アメリカの公教育が崩壊している件の深層ロジックと日本が本当に汲み取るべきメッセージ

Ning Shirakawa (白川寧々)
19 min readJan 10, 2019

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この記事をきっかけに、#HeroMakers に参加している先生の人たちから、

「寧々さんはアメリカのいい感じの教育メソッドを日本でローカライズしてるけど、この前『崩壊する米国公教育ー日本への警告』(鈴木大裕 著)を読んで、アメリカの教育の光と影の影の面についてはどう思ってるのか知りたい。そして実態も知りたい」

というリクエストを受けっぱなしにしていた。色んな所で書き散らかしているけどこれを機に多分同じような疑問を持つ先生の人たちの役に立てるかなと思って、とりあえず書いてみる。

アメリカの話に入る前に、他の国の教育を論じるのは楽しいけど前提としてさあ、って話をまずしようか。

先生たちの対話と、鈴木氏の著書のカスタマーレビューを読んでまたかなり驚いたのは、

「アメリカの教育は素晴らしいと思っていたけれど、こういう問題もあるのだから手放しで真似してはいけないなと思った。日本の良さもあるので日本は日本のままでいい

みたいなコメントが多いことである。

まじかよ。

まず、日本人の一般認識の中のアメリカが、そんな桃源郷のような位置にいたとは知らなかったよ。アメリカは、ちょっとでも行ったことある人ならわかると思うけど、ご飯だってまずいし(美味いものは値段が高い)、道にはゴミが落ちているし、貧富の差だって先進国随一だ。見た目からして別に桃源郷ではない。

教育だけの話をすれば、まあ、日本で伝えられているように、当然先進的なところがたくさんある。

個別にボストンやシリコンバレー(とは便宜上とりあえず言ってみるけど、主にボストン)などにあるちょっといいシステムや新しい試みはそりゃどんどん生まれているし、大学発のイノベーションもアクティビズムも資金力も多様性も随一だし、ちょっと目を離したスキにミネルバ大学みたいな面白い機関も生まれているし、ホームスクールも自由だし、受験プレッシャーがなくて質の良い公教育はたくさんある。そして、全体的にリーダー輩出能力が非常に高い教育システムだということは、私が接してきた90年台生まれの起業家達を見ても一目瞭然だ。

そう、真似(出来るかどうかはおいておいて)すべき良いところは非常に沢山ある。

が、大国であるがゆえに割と日本がまだ現時点では真似しようもない理由による、しょうもないところだって当然沢山あるのだ。

そもそも日本人が割と気にしているめのPISAスコアだって確かG7最低の28位とかだし、そもそもアメリカに対してどんなイメージを持っていた上で「アメリカの教育が素晴らしいって聴いていたのに鈴木氏の本を読んでショックを受けた」人がこんなに多いのだろうと疑問に思えてならないのだが、それだけ大国の前例は興味津々ってことなのだろうか?

それと同時にすごいびっくりなのは、「日本の教育の良さもわかったので変えなくていいと思いました」的なコメントである。

例えて言うなら、「富国強兵。西洋に追いつき追い越せ!」モードの直前だったときの日本には、確かに英国のように産業革命真っ只中で子どもが労働者として酷使される問題はまだ存在しなかったに決まっているが、「そういう問題があるから産業革命とか工業化とか西洋の真似とかやめましょう」という議論にはならないはずだ。

(一部ではなったかもしれないが、明治維新の経緯を考えるとありえない流れだ。ちなみにガンジーの構想するインドは工業化大反対だったらしいが、死後すぐに「ありえねえわ」と覆された)

結局日本で、産業革命に伴う労働者搾取の問題は回避できなかったが、なんでも新しいものを他国から学ぶ場合は、普通その制度の失敗や危険性も認知した上で、なるべく恩恵の方が多くなるように調整しながら取り入れるものであるに決まっている。

私が#Heromakersの序文、

でも触れたように、アメリカも含む世界中の国々が教育改革に走っていて、世界は教育軍拡レースだ。

そんななか、自分のとこの国の教育が完璧!って思っている教育関係者は、よほどの世間知らずか、現実逃避・思考停止者かだ。

(残念ながら、職業柄、日本でそういう現職教員を見たことがなくはないのだが、そういう駄目教員の一番の被害者は生徒、二番目の被害者は同僚の心ある先生とかなので本当に同情申し上げる)

何度も何度もいうが、今世紀の問題を解決するための人材が、既存のグローバルスタンダードである工業型教育モデルでは育たないんじゃないか?という前提で世界全体が動いていてる。

私は、「日本だけが遅れているから諸外国の真似をしよう」というマインドセットでは到底ない。

諸大国がみんなスウェーデンやデンマーク、イスラエルや中国を視察し、自前でアントレプレナー育成プログラムやAI教育プログラムを作成し、STEMに大金を投じ、世界的教育軍拡レースの様相を呈している今、たくさんのことを知っているというだけでなく、世界をちょっとでも変える勇気ある人材がとりあえず必要な今、2000年台では「周回遅れ」だが2010年台後半からは「一周回ってチャンスがある」と私がみている日本の教育現場がアメリカ発の左派教員組合系プロパガンダ日本語訳版(しかも考え方が10年古い)に付き合っている暇も振り回されている暇もない。

特にこれから大変革の立役者となるはずの現役先生の人たちにはそんな暇はないので、この私のシリーズ化しそうな文書は完全にFFでいうとディスペル(解呪)の役割および、一国の教育システムを論じる際に役に立つだろう思考フレームワーク提供という役割を果たせたら幸いである。

米教育システムを語るときの枕詞は、常に「良くも悪くも」なので、安易な言論には注意せよ

日本にだって、中国にだって、教育システムには、「良くも悪くも」が存在する。この部分は本当に面白い。今この瞬間に表面化している問題やその是非ではなくて、その骨の構造の部分に切り込めるからだ。最深部ではまったくないが、わかりやすいので羅列してみる。

例えば、日本の教育システムは、「良くも悪くも」……

1) 平等主義的 2)中央集権的 3)上意下達的 4)点数重視主義的 5)形式主義的 である。ざっと説明すると、

  1. 平等主義的。これは言わずもがなだが、教育の中身も成果も平等が重視される。いわゆる一条校間の格差は教員の個人の資質を別にすれば同じ教科書・同じ指導要領・同じ教員免許試験を受けた人間が教える。エリート教育に対してみんながアレルギー反応を示す。これは別に当たり前のことではない。あと、生活指導的な部分でも、給食・校庭・保健室・運動会・体育・芸術科目…それらの習慣が地域にかかわらず一条校であれば保証されている。これもアメリカからすればちっとも当たり前のことではない。
  2. 中央集権的。1の平等主義を可能にしているのが、学習指導要領・教員免許・検定教科書を握って上意下達的に運営している文科省だ。ローカル教育委員会で色々新しいことに挑戦しているところもあるが、基本は公務員なので制度的に教育は中央が決めるモノ、ということになっている。アメリカは地域教育委員会が地方選挙で決まり、国は割と一切口を出せないから面白い。
  3. 上意下達的。2の制度上、個々の教員は「基本的に免許を持っていたら誰がなっても同じ」前提で運営されている。実際のクラスルーム運営の知恵や現場の苦労はさておき、地方の事情もさておき、基本的には「国の政策でアクティブ・ラーニング教えなさい」→「はい(腹の中はまた別の話)」という構図である。例えば「うちの地域はこうやって教えます」「うちの地域は大学受験から英語を外します」→中央政府「わかった。とりあえずやってみ」みたいな、中国のような流れはありえない。あと、生徒や保護者との関係においても、学校が国の権威を着て上から接することに保護者が腹を立てて色々物申し始めた昨今の事象をモンスターペアレンツと呼んで対話どころじゃない感を醸し出しているのも、ピラミッド型な組織図の最低部に生徒がいるという構図を物語っている。
  4. 点数重視主義的。これは東アジア文化圏というか、旧中華帝国文化圏の影響を受けた国なら全部そうなんだけど、試験と点数が重要視される。中国や韓国と比べると日本は点数重視の度合いがまだいろんな社会的文化的制約のなかでゆるやかな方だ。アメリカの場合、歴史的には本当に全くこの限りではない。なさすぎて、最初は面食らったものである。が、この方向にシフトしようとして最近もめている。
  5. 形式主義的。制服の着こなしやら、校則やら、掃除やら、季節の行事やら、『学校の当たり前をやめてみた』の麹町中工藤校長が本質的疑問を呈するまで誰も問題視しない「当たり前」がめちゃくちゃ多いのが日本の一条校である。その当たり前を思考停止レベルかつ人が死ぬレベルに守ってしまうのが日本の教育の悪いところには違いない。ちなみに、この形式主義は良いところもあって、『How Children Succeed』で取り上げられた、その場の学力よりも人生の成功を左右する、非認知能力を育てるための生活習慣やルールに、「あ、これ日本で当たり前にやってることだらけだ」と気づいた。KIPPというアメリカの貧困層の子どもたちの学力や将来展望を飛躍的に向上させたチャータースクールでも、アメリカの他の学校になかったような形式主義を、貧富の差の是正を図る道具にしている。4の点数主義とはちょっとクラッシュするのも面白い点だ。中国では一条校の点数主義の方が全体的に強いため、同国内のルールが多いインターナショナルスクールに転校した生徒が一夜にして「積極的で成績の良い先生のお気に入り」から「成績を鼻にかけてルールを破りまくる問題児」に変わる事例が報告されている。
HeroMakersの一幕。現状のしごとに対する不満や改善したい点のブレストをしたところ、教員による他教員への不満や学校文化への改善欲求はかなり高確率であった。

じゃあ、アメリカの「良くも悪くも」は何なのか?

  1. 機会平等主義的。
  2. 地方分権的。
  3. 市民社会・地域社会主導的。
  4. 政治的。

というところだろうか。とりあえず。

  1. 機会平等主義的。これはなかなか争点があるが、アメリカは機会平等、日本は結果平等、という安易な分かれ目ではない。教育機会そのものについて、保守派バラマキ反対(日本の保守政党である自民党はバラマキも好きなのでわかりにくいが、米共和党は基本的に小さな政府型かつ社会保障に金を使うの反対派である。バラマキも反対である)の人たちでさえ、「子供に機会を与えないのはだめだろ」という考えである。機会を与えられなかったら自己責任論が使えなくなるから当然だ。法的にも機会平等は意外とかたくて、例えばどこかの親が「政府の学校は信用しないからホームスクールします」と宣言したら、地方政府は「はいよ」と言っておしまいだが、日本でいう「いじめやら何やらでどっかの誰かちゃんが30日以上学校に行ってない」のがバレた時点で、最悪不登校児の親が親権をなくす騒ぎである。あと、特に人材の取りこぼしには慎重で、あまりいい学区ではない地域でも早いうちから才能の有りそうな子どもをかき集めたGifted and Talented Programや、そういう子どもを学区関係なく吸い寄せるMagnet Schoolなど、地域ごとにいろいろ機会を用意することに積極的である。学校の中にとどまらず、「うちの地域の子供達に、XXを学ぶチャンスを与えたい!」みたいな口調で資金集めや寄付集めをするアクティビストは常にたくさんたくさんいる。チャンスというのは、本当にバズワードなのだ。
  2. 地方分権的。Department of Educationは日本の文科省にはとても相当しない。オバマ大統領が8年間も、たとえば性教育をちゃんと普及させようとか、進化論の代わりに創造論を教えている地域の愚行をやめさせようとか努力したはずなんだが、教育の中身は州や学区や学校が決めることなのでなんにも出来なかった!らしい。アメリカの地方分権は、語るととても長いので割愛するが、オバマ時代にCommon Coreといって、ちょーっと学習指導要領っぽいガイドラインが作成され、学校で学ぶ中身の地域格差を是正し全体的に底上げしようというイニシアチブが取られた。が、「うちの州は使います」「うちの学区は無視します」みたいなことが自然に可能。あまり押し付けると「連邦政府が独裁化したああ!戦えええええ!」と、拒否反応を起こされる。トランプ時代になってDavosという大変評判の悪い教育大臣が就任したが、ぶっちゃけじゃあ次の日からカリキュラムが暗黒時代のそれに転落するのかというと、そういうことにはならないから、本当に「良くも悪くも」なのである。
  3. 市民社会・地域社会主導的。これも地方分権のサブカテゴリだが、長くなるのでちょっと分けてみた。じゃあ、具体的に例えば私が住んでいるカリフォルニア州プレザントン市の学校運営は誰のものなのか?誰が何をどう決めるのか?

ここからはちょっと込み入るので、分けて説明しよう。

  • そもそもな話、公教育の財源の大部分がその学区の住民の収めた固定資産税である(例外とか挙げたらキリがないけど原則として)。ここがまあ、地方分権の最大の根拠なんだが、州ですらなく郡ですらなく、School District(まさに学区)の狭い範囲内での地価の高低でその学校がお金あるかどうかを決めてしまう。
  • つまり、同じ州でも隣の学区でも、学校の質や地域サービスの質が全然違う!もちろん生徒の学力も先生の質も、鈴木氏が散々書いていたような「体育や美術の先生がいるかどうか」なども、この財源が潤沢かどうかで決まってしまう。最高に良い例が、シリコンバレーど真ん中の、Facebook創業者Mark Zuckerburg氏も住んでるPalo Alto地区がすごく地価も高く教育レベルも全米4位に輝いているのに対し、ちょっと車で10分離れただけのEast Palo Alto地区はめちゃめちゃ治安も悪く地価も安く学校の質も良くない、みたいなことである。このレベルでミクロなのだ。
  • 学区の中にSchool Boardという学校などを管理する教育委員会的な組織があるのだが、教育委員はただの地方公務員ではなくその学区内で選挙で選ばれる政治家である(!)。つまり、各学区のカリキュラムやら先生の進退、予算の使い方やらは、民主主義的な手続きで決定される。現職の教員は教育委員になることはまずないと思うが、教員経験者やPTA代表、学校の質によって地価がかなり上下するため地元を栄えさせるインセンティブが高い不動産屋など、まさに「地域の人」が学校運営に密接に関わる。地元の教育委員は若い政治家の登竜門ともいわれているポジションなので、大学を出たばかりの若者などが就任することも多い。
  • 地方によってノリは違うが、「みんなで地元の学校を魅力的にしよう!」的なメッセージが刺さる。特に、閑静な郊外なんかはそうだ。が、逆に、賃貸に住む若者ばかりで固定資産税があまり取れない大都市や、住民の教育レベルが低かったり治安が悪かったりする貧しい地域では、「そんなの関係ねぇ」と人材も関心度も低いまんまになってしまう。
  • 基本、個別の学校の中で何か問題があったときの陳情や、「うちの学区にも、もっとSTEM教育を入れてほしい」みたいな要望を、政治家たちは聴く立場にある上、国指定のカリキュラムも存在しないので、ローカル性が極めて強い公教育の出来上がりである。
  • 結果、アメリカの公教育は、「良くも悪くも」地域差が激しい。良い学区と悪い学区というだけの区別ではなく、例えばHarvard大学などトップスクールにも全国から学生が集まるが、同じ書面的には「地元の公立高校首席卒業しました」でも、「かなりレベルの高い論文を書ける子」と「ちゃんとした文章を書いたことがない子」が同じクラスルームに共存する。そういう意味の地域差だ。

4. 政治的。上のSchool Boardメンバーが政治家だというだけで「政治的」というわけではない。校内で政治教育がセンシティブだよとか、そういうことでもない。地域の人だけではなく、教員の政治的ステークホルダーっぷりも、結構すごいのだ。鈴木氏がどこかで「教員の身分保証が脅かされる」と騒いでいてなんだかんだ公務員の終身雇用前提がまだまだある日本では馴染みが薄い話だが、アメリカの公立教員は、

  • 3年働けばテニュアが(終身雇用権)付与され、よほどのことをやらかさない限り、クビになることはない。
  • 団体交渉により、地域によっては私立教員よりも給与が高い。

上記2点は、アメリカのほぼすべての学校が優秀な教員と教育熱心な地域の人と良い治安に恵まれていたら「素晴らしい公教育ですね」で済む話なのだが、残念なことに、そうではない。

この背景には、全国組織の教員組合(Teachers' Union)という、民主党最大の票田組織が存在し、公教育の改革を巡るあらゆる議論はぐるぐると、この団体の存在なしには語れないようになっている。

私は組合の批判者でも民主党の批判者でもない。実際、アメリカで教育改革を志すWendy Copp(Teach for America創設者)などのエリートは大抵がリベラルな民主党家庭に生まれていおり、教育問題に参画するまでピュアに民主党支持者だった、というのが多い。

ただ、この組合という政治組織は、その存在意義とインセンティブが「一人も見捨てず教員をかばい、団結を維持する」ことにある。その団結こそが数の力であり、民主国家では票の力であり、民主党議員を動かし政策を作らせる力である。

その団結の前には「良い教員も悪い教員も」ないし、「子どもたちの未来」もない(個々の教員の心には当然あるのだろうが、組合の論理の前には邪魔)。

“駄目な学習者なんか一人もいない。いるのは駄目な指導者だけだ。”

という有名なコトバがあるが、組合の前には、

“駄目な教員なんか一人もいない。いるのは駄目な政治家と企業と社会と子どもだけだ。”

くらいの勢いである。

「社会のために学校がある」のではなく「子供のために学校がある」のでもなく「教員のために学校制度があり、それを批判する存在は全部悪」とでも言わんばかりの感じである。

でも、そういうロジックなのは、なにも悪気があるわけではない。文科省のような中央集権的な省庁が存在しない国においては政治的な力を得るためには団結しかないという現実があるため、そうなったのだ。

そのロジックの副作用として、いい先生はここでも孤立し、悪い先生は放置され、「教師全体の威信」は社会全般では低くなってしまう。

また、いい先生ほどそういった目線がほんの一部のダメな教員に向けられたものだと知らず「こっちは子どもたちのためにこんなに頑張ってんのに馬鹿にするんじゃないよ!」と改革者に不信感を持つ。ここでなんかまた捻れてしまう。

「良くも悪くも」政治的なのには、良い点もある。今後、この国ではどんな教育をすべきか、みたいな議論の質が案外悪くないのだ。少なくとも、どこかの国の政府発表のように「教科書を使い続けましょう、未来50年先までも!」みたいな表面的な断言はしない。政治的にどちら側にいたとしても、アメリカは今は「テスト点数主義ではなく21世紀に必要なスキルを」と叫んでいるのが教育関係者だ。

先生だって、やる気のある先生なら活躍の幅は日本よりずっと広い。アメリカの先生は忙しくて苦労しているが、その忙しさの内容はほぼ「授業準備」だ。どういう授業をしたら、子どもたちが喜んで自分が教えている内容を学んで自信持ってくれるかということを頑張って考えている。授業が楽しくないと学級崩壊リスクがすぐ上がるから、という問題もある。学校組織のなかでヒエラルキー感が薄く、教員室のようなシステムさえない場所もたくさんある。教室=自分の城、みたいな。しかも、大学受験がペーパーテストではないのでそれに向けてこれとこれを教えなきゃ、とかもない。SATなど統一試験はカリキュラムに含まれていない。

その自由度は、母校のフェリス女学院中高の先生や、たぶん伝統的私立の変わり者先生によくあるカリキュラムづくりの自由度に近いかもしれない。自分の好きなものを好きなように教え、教科書は使わず、大学受験も気にしないというそれだ。

部活動だって、Gleeというドラマを観た人なら印象があるかもしれないが、先生がやりたいから顧問をやるのであり、顧問をやっていれば団体交渉の結果だが、そこそこお給料もちゃんと増える。副業も禁止じゃない(Breaking Badという化学教師が覚せい剤精製で儲けるドラマであったように、昼間教師をやって夕方からお店の店員をしないと家計が支えられないみたいな悲惨な形で知ったのだが)。

とはいえ、質が高いで有名な北欧人教師がアメリカで教えてみたところ「なんてリスペクトがなくてしかも自由度もないの!?」と文句を言っていたらしいのだが。

以上が、日米教育を語る上でどうしても外せない制度的仕組み的な差異である。日米は教育の上で似ている点も多々あるが、超超違う点も沢山存在し、米国で起きている問題は日本では起き得ないものも多いし、逆もしかりだ。

共通しているのは、「このまんまだと正規ルートで優秀な人間が教員を志すインセンティブがあんまりない」というところである。

今回はこの話は背景として紹介しておいて、次回はTeach for Americaやチャータースクール、うまく行ったいかないのそれぞれあるが、教育改革を志した若いエリート層の挑戦など、具体的なケースの話をしてみよう。

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Ning Shirakawa (白川寧々)

『英語ネイティブ脳みそのつくりかた』著者。Founder/US CEO of Taktopia & Co教育起業家。華僑。経産省未来の教室事業 Hero Makers創設者。グローバル教育革命家。教育乱世。フェリス女学院中高/Duke University/MIT (MBA)