど、試験と点数が重要視される。中国や韓国と比べると日本は点数重視の度合いがまだいろんな社会的文化的制約のなかでゆるやかな方だ。アメリカの場合、歴史的には本当に全くこの限りではない。なさすぎて、最初は面食らったものである。が、この方向にシフトしようとして最近もめている。
  5. 形式主義的。制服の着こなしやら、校則やら、掃除やら、季節の行事やら、『学校の当たり前をやめてみた』の麹町中工藤校長が本質的疑問を呈するまで誰も問題視しない「当たり前」がめちゃくちゃ多いのが日本の一条校である。その当たり前を思考停止レベルかつ人が死ぬレベルに守ってしまうのが日本の教育の悪いところには違いない。ちなみに、この形式主義は良いところもあって、『How Children Succeed』で取り上げられた、その場の学力よりも人生の成功を左右する、非認知能力を育てるための生活習慣やルールに、「あ、これ日本で当たり前にやってることだらけだ」と気づいた。KIPPというアメリカの貧困層の子どもたちの学力や将来展望を飛躍的に向上させたチャータースクールでも、アメリカの他の学校になかったような形式主義を、貧富の差の是正を図る道具にしている。4の点数主義とはちょっとクラッシュするのも面白い点だ。中国では一条校の点数主義の方が全体的に強いため、同国内のルールが多いインターナショナルスクールに転校した生徒が一夜にして「積極的で成績の良い先生のお気に入り」から「成績を鼻にかけてルールを破りまくる問題児」に変わる事例が報告されている。
HeroMakersの一幕。現状のしごとに対する不満や改善したい点のブレストをしたところ、教員による他教員への不満や学校文化への改善欲求はかなり高確率であった。

じゃあ、アメリカの「良くも悪くも」は何なのか?

  1. 機会平等主義的。
  2. 地方分権的。
  3. 市民社会・地域社会主導的。
  4. 政治的。

というところだろうか。とりあえず。

  1. 機会平等主義的。これはなかなか争点があるが、アメリカは機会平等、日本は結果平等、という安易な分かれ目ではない。教育機会そのものについて、保守派バラマキ反対(日本の保守政党である自民党はバラマキも好きなのでわかりにくいが、米共和党は基本的に小さな政府型かつ社会保障に金を使うの反対派である。バラマキも反対である)の人たちでさえ、「子供に機会を与えないのはだめだろ」という考えである。機会を与えられなかったら自己責任論が使えなくなるから当然だ。法的にも機会平等は意外とかたくて、例えばどこかの親が「政府の学校は信用しないからホームスクールします」と宣言したら、地方政府は「はいよ」と言っておしまいだが、日本でいう「いじめやら何やらでどっかの誰かちゃんが30日以上学校に行ってない」のがバレた時点で、最悪不登校児の親が親権をなくす騒ぎである。あと、特に人材の取りこぼしには慎重で、あまりいい学区ではない地域でも早いうちから才能の有りそうな子どもをかき集めたGifted and Talented Programや、そういう子どもを学区関係なく吸い寄せるMagnet Schoolなど、地域ごとにいろいろ機会を用意することに積極的である。学校の中にとどまらず、「うちの地域の子供達に、XXを学ぶチャンスを与えたい!」みたいな口調で資金集めや寄付集めをするアクティビストは常にたくさんたくさんいる。チャンスというのは、本当にバズワードなのだ。
  2. 地方分権的。Department of Educationは日本の文科省にはとても相当しない。オバマ大統領が8年間も、たとえば性教育をちゃんと普及させようとか、進化論の代わりに創造論を教えている地域の愚行をやめさせようとか努力したはずなんだが、教育の中身は州や学区や学校が決めることなのでなんにも出来なかった!らしい。アメリカの地方分権は、語るととても長いので割愛するが、オバマ時代にCommon Coreといって、ちょーっと学習指導要領っぽいガイドラインが作成され、学校で学ぶ中身の地域格差を是正し全体的に底上げしようというイニシアチブが取られた。が、「うちの州は使います」「うちの学区は無視します」みたいなことが自然に可能。あまり押し付けると「連邦政府が独裁化したああ!戦えええええ!」と、拒否反応を起こされる。トランプ時代になってDavosという大変評判の悪い教育大臣が就任したが、ぶっちゃけじゃあ次の日からカリキュラムが暗黒時代のそれに転落するのかというと、そういうことにはならないから、本当に「良くも悪くも」なのである。
  3. 市民社会・地域社会主導的。これも地方分権のサブカテゴリだが、長くなるのでちょっと分けてみた。じゃあ、具体的に例えば私が住んでいるカリフォルニア州プレザントン市の学校運営は誰のものなのか?誰が何をどう決めるのか?

ここからはちょっと込み入るので、分けて説明しよう。

  • そもそもな話、公教育の財源の大部分がその学区の住民の収めた固定資産税である(例外とか挙げたらキリがないけど原則として)。ここがまあ、地方分権の最大の根拠なんだが、州ですらなく郡ですらなく、School District(まさに学区)の狭い範囲内での地価の高低でその学校がお金あるかどうかを決めてしまう。
  • つまり、同じ州でも隣の学区でも、学校の質や地域サービスの質が全然違う!もちろん生徒の学力も先生の質も、鈴木氏が散々書いていたような「体育や美術の先生がいるかどうか」なども、この財源が潤沢かどうかで決まってしまう。最高に良い例が、シリコンバレーど真ん中の、Facebook創業者Mark Zuckerburg氏も住んでるPalo Alto地区がすごく地価も高く教育レベルも全米4位に輝いているのに対し、ちょっと車で10分離れただけのEast Palo Alto地区はめちゃめちゃ治安も悪く地価も安く学校の質も良くない、みたいなことである。このレベルでミクロなのだ。
  • 学区の中にSchool Boardという学校などを管理する教育委員会的な組織があるのだが、教育委員はただの地方公務員ではなくその学区内で選挙で選ばれる政治家である(!)。つまり、各学区のカリキュラムやら先生の進退、予算の使い方やらは、民主主義的な手続きで決定される。現職の教員は教育委員になることはまずないと思うが、教員経験者やPTA代表、学校の質によって地価がかなり上下するため地元を栄えさせるインセンティブが高い不動産屋など、まさに「地域の人」が学校運営に密接に関わる。地元の教育委員は若い政治家の登竜門ともいわれているポジションなので、大学を出たばかりの若者などが就任することも多い。
  • 地方によってノリは違うが、「みんなで地元の学校を魅力的にしよう!」的なメッセージが刺さる。特に、閑静な郊外なんかはそうだ。が、逆に、賃貸に住む若者ばかりで固定資産税があまり取れない大都市や、住民の教育レベルが低かったり治安が悪かったりする貧しい地域では、「そんなの関係ねぇ」と人材も関心度も低いまんまになってしまう。
  • 基本、個別の学校の中で何か問題があったときの陳情や、「うちの学区にも、もっとSTEM教育を入れてほしい」みたいな要望を、政治家たちは聴く立場にある上、国指定のカリキュラムも存在しないので、ローカル性が極めて強い公教育の出来上がりである。
  • 結果、アメリカの公教育は、「良くも悪くも」地域差が激しい。良い学区と悪い学区というだけの区別ではなく、例えばHarvard大学などトップスクールにも全国から学生が集まるが、同じ書面的には「地元の公立高校首席卒業しました」でも、「かなりレベルの高い論文を書ける子」と「ちゃんとした文章を書いたことがない子」が同じクラスルームに共存する。そういう意味の地域差だ。

4. 政治的。上のSchool Boardメンバーが政治家だというだけで「政治的」というわけではない。校内で政治教育がセンシティブだよとか、そういうことでもない。地域の人だけではなく、教員の政治的ステークホルダーっぷりも、結構すごいのだ。鈴木氏がどこかで「教員の身分保証が脅かされる」と騒いでいてなんだかんだ公務員の終身雇用前提がまだまだある日本では馴染みが薄い話だが、アメリカの公立教員は、

  • 3年働けばテニュアが(終身雇用権)付与され、よほどのことをやらかさない限り、クビになることはない。
  • 団体交渉により、地域によっては私立教員よりも給与が高い。

上記2点は、アメリカのほぼすべての学校が優秀な教員と教育熱心な地域の人と良い治安に恵まれていたら「素晴らしい公教育ですね」で済む話なのだが、残念なことに、そうではない。

この背景には、全国組織の教員組合(Teachers' Union)という、民主党最大の票田組織が存在し、公教育の改革を巡るあらゆる議論はぐるぐると、この団体の存在なしには語れないようになっている。

私は組合の批判者でも民主党の批判者でもない。実際、アメリカで教育改革を志すWendy Copp(Teach for America創設者)などのエリートは大抵がリベラルな民主党家庭に生まれていおり、教育問題に参画するまでピュアに民主党支持者だった、というのが多い。

ただ、この組合という政治組織は、その存在意義とインセンティブが「一人も見捨てず教員をかばい、団結を維持する」ことにある。その団結こそが数の力であり、民主国家では票の力であり、民主党議員を動かし政策を作らせる力である。

その団結の前には「良い教員も悪い教員も」ないし、「子どもたちの未来」もない(個々の教員の心には当然あるのだろうが、組合の論理の前には邪魔)。

“駄目な学習者なんか一人もいない。いるのは駄目な指導者だけだ。”

という有名なコトバがあるが、組合の前には、

“駄目な教員なんか一人もいない。いるのは駄目な政治家と企業と社会と子どもだけだ。”

くらいの勢いである。

「社会のために学校がある」のではなく「子供のために学校がある」のでもなく「教員のために学校制度があり、それを批判する存在は全部悪」とでも言わんばかりの感じである。

でも、そういうロジックなのは、なにも悪気があるわけではない。文科省のような中央集権的な省庁が存在しない国においては政治的な力を得るためには団結しかないという現実があるため、そうなったのだ。

そのロジックの副作用として、いい先生はここでも孤立し、悪い先生は放置され、「教師全体の威信」は社会全般では低くなってしまう。

また、いい先生ほどそういった目線がほんの一部のダメな教員に向けられたものだと知らず「こっちは子どもたちのためにこんなに頑張ってんのに馬鹿にするんじゃないよ!」と改革者に不信感を持つ。ここでなんかまた捻れてしまう。

「良くも悪くも」政治的なのには、良い点もある。今後、この国ではどんな教育をすべきか、みたいな議論の質が案外悪くないのだ。少なくとも、どこかの国の政府発表のように「教科書を使い続けましょう、未来50年先までも!」みたいな表面的な断言はしない。政治的にどちら側にいたとしても、アメリカは今は「テスト点数主義ではなく21世紀に必要なスキルを」と叫んでいるのが教育関係者だ。

先生だって、やる気のある先生なら活躍の幅は日本よりずっと広い。アメリカの先生は忙しくて苦労しているが、その忙しさの内容はほぼ「授業準備」だ。どういう授業をしたら、子どもたちが喜んで自分が教えている内容を学んで自信持ってくれるかということを頑張って考えている。授業が楽しくないと学級崩壊リスクがすぐ上がるから、という問題もある。学校組織のなかでヒエラルキー感が薄く、教員室のようなシステムさえない場所もたくさんある。教室=自分の城、みたいな。しかも、大学受験がペーパーテストではないのでそれに向けてこれとこれを教えなきゃ、とかもない。SATなど統一試験はカリキュラムに含まれていない。

その自由度は、母校のフェリス女学院中高の先生や、たぶん伝統的私立の変わり者先生によくあるカリキュラムづくりの自由度に近いかもしれない。自分の好きなものを好きなように教え、教科書は使わず、大学受験も気にしないというそれだ。

部活動だって、Gleeというドラマを観た人なら印象があるかもしれないが、先生がやりたいから顧問をやるのであり、顧問をやっていれば団体交渉の結果だが、そこそこお給料もちゃんと増える。副業も禁止じゃない(Breaking Badという化学教師が覚せい剤精製で儲けるドラマであったように、昼間教師をやって夕方からお店の店員をしないと家計が支えられないみたいな悲惨な形で知ったのだが)。

とはいえ、質が高いで有名な北欧人教師がアメリカで教えてみたところ「なんてリスペクトがなくてしかも自由度もないの!?」と文句を言っていたらしいのだが。

以上が、日米教育を語る上でどうしても外せない制度的仕組み的な差異である。日米は教育の上で似ている点も多々あるが、超超違う点も沢山存在し、米国で起きている問題は日本では起き得ないものも多いし、逆もしかりだ。

共通しているのは、「このまんまだと正規ルートで優秀な人間が教員を志すインセンティブがあんまりない」というところである。

今回はこの話は背景として紹介しておいて、次回はTeach for Americaやチャータースクール、うまく行ったいかないのそれぞれあるが、教育改革を志した若いエリート層の挑戦など、具体的なケースの話をしてみよう。


『未来の教室』日本の学校教育が世界的な先進性を手に入れるために見落としてはいけない重要な要素とは、教員という「人間たち」である。

HeroMakers2018の集合写真。首都圏に限らず、遠くは隠岐の島や金沢などからの参加者も。

教育改革は、世界的にホットな課題だ。

「私の国の教育は時代遅れだ。生徒がロボットのように聴いている中で、先生は前に立って言われた内容を右から左に流すだけ。学びの本質も何もあったものではない。親も学校も生徒も、本質を思考したり社会に何を貢献したりなど考えることなく、点数などの短絡的なゴールを目指して短い青春を費やす。そういう教育で生産された人材は、受け身で主体性というものがなく、この技術発展目まぐるしい社会で生き残れるのだろうか」

上記のような嘆きは、日本特有のものではない。

同じく点数主義の中国韓国だけのものでもない。アメリカを始めとするかなり多数の国の教育ステークホルダーの嘆きだ。

現代公教育の起源は、工業化社会の労働力育成ためにグローバルスタンダード化されたシステムである

2016年頃から日本中を席巻した教育ドキュメンタリー『Most Likely To Succeed』の冒頭でもさんざんやっていたが、近代型初等中等教育の学校(ざっくり小中高のこと)は、ようは世界基準なのだ。

グローバルスタンダードなのだ。

「同一学年同一教室」「教科学習と前に立つ先生」「丸暗記でしのげる統一試験で到達度評価」「学びの本質より、処理能力」「賢い一部の子より全体品質の保証」「学校組織が地域社会の要」

こういう仕組みは、ざっくりどの国もそうなのである。日本のそれの執行精度が高かったため、第二次工業革命(高度成長期のやつ)で大成功を収めたってだけだ。

その仕組みの老朽化や疲弊や、第四次産業革命についていけるのかよという懸念や、生産された人材の主体性積極性モチベーション問題なども、一国の問題ではとうにないのである。格差固定化も世界レベルの問題である。

なので、世界規模で改革が進んでいる。

「日本国内の国際派エリートが、『世界に取り残されないようにしよう』と少数で息巻いているいつものあれ」ではない。

だが、マクロレベルで本質的に問題が同じでも、国と地域によってちょっとずつツボが違う。教科学習の出来にも差はあるし(PISAなど参照)、どういう人間が教員になるのか、学校文化は柔軟かどうか、公教育と私学のバランス、エリートの定義、教育が中央集権的かローカル自決的か、などなど。

改革は恐ろしい。

明治初期、義務教育制度(グローバルスタンダードとしての近代型初等中等教育)を日本がローカライズしようとした際は、「学校一揆」が各地で頻発したらしい。

ちょっとずつの改善ならまだしも、そもそもの「学校制度の目的と本質」を問うような変化が求められたら、それくらいは起こる気がする。現にアメリカでは起こっている。

その中で、結局の所、日本の場合の改革可否を決める最重要要素は、

「現職の先生をどれくらい巻き込めるか」

だという結論に、2018年初頭くらいに私は達した。

日本からグローバルリーダーを輩出したいのなら、先生こそがグローバルリーダーに。

そう提案したら、経産省『未来の教室』実証事業に採択され、10月からHeroMakersを開講することが出来た。

これは、日本の教育界、人材育成界全体のマインドセットを変えるつもりで構想してきた。世界を見渡しても、「先生」に投資しない教育改革に未来はないことを受け止め、噛み締め、ここに至る。


『崩壊するアメリカの公教育――日本への警告』鈴木大裕氏の「日本の公教育の崩壊が大阪から始まる」に対する、公教育VS新自由主義まわりの議論について首を突っ込んでみた。

#HeroMakers などという、「既存のシステムにいる現場の先生をエンパワーして好きなことを好きにできるようにするアントレプレナーシッププログラムを政府資金でやっている」立場の私なので、「公教育と教員と平等」に対するスタンスは、ある程度お察しいただきたいのだが、くだんの大阪の公立や私立の先生ならびに関心が高い先生たちの注目も集めているこの話題なので、どうしても私から見たほうの世界を語らずには居られなくなった。

私のスタンスとしては、

1. 公教育は機会平等という意味でも、市民教育という意味でも、国力(から派生する個人の幸せや社会秩序)という意味でも、崩壊させるに任せるのは、イクナイ。あと、格差もイクナイ。2000年台中盤、「格差」や「下流社会」「勝ち組負け組」が面白半分に話題にされ、2010年中盤以降ようやく笑えなくなるくらい世間に認知されるようになったが、まだ一般認識で自己責任論が目立つ。

(これは、勝ち組志向のあるインターAND私立主義な人たちにも共有してほしい感覚です!「うちの子さえ生き残れれば」感覚は誰の幸せにもつながらないですよー)

2. 今回検討されている「学力テストの出来で教員のペイを上下させる」メリットペイ制度は、確かにアメリカではあんまりいい結果を生んでいないし、日本でも産まない可能性のほうが高いだろう。私も賛成だとは言わない。

3. 学力テストの点数がそのまま、今後の世界を生き抜く力に直結するかといったら、しないだろう。その能力指標は、めちゃくちゃ時代遅れである。

4. アメリカの教育改革の失敗(というか関係者暴走による迷走)は日本でも同じようなことが高確率で起こりうるので、警鐘を鳴らす必要は確かにある。

ここまでは、鈴木氏の主張に賛成。

けど、この論調に対して、アメリカと日本の教育や教育改革者(どっち側のも)に接してきた上に自分も21世紀型教育の改革者として、「反対というよりは斜め横から」言いたいことがいくつかある。

鈴木氏に、だけじゃない。

アメリカでもDiane Ravitch女史など、「市場型教育改革や国際エリート型改革主義へのアンチ論者」は多数いて、(考えてみたら、鈴木氏の主張は、その人達の話の丸コピ日本語訳だ)彼らのスタンスに対して、すごく言いたいことがある。

まったくMECE(ダブりなくもれなく)じゃないけど今からつらつら述べるね。

A. 全てを「新自由主義と大企業とエリートのせい」にすればいいと思っていない?「従来の教育の機能不全や不平等」など、もともとあった問題の責任と、問題の重要当事者として存在する公教育側の人間たちの責任を総棚上げしてない?

鈴木氏はまだそんなこと書いていないが、Diane派の教師TEDxトークの中には、

「僕は、16歳で九九も満足に言えない女の子のチューターをしています。

彼女のような子が、自分はだめな存在であると思ってしまうのは、全部ペーパーテスト重視の環境のせいです!」

なんてのもあった。

いや、16歳で九九が言えない子を作ったのは教師組合の管理下にあったパブリックスクールであり、貧困など多様な理由があるにしても、責任の一端は存在するよね?

発達障害その他で人口の数%がその学力状況だったとしても、アメリカの場合、明らかにその率を越えて%が高いので企業やエリートが「なんとか自分たちで変えようぜ」とTFAやチャータースクールを作ったことを全部さして「コイツラが全部悪い」と言っているのである。

責任転嫁もいいところである上に、「じゃあ、子どもたちが学ぶようになるにはこうすれば良い」が皆無である。

B. 日本の日教組、アメリカの教師組合など、かなり強い政治力を持つ団体のスポークスマンになりすぎじゃない?

(日本のやつは元気がないけどアメリカのはまだまだ強く、民主党の票田といわれている。このへんの論理は別文章でまた詳しく。)

「学校に企業の論理が入るのはよくないよね」「勝ち組負け組はよくないよね」「格差はよくないよね」「教員の身分が危うくなるのよくないよね」「テクノロジーによって教員が誰でも出来る仕事になるのはよくないよね」と、「上や斜め上の政府・企業からの改革圧力」に対して不安や不満が溜まっていた教員集団に向けてテーラーメイドされたような「価値観的」プロパガンダが目立ち、本質的に最も大事であるはずの「子供たちに対してどうすればいいか」の議論が超少ない。

それは、教師組合の組織的目的(個々の教員の思惑などではなく)は「教師の福祉や権利の全体向上」であり、「教育の質を上げること」ではないからである。何なら、「子どもたち」が主語の目的は一つもない。

民主主義のシステム上、「良い教員」も「悪い教員」も平等に一票の権利があり、経済力も職能的影響力も限定的な教員が政治的な力を勝ち取るためには、「優秀かそうでないか関係なく一人も見捨てず団結することで民主党にとって見逃せない票田になること一択」戦略しか存在し得ないのが現実である。

日本の組合はもはやそのような力も存在感もないが、本件の背景にはそういう政治的背景があるということを知らずしてこの日米比較議論に参画することは結構危険だ。

C. 批判しまくっている市場経済システムに対する理解が足りないからだと思うけど、「じゃあ教育をどう改革したら、教員たちが毎日向き合っている子供たちが将来、生産性の高い市民(And納税者)になれるのか」みたいなことを論じる視点がない。

むしろ言動の端々に、「生産性を上げる=悪」みたいな価値観が浸透しているのだが、日本の労働生産性がめちゃめちゃ低い現状、まじでそれ…え?という。

公教育のミッションは市民教育なのはもちろんだが、現状公教育のシステムは工業化社会の労働者生産に最適化されている。『Most Likely to Succeed』の冒頭でも説明されていたからかなりの意識高い教員は知っていると思うが、日本の普通教育が普通選挙より何十年も早く制定されたことも鑑みると、公教育のミッションは国民ひとりひとりの生産力向上であり国力増強である。昔の生産力向上ミッションが今の脱工業化社会にふさわしい人材を輩出しておらず、ゆえに改善が必要と世界で叫ばれている。

今の教育改革のキモはそこの節目で教員がどう活躍できるかであり、アンチ資本主義に走る節目ではない。

そもそも、「新自由主義(アンチ資本主義の文脈で使われる事が多い)」「勝ち組負け組(格差が冗談ではなくなった現在、日本でさえ政治的に正しく使うのは無理)」という扇情的かつワーディングがよほどアップデート出来ていない教員にしか響かない内容であることから、どうしても衆愚的プロパガンダの匂いを感じてしまう。

E. そもそもプロパガンダとしての効果もいまいちだ。「ペーパーテストで測る学力感はお粗末であり、そんなのは本物の知性ではない」という議論はアメリカではみんなが「うんうん」言うところだ。アメリカでは大学入試におけるペーパーテストの必要度が低く、高校も特別な地区を除いては義務教育なので全員が居住学区の高校に入学資格が付与されるから、そもそもペーパーテストは「本当の学びではない」とよく悪者にされる。

しかし、大学入試も高校入試もほぼペーパーテストで「しか」判断されず、なんなら世の中全てがペーパーテストの結果である「偏差値」で評価されて当たり前だと 教 師 も大多数受け入れてしまっている日本の教育現場でそれをいきなり持ち出されても違和感しかない。

え、そのロジックで過去150年やってきたんですけど?っていう。教師も生徒も保護者も偏差値で評価されるのが当たり前で、なんなら中学校の進路指導や高校の進路指導はその偏差値で教え子のことを差別的に評価することも、かなり多くの地域で罪悪感なくやられていることだし、むしろそれが「平等」だと考えられていた。

偏差値に変わる学力感は、これから頑張って定義していくところで、むしろ文科省主導の「主体的なんちゃら」に「そんなこと言ったって、生徒を大学に入れるのが我々の仕事だ」と批判的な教員が多い。

そんな環境で、ペーパーテスト批判をしてもプロパガンダ効果は…うーん。けど、「試験成績だけが大事じゃないよね」と、生活態度など管理しやすさを確保しようと色々棚上げする文化も学校にはあるのでやはり危険。

その思考停止と建前主義は、実は心ある先生の足かせになっている現実があるので#HeroMakersのみなさんが積極的に殻を破ろうとしているのを応援している。

F. 「教員の身分保障」が「教員というだけで一生安泰前提のアメリカのテニュアのようなもの」なら、断固やめたほうが良い。

教員の専門性が下がり、誰でも出来る仕事になるという点は、現状維持しか考えていない教員には悪いニュースかもしれないが、世界全体で見たら良いニュースである。

世界的には、「いい先生」は常に足りていないし、AI教師ひとつでミドルクラス納税者を創れるなら、人類の未来は明るい。

それに、未来の教室の論調では「オーソドックスな学力はAIにまかせて、本当に必要な力の方は生きた教員がやりましょう。むしろ専門性は従来以上に必要になるよ」ってことです。

AIが教えられること=学力、ではなく「主体的なんちゃら」がこれからのトレンドなので日本の場合それは大丈夫なんだし。

むしろ、そのポイントを既存の先生と争わなきゃいけない我々はどうしたら良いんだ。

G. 日本の教育が真似してはいけないのは、この政治的にねじれた構造と「何でも大企業と政府の癒着のせいにして自分たちの責任を棚上げする態度と陰謀論召喚のクセ」だ。

実は、#HeroMakers を提案したとき、私の頭にはこのアメリカで繰り広げられた「エリートAnd大企業AND国VS既存教員と既存の教育システム」という迷走し続けている抗争があった。

日本でこういう「誰にも悪気はないのに陰謀論のぶつけ合いで収拾つかずに子供たちだけが犠牲になる」不毛なことを展開せずに、今の先生が楽しく働けるように動き、子供たちがこれからの社会で活躍できるスキルを手に入れられる教育改革にしようぜと思ったのだ。

そのためには、誰でもなく現役教員がとっとと「子どもたちの未来」を主語に世界とリアルタイムで向き合って、私や政府や企業が思いつかないような教育ソリューションを実験し実践し提案すること以外ない。

それが出来るチャネルを創るために、#HeroMakersを提案したのだ。

ここだけの話。

H. 以上のように、アメリカの教育改革の局部的迷走はたしかに日本社会のこれからの改革への警鐘なんだけど、その経緯は述べられている以上に複雑。

アメリカの教育を苦しめている本当の理由は格差(日本のなんか真っ青の格差)であり、また教育に人材が集まらないことであり、加速するミドルクラスの崩壊であるのだが、教育者は本当は、「教え子の未来に責任を持つ者」としてそこに目を向ける必要がある。

けれど、この手の議論はプロパガンダと陰謀論の応酬になっていて、肝心の格差問題や学力観のアップデートや先生のエンパワリングではなく、「イマの先生たちは何も悪くないから今までどおりでいいよ。改革者は全員金儲けしたいだけのワルモノだよ」みたいなことを言ってただでさえ不満が溜まっていた先生たちの折れかけた心につけ込む煽り方は関心しない。

I. 日本の教育の良さは「アメリカに比べたら格差が激しくなく、上位層も下位層も同じ教材使って同じ試験を受ける」こと。

改善すべき点は「その『中身』が硬直的で未来どころか今の社会に必要な競争力のある人材の育成にも微妙に寄与していないこと」。あるべきエリート教育の欠落がそれだ。それは今のシステムにニューエリート教育をうまく流し込めば、全世界で起こりかけている分断と認知の格差を是正するのぞみがあるってことである。

警鐘は「このまんまじゃ勝ち組、移住組、インター組やグローバル教育ができる名門校組と、そうじゃないところで格差広がるぞ」「あと、プロパガンダに流されると本質を見失って怖いぞ」

大チャンスは「今の素敵な平等インフラにアップデートした『中身』を流し込めば、北欧的に『格差が少ないのに全体的にニューエリート』になれる可能性が高い」

Ning Shirakawa (白川寧々)

『英語ネイティブ脳みそのつくりかた』著者。Founder/US CEO of Taktopia & Co教育起業家。華僑。経産省未来の教室事業 Hero Makers創設者。グローバル教育革命家。教育乱世。フェリス女学院中高/Duke University/MIT (MBA)

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