覚せい剤事件について思うことなど

人気だった野球選手の覚せい剤事件の波紋が収まらない。今度は議員である。

テレビで、社会的地位にある人が薬物に依存するケースが紹介されていた。地位があると、他者に口外する危険が少なく、また口止め料として料金を上乗せできることから、彼らは密売人のターゲットになりやすいという話だ。

これらの人々は、きっと「あるべき姿」と「今の自分の姿」とのギャップに苦しんでいるのではないだろうか。他者の視線から、自分を評価しているのである。他者の評価が高くなればなるほど、自己肯定感が増す。

よく考えてみると、他者の評価によって自分の価値が決まるとしたら、なんとつまらないことだろう。結局は、評価する他者がいなくなったら、自分の価値なんか、たちまち消えてしまうではないか。

それより努力する中にも、自分で成長していく過程を楽しみ、自分の中に自分の価値を見出せば、その評価は本人がいなくなるまで続くのだから、これほど安心できる「評価」はあるまい?

薬物が本当に好きで好きで、たまらなくてやる人はあまりいないだろう。彼らがそれらに依存する時、「なぜ自分はこれを求めることになったのだろう」と、心に問いかけてほしい。求めているものは、薬物ではないはずだ。

心の空虚さ。満たされない何か。

目標に届かない実力。

逃げたい現実は、必ず追ってくる。「現実」と書いたが、これは自分自身である。現象ではなく、存在の問題だ。

他者を含む、周囲の環境は変えることができる。打ち克つことが困難な相手は、むかつく上司でもなく、不条理な社会でもない。

誰しも「投げ出す権利」はあるが、ひとつだけ、どうしても「投げ出すことができないもの」が存在する。それが自分である。これは権利を与えられたって、どうにもならない。交換もきかない。

たったひとつの自分であるから、まずは自分を大切にすることから始めてみたらよい。逃げたって、どうにもならない。

失敗ばかりで、どうしようもない人間のようだが、それでも懸命にやっているではないか。やることなすこと全て失敗でも、そんなふうに生きている人は、なんだか存在が愛しくなっていくものである。

自分であることは、永遠ではなく、たまたま一時の間だけの付き合いかもしれない。自分である時間が有限であるならば、何かの縁と思って、とことん付き合ってやったらよいと思う。

今回のようなニュースが流れてくると、もっと自分を大切にしてあげればいいのに、と思う。

自分を大切にすることができれば、他者を大切にしなければならない理由を知ることができるだろう。虐待なんてもってのほかで、それをやっている人の、心の空虚さ、悲しみも同時に心配されるのである。


自己と自我は厳密には違い、これを説明すると長くなる。

「自我のめばえ」は、「自己のめばえ」とは言わない。「自我認識」という言葉はないが、「自己認識」という言葉があるように。

一般的に「自我」と同等の意味で用いられる「自分」という言葉を使用した。