Noriaki (NolfiNoir)
8 min readApr 11, 2016

随筆 Coffee, Pipe, and Camera. - 第一談 河原尚子河原司、むぎちゃん

2016年4月11日から、随筆 『Coffee, Pipe, and Camera.』の始まりです。編集、加筆、付きものの可変的随筆です。

まえがき
人間は矛盾の生き物で、若きAIが老人の境地までの寛容さを持つには、AIに挫折を理解させ、経験をさせ、忘れられない悔しさを”心”に残し、謝っても許されない現実と時間の経過が忘却をさせてくれない事実を知り、経験し、理不尽に死にゆく最愛の存在と、夢の中で登場し、時に戒められ、時に癒される、そんな中で人はまだ人を殺せる。そんな生き物を許してくれますかと、人はAIに問わなくてはならない。

ふと、伝統的京都と若き京都のチャレンジャー達のことが思い浮かんだ。絶対的と思っていた人間と、現実に力を見せはじめて来たAIとが、ついに同じ土俵に上がり始めた。
そんな時に、このふたりに話しを聞きたいなと思った。

本文
自らを知り、自分の感覚を信じて、何をしたいのかを実践し続ける。
という言葉では表現が追いつかず、ふたりの思いと行動を正確に理解はできない。インタビューで録音した内容を聞きながら、ふたりと話したことを理解しようと何度も何度も聞き返している。そこには繰り返し表現を変え、内容を変えながらも伝え続けられていた事があった。

自ら覚悟決めるに値する事を見つけ、直面し、リスクに立ち向かう。と言うと在り来たりに聞こえるが、ふたりはちょっと違う。自覚を持って、ふたりは今までずっと自らと直面をし続けて来た結果、リスクを選びそれを面白いと思っている。そして成し遂げてしまった事は、過去へと欠落し、日常化され、次の大きなチャレンジへといつも通りに向かっていく。それがふたりにとっての生きる行為なんだと思った。

”現在”とは自分たちのためのものであって、「”現在”を自分のしたい姿に創り上げていい。」なんて事は誰も想像できていないと思うけど、現在を生きているのは僕達だから、僕達が現在を真剣に考え、形にしていかないといけない。例えば千葉大学の広井良典教授が、資本主義はまた新たなアップデートをするタイミングに在ると言っていた様に、現在も資本主義も政治もなんでも、現状と合うように変化させていかないといけない。空気の様に存在する根本的なものに変化を加えるなんて、想像をしたことがない人の方が多いかもしれない。けど、その現状にあるものが面白いと思えないなら、率先して自ら変えてみようと動くことに、とても価値を感じられる。

生きるためにしなくてはいけない事は、自分を確認することであって、自分の体を実際に使って、反応を素直に見つめることで。自分を騙さず、自分に偽らず、自分である事を大切にする。自分である事の純粋性は、過去からの脱却であって、自分という存在は自分以外いないという事の追求であり、当たり前のことなんだけれども、実はこの当たり前のことができていないし、できないと世の中を面白いと思えないという訳だ。

”個”と”マス”と共感の関係は、高度経済成長期からバブル崩壊までの間とそれ以前以降とを見れば明白で、僕はふたりに髭剃りに纏わる文化と歴史のお話をした。僕らやこれからの世代は、”個”の申し子であって、その自覚を持つ事が大切で、もう”マス”の環境では多くの人が生きていない。マスの示す意味は、大量生産されたプロダクトだけを意味するのではなく、大量生産をするために適した人間も教育されていた訳で、時代と教育は密接に関係をしている。その時代に貢献できる人間を教育することが、地域の学校の役割である。現在は現在に適した人間を地域教育機関が考えてくれているのも最近は見るようになった。奈良女の中等部では、ある先生がFabLabやMaker Spaceの流れを汲んだ場所を学内に作っていた。
ただ”マス”の時代を経て来た世代も同じ環境にいて、共存していることを忘れてはいけない。意識しないでいると己の立ち位置を正確に把握できずに、意味不明なジレンマに嵌ることもある。そこをちゃんと自らの責任で判断していこう。

そこでちょっと僕の髭剃りの話をすると、Straight razorとは理髪店(Barber)が使っている刃物の剃刀の事で、砥石や革砥を使って日々研ぎ、鋭さと肌に当たる刃の滑らかさを完璧に作り上げ、さらに髭を剃る時に剃刀の刃が当たる肌も敏感に神経を研ぎ澄まし、髭を剃っていく。これこそ髭剃りを通した瞑想行為であり、自分を知る行為なんだ。それを日常生活の中で止めてしまった現代は、短時間に、適当に剃ったとしても、血だらけになることなく、ある程度良い結果を出せる道具は作ってきたが、それらの便利な道具は、必要な時間を掛けて丁寧に自分を見つめ直す時間を与えてくれないものばかりになってしまった。
自分をちゃんと知り、幸せでいるための追求が、中途半端になってしまうと、物事を成し遂げることができなくなってしまう。
世の中には自分以外の理想という雑音が多すぎて、予定調和的に世間に合わせる習慣がついてしまうと、自分の事を追求しない様になってしまう。そんな不幸はなく。絶対にそんな事はしてはいけない。常に自分を確認して、その都度の自分を知り、自分の心に従った行動をとる。これを基本に考えないといけない。

そして次に社会と自分との繋がりを考えないといけない。必ずしも、自分が社会に理解されることが重要ではなく、お互いの立ち位置を理解することは大切ではあるが、結局は自分が何を面白いと思うか、自分が何をしたいのかを追求することが自分を生かしている。

河原家族は彼らの人生を通して、人生に初めて起きることを通して、その時その時に自分たちが求めた行為が、自分達にとってやり遂げる価値があるかどうかを、覚悟を持って判断し、今、ひとつの存在として家族をなしている。それが彼らにとって現在の形になったのは、とても稀有な偶然から成り立っているのだけれども、それは彼ら家族にとって価値あるものとして、覚悟を決め、恐れずに進み続けたからこそ、今の河原家族といった現在があって、その奇跡の様な事を僕らはこの日常の中で毎日繰り広げている。どうしてこうなったのかは、必然に見えたとしても、はっきり言ってこれ以上ないほどの奇跡の連続で世界は出来上がっている。

だから自分にとって面白いと思えること、自分が思っていることを大切にしないと今が形にならない。そうふたりが思わせてくれた。

あとがき
僕は最近自分の誕生日に向けた一生に一本のstraight razorを探している。実はstraight razorを探し始めて既に数年経っている。この数年に、一番最初に刃物屋さんで見つけた、日本製の日本刀を作る技法が使われた折曲がらない剃刀を見てから、ずっと剃刀に纏わる情報を集めていた。そこから昔、理髪店で髭を剃ってもらった時の剃刀を思い出した。Ralf Austってドイツのメーカーのものが次に気になり、そこからBokerといったメーカーを知る。Dovoや、海外で剃刀を鍛造で手作りするクラフトマン達や、Barberに纏わる情報を集めまくった。straight razorについてのディスカッションサイトもかなり見まくった。その結果、剃刀が作られるビジネス的背景なども見え始め、Bokerでほぼほぼ心が決まりきっていたのだが、最近一番最初に見つけたRalf Austという小さい剃刀メーカーが、やはり僕的には良いのではという結果に至っていた。この数年間情報をひらすら集め続ける行為は、短時間では見つけられない情報を、偶発的に発見でき、僕の本意に即した結果に限りなく近づけてくれる。毎日同じ情報をただひたすら見続けていても、理解の深度をあげることもできるし、さらにリアルタイムで立ち上がってくる情報や、見つけることのできなかった古い情報や、見過ごした情報など、どんどん芯幹まで近づけてくれる。
ここには、直感と熟考の繰り返しが起きていて、閃きとその閃きを本物と足らしめる確信を補ってくれる。明日僕は、新潟産の1917に作られた剃刀を買う。そして先ほど気づいたのだが、今日偶然買った『刃物の見方』という岩崎航介さんの本だが、明日買う剃刀を作った人の父だった。
ここで何を言いたいかは特にない。
ただ、直感と熟考が僕を生かしてくれているというだけのこと。
第一談をこれで結ぼうと思う。
本文が足りているのか足りていないのかは、全く分からない。
でも初の随筆だからさ。
追記がしたくなったらします。
2016,04,11

Noriaki (NolfiNoir)

Coliving Art Lab Japan / Amateur Art Photographer / Ashtanga Yoga / Bikram Yoga / https://www.flickr.com/photos/30078771@N07/ Instagram @nolfinoir