二〇一七年一月一三日

クロイツェルソナタ

このソナタを初めてきいたときの衝撃は大きかったが、同名の小説を読み終わったときの衝撃も充分大きかった。今日読み終わった。

学生時代、あの薄い小説を途中まで読んで投げ出していた。当時投げ出したのは当然だった。独身時代の私では、あの小説の感じは読了しても結局わからなかったろう。

どうして妻に仕返ししてやろうか、どうしたら妻から自由になれるだろう、どうしたらすべてを取り繕って、何もなかったことにできるだろう──そんなことについてのさまざまな計画が、無数に頭に浮かんできました。
しきりにそんなことを考えながら、何本も何本もひたすらタバコをふかしていたのです。
妻から逃げて身を隠し、アメリカへ行ってしまおう──ふとそんなことを考えます。
そのあげくは妻から解放されて自由を満喫し、別のまったく新しい、すばらしい女性と結ばれる、といったストーリーを夢見ているのです。
妻が死んで自由になるという筋書きもあれば、離婚するという筋書きもあり、どうすればそうなるのかと考えます。
自分の頭が混乱していて、本当に考えるべきこととはかけ離れた見当はずれのことを考えているのがわかるのですが、でもまさに自分が見当はずれのことを考えているということを認めたくないために、タバコをふかし続けているわけです。

主人公はずっとこんな調子である。彼はあまりに思考をクルクル回転させすぎて、本来自分が向き合わなければいけない問題に向き合うことが、できなくなっている。自動的に無駄な空想にふけってしまうことが、クセになってしまっているのだ。

結婚するのは想像力の欠如。

離婚するのは忍耐力の欠如。

再婚するのは記憶力の欠如。

だったかな。誰かに教えられてたいした皮肉屋だなと感じ入ったものだった。

『クロイツェルソナタ』の主人公にかけているのはまさに忍耐力。そして、空虚な想像力だけは人一倍だ。妻を殺害するというとんでもない「現実」に直面することさえなかなかできず、それが「夢だったのだろうか?」などと考え始める。

まるで、アニメのタイムトラベルをどこかで信じているかのような調子で、「取り返しの付かないこと」という感覚から少し遠ざかってしまっている。

「妻の死に顔を見たときようやく、私は自分がしでかしたことをすべて理解したのです。私は理解しました──自分が、この私が彼女を殺したのだ、この私のせいで、今まで生きて、動いて、暖かかった彼女が、今ではもうじっと動かない、蠟のような、冷たい体になってしまったのだ、そしてこれを元に戻すことはいつになっても、どこへ行っても、何をもってしても不可能なのだということを。あれを経験していない人には、分かるはずもありませんが……うっうっうっ……」

(太字は佐々木による)

このような人だけに、たとえ「自殺」を考えるときですら「死後の自分が他人に与える印象」をイメージしてしまうわけです。

なぜかといえば、私は自殺することで妻をびっくりさせてやろうということばかり考えていたからです。
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