「ライター」という「仕事」がいろいろと話題になってる昨今、みなさまいかがおすごしでしょうか。
あれ、なんなんでしょうねえ。何しろ最低限の定義って「文章を書いてお金を貰う仕事」しかない上に「文章を書く」ってあらゆる世界で必要とされるものであるから、「なんとかライター」(シナリオライターとかコピーライターとか)って専門がある人ならいいけど、そうじゃないと「フリーランスライター」としかいいようがなく、ますますもって混沌とするわけである。
で、今の人はどうやってライターになるんだろう、どういうライターになりたいんだろう、その辺がさっぱりわからないのであるが、紙媒体時代からの昔ながらのフリーライターの話なんて今の時代何の役にも立たないよというサンプルにどうぞ。
もともと「物書き」になりたいと思っていたわたしは、どういうわけか数理情報工学科というところに入学してしまい、どういうわけかパソコン関連のバイトをはじめてしまい、1985年、シャープのMZ-2500ってのを買ってしまいました。
いろいろと面白いパソコンで、当時としては和音が出るFM音源が搭載されてたのかな、確か。それでさくっとFM音源エディタなるアプリをBASICで書き、どっかの雑誌に載せてもらってお金にできないかなと考えたのです。いやむしろそれをとっかかりに雑誌で原稿を書かせてもらえるようになりたいと思ったわけですね。
当時のパソコン雑誌はどれも、プログラミングの話が載っており、プログラムのソースコードが掲載されていたわけで、読者からのプログラムも募集していたのです。
でも、最終的な目標が「プログラムを載せてもらう」ことじゃなかったわたしは、ボツになったら意味が無いなと思い、直接「Oh!MZ」誌の編集部に電話をかけ、プログラムを書いたので見て欲しい、といいました。なぜそんなことできたのかよくわからないのだけど、あの頃はどこもライターやプログラムの募集してましたからね。
一度編集部に来て下さいといわれ、提案された日時は思い切り必須の講義が入っていたのだけど、このチャンスはつかまねば、と大学をサボって、当時千代田区三番町(かな?)にあった編集部へ出かけたのでした。
その場でプログラムを見てもらって、このままでは掲載は難しいといわれたりしたのですが、世間話をするうちに、どうもこいつは記事を書きたがってるらしいというのがバレ、「ちょうど今、次の特集で誰が書くか決まってないページがあるんだけど、やってみる?」となったわけです。
なんてラッキーな。
それが「BASIC入門特集」で、初心者でも打ち込める短いサンプルプログラムをいっぱい載せて、解説を入れるというページ。
その後、どうも編集部の方で「あいつは面白そうだからいろいろ書かせてみよう」となったようで、わたしも片っ端から面白がって引き受けてしまったのです。
パソコン入門から、ゲームレビュー、ソフトウエアレビュー、グラフィック回り、すごいときにはアセンブラ入門とか。
学生で時間があったので、ゲーム特集はたくさん書いた記憶があります。RPGのレビュー書くのに、大学の図書館でルーン文字について調べたり舞台となりやすいヨーロッパ中世について調べたりしながらゲームレビューを書いてたわけですから、そういうのがウケたんでしょう。
ドラクエを代表とする日本式RPGは単なるストーリーを追うだけのスゴロクであり、こんなのRPGじゃない! と今書いたらdisられそうなことをよく書いたので、単純に面白がられたのかもしれません。
やがて大学を卒業することになり(ライターしてるのが楽しくて留年したりもしましたがそれはさておき)、あの頃は奨学金も無利子だったなあ、というのもさておき、わたしとしてはライターとしてやっていきたかったのだけど、書いたことある媒体もわずかでしたし、いずれフリーになるにしてもちょっと社会に出ておこうと思い、大学の勉強を活かせてなおかつ転勤がないとこ……ということで銀行のシステム開発子会社にSEとして就職したのでありました。
会社にだまってライター仕事はしてましたが、まあ、わたしだけ新入社員のくせに所得が多いので会社にはバレていたでしょう。
3年は会社員やるつもりでしたが、2年目に突然「こんなことしてちゃいけない。会社を辞めるぞ」と思い、丸2年で退職。
辞めると決めたら、仲の良かった編集者に相談し、他の編集者を紹介してもらったり、同じ会社(当時、ソフトバンク出版は数多くのパソコン誌を抱えていたので)の他の雑誌からも仕事が舞い込むようになり、会社へ通いつつ夜中は編集部で作業したり原稿を書くような数ヶ月を過ごした後、フリーに。
あとは何もしてません。ちょうどITバブルがはじまり、パソコン雑誌は次々と創刊され、一般誌もパソコンの特集を頻繁に組むようになり、よく知る編集者が引き抜かれたり異動したりするたびに声をかけてくれる媒体が増え、連載もいっぱいあり、ほっといても仕事がわさわさとやってきて、倒れるかと思ったほどでした。
その上、筒井康隆さんの「朝のガスパール」という新聞連載がパソコン通信連動ではじまることになり、ちょうどASAhIネットのアカウントを持っていたわたしはその「電脳筒井線」に参加。さらに眠れなくなるのです。
しかもオフ会だなんだかんだと深夜まで六本木で飲んでタクシーで帰って原稿を書いたりしてましたし。
あそこには濃い人たちが山ほどいて、わたしなんてカスみたいなもんだなと思い知らされたのでした。もうひとつ、世の中には本当にすごい人っているんだなと、筒井さんと会って思いまして。ふたことみこと会話しただけで「あ、この人は自分なんかよりはるかにスゴい人だ。どのくらいスゴいのか想像できないくらいスゴい」と感じる経験ってしとくべきかと思います。今まで数人いました。
それをきっかけにASAhIネットのMac専門会議室のモデレータも任され、そこのMacユーザーズグループ(MUGWAIを作ったり←ただ「まぐわい」といいたかっただけというふざけたグループ)を作って遊んだりしたものの、いろいろとあってちょっと離れ、今でも付き合いがある人は数人となってしまいました。
90年代半ばにはデジカメが登場。いち早くQV-10を手に入れて面白がってたら、当時、デジタル画像とカメラの両方が分かるライターがほとんどいなかったこともあり、デジカメ関連の仕事が増えはじめ、仕事内容もMac系とデジカメ系に収斂。
そして今にいたる、と。
今の時代のライター志望の人が読んでも何の役にも立たない経歴ってのがわかってもらえたかと思います。
ついでにいえば、今現役で20年以上やってるようなライターの人の経歴ってほんとに人それぞれなので、正しいルートなんてないのですよ、きっと。そもそも正しいルートがあるというのは幻想です。