ふんばろうについて、徒然に

Hiroaki Kadomatsu
7 min readFeb 27, 2014

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たまたま、手伝っている「ふんばろう云々」というボランティア団体への批判を繰り返していた人の、以前に書いた内容をまとめて読んでいた。

言われていることは、「いや〜その通りだなあ」と思うこともあれば、「ん〜? そうかなあ」と思うこともあり、個別の内容に関する感想は様々だったが、いずれにせよ、ちゃんと話せばちゃんと通じる人だという印象はもった。

しかし実際には、ぼくらがちゃんと話し合い、ちゃんと理解しあう、相手の事情や考えを尊重しながら共通の目的を達していく、ということができるかというと、不可能ではないかもしれないが、簡単でもないだろう、と感じた。
どうしても、そういう朗らかな未来を想像しづらいのだ。

といっても、つねに攻撃しあう未来しか想像できない、ということでもなく、きっと今がそうであるように、お互いに充分に離れた場所で、それぞれのことをしていく、ということなのかなと思う。

それは喜ばしいあり方ではないけど、最悪のそれでもない。

その人が、そのふんばろうのどこに問題を感じているのか、ということはわかったと思う。
また、一方でどういう部分がたぶん(少なくともぼくとは)相容れない感じか、というのもまたわかった気はする。

その人が言う、ふんばろうの「問題」というのは、とにかくふんばろうのやることが「粗い」ということだと思った。まあ、本当のところは、代表の西條さんの考え方や態度等への疑念というか、不信感が一番大きな問題であるようなのだけど、それについてぼくから出来ることは何もないので省くと、そういう運営上の精度の低さが問題だ、ということを言いたいのだと思う。

たしかに、それは言えるかもしれない。メンバーは誰もが真剣に、一生懸命に自分の時間を提供し、無償で頑張っているけど、他の何年も経験や研鑽を積んだ、あるいは新興ながら緻密な運営をしている団体に比べると(それがどこかは知らないが)、いろいろ問題があるかもしれない。

しかし思うに、結局のところ、今も、これまでも、ふんばろうで活動したメンバーというのは、ふんばろうがあったからボランティアに参加できた、という面があると思う。

もちろん、すべてのメンバーがそうだということではなく、ふんばろうがなくても、別の団体に参加したり、あるいは別のやり方を通して何かをしていた人もいただろうけど、それでもふんばろうが持っている、参加のしやすさとか、代表の変わった考え方に共感したから支援活動に足を突っ込んだとか、そういう人は少なくないと感じる。

その人の意見を読んでいると、「迷惑をかけるぐらいなら何もしない方が支援になる」(だからふんばろうも早くやめた方がいい)という考え方があるようで、たしかにそういう考え方も有効だとは思うのだけど、でもそこまでの、「やらない方がマシだった」と、「こんな団体ない方が支援は進んだ」と、そう言えるほどの迷惑をふんばろうが周りにかけてきたのかといえば、どうなのかなと思う。

中にはきっと、様々なレベルでふんばろうに迷惑をかけられた人もいるだろう。それはまあ、どのような団体にもあることだろうけど、ふんばろうにもあっただろうし、もしかすると他のどんな団体よりもその程度がひどかった、ということはあるかもしれない。
支援対象の人たちだけでなく、メンバーの中にも、ふんばろうからそういった被害を受けた、という人がいるかもしれない。これもまた、どんな団体にも起こりうることだけど、もしかすると他のどんな団体より(以下同)。

でも、それでも、という気はする。具体的に、それはどのような被害・迷惑だったのだろう。メンバーは一人ひとり、みな現実に生きている人間で、やり方は洗練されていないとしても、それぞれの事情を抱えながら、限られた時間をやりくりしながら、具体的に自分の時間を無償で費やしながらそれをやっている。
その人たちの前で出来る批判なのだろうか、それは、という気がする。

「迷惑をかけるぐらいなら、何もしない方が支援になる」という考え方は、一方ではその通りだが、もう一方ではなかなか難しい面がある。これから自分がしようとしていることが、果たして迷惑になるのか、ならないのか、その判断基準をどこに置けばよいのか、わかりづらいからだ。
絶対的な基準はないかもしれない。その時々によって変わるかもしれない。その基準を少しだけ分かっている人もいれば、かなり分かっている人もいれば、全然分かってない人もいるかもしれない。でも目の前にいる誰かが、あるいは自分自身が、そのうちのどれなのか、ということはすぐには分からないかもしれない。

「あなたが善意で、一生懸命がんばっていることは知っているけれど、やっていること自体は無用を超えて害悪なので、何もしないか、別の団体でどうかがんばってください」ということだろうか。
もしそのように、言われるとおりだったのだとして(その可能性はある)、でもそれを言う人はどのような立場から、誰に向かって言えるのだろう。どのような経験や知識を持てば、そのようなことを言えて、言われた側は、どのような理由でその言葉を信じることができるのだろう? それはやっぱり、なかなか難しい問題ではないだろうか。

ふんばろうというのは、「何かしたい、でも何をすればいいのか分からない」という人の受け皿になったのだと思う。
さらに言えば、ぼくはふんばろうというのは、そういう、ボランティアをする側の人たちを救った面も持っていると思う。
なぜそう思うかと言えば、ぼくがそうだったからだ。

被災地で支援されるのも人間なら、支援する側も人間であり、支援する側もまた、多かれ少なかれ傷つきながら生きている。
本来だったら届かなかったかもしれない、その小さな力を集めて何かしらの形にし、支援として届けたのがふんばろうなのであって、ぼく自身はそういう、名もなく、とくにニュースとかで取り上げられるわけでもないのに、日々活動をしているメンバーたち一人ひとりのことを、もう少し見てほしい、想像してみてほしい、いずれできれば、一緒に話してみてほしい、みたいなことは思う。

まあ、西條さんとその人とはまだしばらく上手くはいかないだろうけど、メンバーとならある程度は話が合う部分もあるかもしれないし。

※追記:
上記は自分の中であいまいだった何かを整理したくて書いたのだけど、読み方によっては、ある種の対立的な意識を強めるような要素もあったようだった。
自分のブログ(というか)なので自分の実感していることを書いたのだけど、そしてこれ自体は団体の広報とかではないけど、一方で、自分とは別の立場から(それもどちらかと言うと、ふんばろうに懐疑的な観点から)上記を読んだらどう感じるか、ということも考え甲斐のあることだから、それもまた時間のあるときに整理してみたい。

※追記2:
思いがけず多くの方に読んで頂いているようで、恐縮です。
本文を読まれた方の意見で、「自分たちの満足のために、被災地に迷惑をかけてはいけない」「支援団体に求められることは、支援者を癒やすことではなく、被災地支援である」といった内容があり、少し驚きました。

たしかに、そのような点については触れていなかったかもしれないものの、それは言うまでもないことというか、これはあくまで、そうしたことは前提とした上で、書いたつもりだったからです。

一方、そういった反応がありうるとは想定できないほど、ふんばろうの活動が、どのように捉えられているのか、認識できていなかったのだな、とも思いました。このように書けば、このような反応がある、といった想像がつけば、もう少し気をつけて書いたでしょうから。

活動について、見直さなければいけない点は様々にあるかもしれませんが、いずれにせよ、長い道のりになりそうだな、と思いつつあります。

この記事のタイトルについて、初めは、知り合いや、自分のように考える(自分と同じ前提を多く共有する)人に向けて、ちょっと投げ出すような感じで「ふんばろうのやったこと、徒然に」としていましたが、それより多くの人に読まれることを考えると、「やったこと」というのはネガティブなイメージを持つような気もしたので、「〜について」としました。

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