匿名の意見が効果をもつ範囲

内部告発には有効だが議論には無効

Hiroaki Kadomatsu
3 min readNov 23, 2013

匿名に関する議論は周期的に盛り上がる。
今はさほど話題になっていないが、またそのうち何かのきっかけで再燃するだろう。
以下はほとんどが出尽くした議論だと思うが、自分の整理のために書いておく。

まず匿名の反対語は、ここでは必ずしも戸籍上の実名ではない。
いわゆるハンドルネーム、あるいはTwitterのアカウント名などでもよく、しかしその人がそれまでにどんな事を書き残してきて、今後どのような事をやっていくのか、おおよそ定まった立場であることを想定している。

普段の生活で用いているフルネームはそれに該当する最もわかりやすい例だが、たとえばペンネームで活動している著述家や芸名を用いている芸術家、タレントなども明快にこれに含まれる。

加えて、ネット歴の長い古参アカウントなどの、ようは捨てアカではないアカウントもこれに含まれる、とここでは定義する。
つまり、固有の人格がそこにある、ということが明確であれば、それは「非匿名」だということになる。

よってここで言う「匿名」とは、上記に含まれない立場である。
どのような情報を発信しているとしても、過去の発信内容が曖昧であったり、その後の継続性が不確定であったりする場合(ようは捨てアカと思われる状態)、仮に固有のハンドルネーム(アカウント名)が付いていても、名称未記入の匿名と同等である。

上記を前提として考えるに、匿名が生かされるケースとは、たとえば「自分がそのように発信したことが知られたら身に危険が迫りうる」という状況だろう。
企業などの不正を告発する内部告発などはまさにそれであり、これは建設的な(あるいは避けがたい)使用の仕方だと思う。

それ以外のケースとして、たとえばはてなの匿名ダイアリーなどにおいては、匿名で職場のグチなどを書くことによって、自分の身分を明らかにせずに気を晴らすことができるわけで、これなども、ある意味では建設的なものとして考えることもできるかもしれない。(もちろん特定の誰かを攻撃する内容はこの限りではない)

しかし、そうではない多くのケースにおいては、匿名による発言というのは非匿名によるそれに比べて、リスクをとっていない、無責任であり、迷惑なものだと受け取ることができてしまう。

言ってみれば、そのような状況下における匿名者による意見は、非匿名のそれと同じ土俵にすら乗っておらず、議論の参加者になることも難しい。
議論において使われる言葉は、発言者自身の履歴と結びついて初めて効果を有するものであり、詩や小説のように、言葉そのものとして機能するものではないから、「誰が言ったのか」という要素が重要にならざるを得ない。
よって、その点が保証されていない匿名者による意見は、いかに建設的な発想であっても、そうした構造的な問題により生かされづらい。

だから匿名はいけない、ということではなく、もし匿名で活動するのであれば、そうしたデメリットを踏まえる必要があるだろうし、匿名者による意見を考慮して物事を調整しようとして困難に遭っている人がいるなら、そうした構造をあらためて捉え直してみると少しやりやすくなるかもしれない。

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