希望のアイコンとしての乃木坂46 その4

出会いとは小さな生であり、別れとは小さな死だ。

その意味で、アイドルは二度生まれ、そして二度死ぬ。

これは僕なりの美学。(美学とか書いてる自分に自己嫌悪)

生きるということは、沢山の可能性を生み出し、同時に沢山の可能性を殺すこと。アイドルも同じ。芸能界に入ることで生まれる可能性、青春時代を捧げることで失われる可能性。

失ったものは「家族との思い出」と「学校生活」。家族とはもう3年は一緒に暮らせたはずだけど、それを犠牲にしてしまった。あと、別に学校は好きじゃなかったけど、学校生活でしかできなかったことってあったよな~って(笑)。
―後悔していますか?
後悔しています。
そこを犠牲にしたからこそ、こうやってポジティブに考えられる自分がいるので、代償は大きかったけど、その分だけ得たものはあるのかな。この世界に来たからこそ、うなさん(地元の親友)以外のお友達が出来たし。そういうことを考えるとやっぱり、自分が欲しいって思ったものと同じ価値のものを失わないと、それは手に入らないんだってことがわかりました。
BRODY6月号より引用

生駒里奈のインタビューである。鋼の錬金術師的に言えば、等価交換。彼女はその決意を背負ってここまでやってきた。

ただそれはあくまでも変換効率が100%であればの話。自分が「主人公」になれた場合の話。ファンの望む物語で主演を飾ることができるのは、何万人もの中から選ばれた乃木坂の中でさえ、ほんの一握りだ。不完全燃焼のまま一つの生を終えるアイドルは数え切れないほどいる。

逆に言えば、その輝ききれないまま終わった星の数ほどのアイドルの亡骸の上に立つのが、いわゆる「永遠のアイドル」というやつである。選抜発表、フォーメーション、写真集、総選挙…アイドルという商品を売り出すために作られた数々のシステムは、時に残酷なほど彼女たちを揺さぶる。

そしてそれに一喜一憂する彼女たちを美しいと思ってしまう僕たちもまた、運営の作り上げた劇場の中で踊り子たちに手を叩く観客なのだ。それを受け入れるかどうか、のお話。一度受け入れてしまえば、あとは楽だ。

僕は以前、ツイートの中でアイドルとNBA選手のキャリアを桜に例えたことがある。桜が必ず散るように、乃木坂にもまた卒業がある。NBAにも引退がある。美しく咲く桜、青春時代を代償に輝くアイドル、命を燃やしプレーする選手。これらをすべて僕が美しいと考えるのは、その後ろにぽっかりと「虚無」が口を開けているからだ。永遠は存在しない、死をはらんでいるが故の美。はらり。

橋本奈々未の芸能界引退は、そういう意味で衝撃的なものだった。生きているとしても、アイドルとしての彼女は死ぬ。これからの彼女と一生交わることはない。ただ、その決意を固めた彼女の姿も、溢れ出る美しさも、信じられないほどドラマチックだった。僕らにとっての彼女の存在はもうあの日から止まったままだけど、同じ空の下で生きている。サヨナラという死。それに強くなるということは、いつかやってくる本当の死へのささやかな抵抗なのかもしれない。

アイドルは輪廻の中に囚われている。今までも、これからも。アイドルという命が生まれ、そして死んでいく。僕はそれを見ていたいと思った。「こんな形でサヨナラするなら、最初からななみんとなんて出会わなければよかった!」と思うファンがいるだろうか。きっといない。出会いを肯定することは、同時にいつか訪れる別れを受け容れる、ということでもある。

刹那的な美しさ。何かを得るために、何かを犠牲にする。ななみんはそうして最後に引退という道を選んだ。乃木坂が、その覚悟を教えてくれた。それは僕にとって紛れもない未来への希望であり、同時に一つの死を代償としてもたらされた線香花火の最後の煌めきを眺めるような、そんな感覚でもあった。僕もサヨナラしなければならないのかもしれない。

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