「男であること」の意義とは何なのか?

『非モテの品格』感想文

この本をずっと読んできた。2016年に読んだ中の最高傑作は今のところ『サピエンス全史』だったが、あれでなければ『非モテの品格』をあげたいところだ。

この本は、これまで読んだどんな本でも、なかなか生真面目に取り組まれてこなかった話について、延々と、粘着的に取り組まれている。それが実に素晴らしいのである。

たとえば、僕たちの子どもが連れ合いのお腹にいて、まだ性別がわからなかった頃のこと、僕は、本心では、生まれてくる子どもが「男の子でなければいいのに」と何度も思っていた。何度も何度も。でも、そのことを、誰にも言えなかった。むしろ逆のことを言っていた。周りの友人知人たちには、「男の子でも女の子でもどちらでもいいよ」と、なんでもないような、すました顔で答えていた。
我ながら、とてもひどい話だと思う。
けれども、それが本心だったのだ。男なんてかわいそうだ。自分みたいに鬱屈し、悶々とする人生を送るなんて、気の毒だ。くだらない能力や権威の競いあいや、男としての自尊心に苦しめられるに違いない。どうしてもそうとしか思えなかった。

心の奥底では「男に生まれてくる子どもは気の毒だ」とまで思いながら、それを誰に言うこともできずにいる。下手なことを言えば、「男の方がアドバンテージがあるのに」という話にになって、ろくな目に遭わない。でも、男である自分の事を考えてしまうと、「男に生まれてくる子」がどうしてもそのことを喜べるような気がしないというわけである。

タイトルのわりに、実に重苦しい話が続く。

この本の最大の特徴は、非常に「男らしい本」だと思えることだ。女性は一般に、ここまでうじうじクヨクヨじめじめした本を、あまり書かないように思う。

そのうち紹介したいが、この本のおかげで私は久保ミツロウさんの『モテキ』というコミックを知ることができた。『モテキ』の主人公は確かに『非モテの品格』にふさわしい男性で、うじうじグズグズと童貞をテーマにエンドレスに悩みまくる。

が、マンガだということもあるが、『モテキ』では1つのエピソードが終わるたびに、主人公が「あきらめ」を得てしまったり、「そんなだからモテねーんだ!」と女性に一喝されて、「忘れよう!」としてしまう。

それがいけないのだということを、『非モテの品格』の著者は言っているのだ。「男らしさ」という観念は1つには、ほんらい少しも「男らしく」などないことを、男に押しつけてきているようなところがある。これに私も強く共感した。

ほんらい男というのは、もっと、鬱屈し悶々とするうじうじクヨクヨの粘着的な存在なのだという気がする。そういうのを「卒業していける」男性もいるにはいるが、このエンドレスに悩むところに、もっと粘着的になって、粘り強く「検討を加え」ないと、問題の解決など覚束ないのではないか。

「男なんだからもっとシャキッとしろ!」という、なぜか女性が背中をバシッと叩くようなキップのいいシーンによって、問題の所在を忘れようとすると、むしろ事態をさらに悪化させてしまう。あるいは、「自虐ネタ」として笑いを取ってばかりいては、問題の核心に迫れない。しかしこの『非モテの品格』がでるまで、たいていそのどちらかで終わってしまっていたのだ。