『感じない男』は絶対面白い

自分も「不感症」と捉えるべきだろうか?

射精なんて小便と同じじゃないか」というひそひそ話なら、あちこちでなされているのに、「射精しても、小便と同じ程度の快感しか感じないなんて、不感症ではないのか」ということは、けっして人前で語ってはならないように仕組まれている、と考えたくもなってしまうのである。

これにはちょっとうなった。確かにまったくその通りだという気がした。改めてこうして指摘されるまで、改めて考える必要性にすら、気がつかなかった。まったくそういうものなんだと、それが普通なんだと思い込んでいた。これは愚かしい話だ。

男たちが、いったいどのくらいの割合で「男の不感症」にかかっているのかは分からない。しかし私が「男の不感症」であることだけは確かだ。なぜ私がこれを「不感症」と呼ぶかと言えば、もしこれと同じことを女性が訴えたとしたら、医師はまちがいなく彼女を「不感症」あるいは「冷感症」と診断するはずだからである。

そうなのか。これも、よくよく考えてみるとそうかもしれないのだが、なぜだか意外だという気がした。たしかに、特に誰も教えてくれはしなかったのだが、「男の不感症」とは誰からも聞いたことがない。しかし「不感症」という言葉は聞いたことがあった。ではそれがなんなのかは、必ずしも誰も教えてはくれなかった気がする。

なぜなら「男が感じる」とはどういう事であるかを、ほとんど誰もわかるように口にしたり、記述したりしていないせいだと思う。自分のやっている「仕事」には大変な価値があると信じていらっしゃるゴキゲンな男性には頻繁にお目にかかるが、彼らはみな、「射精なんてしているヒマもない。たまにそういう気分になったらトイレでさっさと済ませて、さあ仕事仕事!」という感じで闊歩して行ってしまう。

そこまで闊達でもなければゴキゲンでもない男性たちは、奇妙にふさぎ込んだ顔をしながら、そもそも性欲なんて(男女どちらのであれ)他人のためのものだという顔をしている。

昨日、どこそこのソープに行ってきたが、あそこの女の子はほんとうによかった。締まりもよくて最高だ、などと自慢しているのだが、そのときの射精がどんなふうに至福だったのかについては、ほとんど何も語らないのが猥談のルールである。女の体の性能については詳しく語るのに、自分の射精のすばらしい体験については語らない

この本、徹底的にオープンに書かれているこの本は、もしかしてつい先日読み終えたばかりの『サピエンス全史』よりも自分にとってためになる本だったかもしれない。ただ、上記引用箇所でもやっぱり少ひっかかった。

「そもそも男の至福の瞬間」はあまりにも極端に時間的に短すぎるため(私が「早い」だとかいうだけの簡単な問題ではないことについては、機会があったら後日)、「快感」は確かにあるのだが、それを自覚する余裕が足りてないのではないか、という疑念をおぼえた。

だから「夢よもう一度」となって、そのうちそれが習慣化するのではないだろうか。どうも、体験としてきちんと記憶に残すには、あまりにも駆け足で快感が過ぎ去りすぎるのである。疾走というのにふさわしい。

なんと言っても、射精した直後に、あの冷静な平衡感覚と運動能力が戻ってくる。そして、すぐに立ち上がって下着を探したり、難なくトイレに行ったりすることができるのである。「セックスのあとの余韻」を全身で味わう時間的余裕すら与えられていない。

(以上引用はすべて下記より。太字は佐々木による)

「時間的余裕すら与えられていない」というより、時間的余裕こそ与えられてない。ああいうのをきちんと描写するのは、それこそ「芸術家」の仕事ではないだろうか。世の大半の人は、言語その他で描写しにくい体験については、きちんと説明しようとしない傾向が強い。

だから「すげえ!」とか「ちょー!」とか「ホントに最高に!」とかいった言葉遣いになってしまうのである。この描写の貧困は、べつに性体験に限ってはいない。