「哲呑み」8/10

一次会はビアガーデンで2時間、急遽行った二次会は飲み屋で4時間哲呑み。

書かなくても良さそうな他愛の無い話も多数、残しても良さそうな話だけ置いております(個人的裁量で)。

まず一次会。書くにはグレーな話題もあったので、とりあえずカットしたものもある。あとは単純に覚えていないとか。
ビアガーデンについては、ほとんど政治と社会問題だった気がするのでほぼ割愛。その中で使えそうなものだけ(とすると教育関係)。

・これからAIやら機械化が進んでいくから、どちらというと「人間らしい教養」が求められる。介護とか機械でも担えそうだけど、「感情のケア」はやっぱり人にしかできない。
この先長い目で見ると、人文社会科学系が生き残るということを主張している人もいる。
→今は肩身狭いですもん。文系の時代来い!

・「大学は純粋に学問をする機関にするべきだと思う」
→「でもそれが何の役に立つの?」
→「その役立つかどうかっての嫌いだわ〜」
→「大学の名で職業訓練をさせているのが問題で」

→「試験一辺倒だから考える人が育たない、試験重視な教育を変えないと」
→「でも東大が変えない限り、社会の風潮は変わらないよ」
→「企業が求めているのは「訓練できる人」、「頭の回転が良さそうな人」だからね、別に学問をしている人がほしいわけじゃない。学歴ってそういうものでしょう。
それに、インフラ要員は必要だから」

・「働く時間減らしたい」
→「でも働くのも楽しいよ。生活の中で仕事のアンテナ張っている。生活と仕事が切り離されてない感じ。そりゃあ「今から行ってくれ」ということもあるけど、昔からしたかった仕事をできているから。
オンオフがしっかりしている生活がいいって人もいるけどね」

・トイレ流し台みたいだったな…

・(曖昧な記憶)CMで「枠にはまらない人へ」的なことを謳っているものがあるけど、あってどうなんですか?
→全員が全員それじゃあ困るよね。ぐっと堪えて身につくものもあるから。
「ここでなければもっとやれた…」という人は、どこであったとしても何もできないと思う。

続いて二次会。哲学学んでいる人だけをまとめて席に座らせると、哲学っぽい話にしかならないという…。
テーマは大枠で、倫理、真理、科学、障害、社会問題。少し専門的なので、・は飛ばして★のところだけ読むのもお勧め。

・倫理学って何すんの?
→大枠では「規範倫理」、「応用倫理」、「メタ倫理」がある。
→「メタ倫理やりたいわ。「良さとは何か」から…」
→でも「良さとは何か」と問うたとき、圧倒的に道具立てが足りないよね。
→まあね。

・倫理学で院は難しいよね。風呂敷の大きい哲学の中でも相当狭いところでやってるし、展開可能性がないから。
だって指で数えても、アリストテレス、カント、あとベンサムぐらいでしょ有名な人。徳倫理、義務論、功利主義ぐらいじゃない。
→徳倫理って「良いこと」を根拠なしに設定しているよね。そもそものところを問わないでやっている。
→義務論はカントが実践できていたのかという問題が…。
→功利主義は「幸福の量」を測るところでやっているからその点は画期的だけど、そんなもん測れんのかという。
あと「トロッコ問題」とか酷いじゃない。あんなもん現実的じゃないよ、汽笛鳴らせよ。

・サンデルの『これから正義の話をしよう』いいですよ。
→ロールズの「無知のヴェール」も良かったけどね。平等な法制定にそれなりの正当性を付与できる考え方だよ。
→でもサンデルの批判は「人はあらゆるコミュニティの中で人格が出来上がるから、「無知ヴェール」の想定は、人格を無下にした空虚なものにしかならない」というもの。けどそこじゃないだろって。
→それを受けてロールズは「無知のヴェールは間違ってた」と取り下げたって、読んだ本には書いてあったけどね。

・哲学者誰好き?
→特定の哲学者が好きって何かおかしいよね。好きかどうかで何が決まるのかという。じゃあポパーで。
→俺はニーチェ好き。欲望に忠実なのはいいと思っているから。

★第一原因あるよ
→でもさ、現実の事象を考えると「原因-結果」の枠組みってかなり粗いよ。
→どんなふうに?
→たとえばさ、「水を100℃まで熱すれば、沸騰する」というのは原因-結果で考えるけど、「100℃まで熱した水のどこから沸騰の泡が生じるのか」を考えると原因-結果の考え方じゃ無理だよ。
多くの人が信頼おいている「原因-結果」の考えは、相当粗いことをしているんだ。

・科学と哲学ってどこで分かれたんだろうね?
→カントが「物自体」と言い出した時点じゃない?
→でも「物自体には到達できない」とした時点で、人の営みはぜんぶ認識の中の話になっちゃうよ。それは「自然について解明できる」という科学の理念からはずれてるんじゃない?
→カントは別に物自体に到達できないとは考えてなかったけどね。
→そうなんだ。

→デカルトもあるけどね。彼が心身二元論を唱えてから、「物的世界は科学の領域」、「心的世界は哲学の領域」ってなっちゃった。
 それから、アリストテレスの「外延」、「内包」という概念があってね。たとえば「人間」なら、外延は「指が5本ある」とか「直立二足歩行」とかの、人間の要素の集合。人間の内包なら、「理性的な動物であること」、理性的なら人間であるという。
 でも、「理性的な動物ってなんだよ」ってところで、中世のドゥンス・スコトゥスって人が、外延と内包をそれぞれ、「測度」と「強度」に定義しなおした。
 「測度」は外的指標を頼りに測れること。「強度」は測れないけど何となくわかる、強さの度合い。「この怒りは強いな」とか「気づき」の感じとか。
 科学は測度をベースにしていて、哲学は強度をやっていくのが役割だと思っている。(度合いの対象は)絶対に測れないんだけど、科学で扱えるように、近いところへ仕上げていく作業を哲学が担うという。

・ポパーの反証主義って「真理追えない」と諦めたところからスタートして、科学の線引きしている気がする。
→うーん。そもそも科学と哲学が分離した後で、科学の正当性だけを問題にしているんだと思う。検証主義や確証主義が相当怪しいぞってところをやっている。
真理を追うのは哲学、ってことでしょう。

・最初に倫理のスタート地点を置いている時点で、真理にはほど遠いと思う。
→いや、哲学はそういうふうにやっていくから。少ない原理でどこまで説明できるのかという。どちらかというと物理学に近い。
 そもそも、真理を言葉で追っているのが哲学の悪いところなんだよ。そりゃ届くわけないよ。

・倫理って突き詰めて考えると「なぜ人を殺してはいけないか」が正当化できない。
→そう思うわ。だからさ、大切なのは論理性じゃなくて「でかい声でしゃべる」。
→(嫌な顔して)全然人間的じゃないよ…。
→人間だって動物だよ。だからマーケティング戦略が通用するんだよ。刷り込み、でかい声、でかい声。

・ヘーゲルは当時の人には受けたんだよ。だって「私が哲学だ」だぜ?
→なんでショーペンハウアー人気なかったんですかね。
→口がうまかったんですよ。アウフヘーベン、アウフヘーベン、アウフヘーベンでしょ?ある理論と、それに対立する理論を闘わせてさらにいいものを作るっつったって、対立を言語の否定で考えているから、否定の範囲が広すぎるんですよ。

・欲望に忠実であることを阻害できる正当な原理がないから、「ヴァーチャルリアリティ」は期待している。人殺すのもそこでやってくれればいいんだよ。
それぞれが欲望を満たせる世界に生きていければいい。
→「水槽の中の脳」みたいな?
→そう。「マトリックス」は共通の電脳世界を生きているけど、それぞれがそれぞれの欲望を満たせる世界を生きれればいいと思う。
→(すごい嫌な顔)そんなの人間じゃないよ。スマホあんなにかざして歩く人を見て、可哀想に思える。
→可哀想っていうのは何でだろう?それは自分が混ざれない寂しさがあるんじゃないだろうか。俺はいいと思うけどね、ああいう人たち。扱いやすいよ。

★「人間らしさ」を「理性的であること」に置くなら、「人のかたちしているだけで人間扱いされない人」なんてたくさん居るよ。
→理性的であることを人間らしさってことにすると、かなり狭い設定じゃない。
→受精卵は人間か否か?
→一応、妊娠十何周目から中絶したら葬式やらんといけないらしいからね、でもあれはただ定義したんだよ。「権利はここからですよ〜」って。
 理性的なことが人間であることなら、3歳になるまで人間じゃないわけ?
→昔は「子殺し」という文化あったし。
→なんでやめたんだろう。
→たぶん西洋の価値観入ってからかな、宗教。

★診断名ついてショックでしたか?
→いや、嬉しかった。努力が足りないんじゃなくて、ちゃんと薬飲めば治るってことだから。

★不謹慎だけど、注意のできない現れの世界って、事例としておもしろいですよね。「注意」って記憶に密接に関連しているから。
 コップを手にとれば「コップ」を普通見ているはずなんだけど、見れてないんですよ。焦点化が起きていない。視界の中心にあるはずのコップが、視野の外側の人だったり、店内の喧騒だったりと同じような扱いにしかならない。
→そう。今はコップ見てるんだけど、こっち向くと忘れちゃう。今の感覚しかない感じ。

→でも記憶できているんですよね。だから、注意とは違う記憶の仕方をしているはず。
→見るだけじゃなくて、聞いたり触ったり。五感をいろいろ使うと覚えやすいって言うね。
 「英単語を読む」っていうのもそれ。見るのと、発音したのを聞くのとで覚えやすい。
→あと、記憶のシステムと発話のシステムは別だから、それぞれに馴染ませるために発話はした方がいい。体に覚えさすと、ふとしたときに出てきやすい。

→(ダマシオの)「ソマティック・マーカー仮説」というのがあって、それは、「快-不快」という情動は生存にかかわる情報の処理の手がかりになるという仮説。
→確かに、楽しい記憶と嫌な記憶は覚えやすい。
→たぶん記憶の仕方に感情、情動もフルに使っている。快でも不快でもないものは無関心だから。無関心のことは覚えられない、たぶん注意が向かず忘れちゃうのはそのせい。

★生活保護を受けている親の子どもへの教育支援をしているけど、やっぱり低学力低収入が再生産されているというか…。
 親の会話が少ないんだと思う。考えるための言葉が圧倒的に足りてない感じ…。
→再生産される構造は起こりえるね。たぶん、高学歴の家庭そのまま育って、いいところに就職したら、そういう現実はしらないまま育つのだと思う。
 この断絶は簡単には埋まらない。互いに知る機会も、必要性もないという感じがある。

★人として見られてないんだよ。だから、同情をかうのが正解。
→(やはり嫌な顔)同情かわれたら下に見られているということじゃないですか。
→そもそも「人として」扱われてない。そういった人も同じように、感情があって、悩みがあって、なんて思われてない。理性が見受けられないから。
 だから、同情をかうしかないんだよ。同情を得ることでしか、社会に位置づけられないんだよ。
→今の社会じゃあね。

★他人の現れの世界、その人の見ている世界っていうのは多様なのに、それを考えられる人があまりに少ない。
 大多数の人の世界を普通として、マイノリティの世界は無視されている。触れる機会がないんだ、経験できないから。
 だから、自分の経験の中で使えそうなものを手がかりにして、マイノリティの世界をわかってあげるのが課題。そういったことは教育でやらないし、主張する人もいない。「現れの世界」を扱う人があまりに少ないから。
 こういうことを訴えるのにも、地位が居る。人が国会の前に集まっても、一ムーブメントとして消えてしまう。じゃあ自分は、それなりに認められる地位を、哲学で掴む。哲学者の役目はこれでしょう。
 自分の世界がすべてと思ってしまうのが、「健常」という病なんだ。

頭の良い人は、暗記が得意な人でもなく、ディベートが上手い人でもない。「様々な可能性を考慮しうる人」だ、と思う。
多くの人には余裕がない。だから健常なんだ。余裕がなければ他人のことなんて考えられない。
 「働かざる者食うべからず」が浸透している社会では、人の価値は労働力に過ぎない。そんな価値観を通して社会を見れば、「これは何のために」という問いの答えが一辺倒に固まってしまうのも無理はない。
 この「人の価値=労働力」という図式を問題化し、風潮を変えていかねばならないと個人的には考えている。「人間らしくない」とか「何か嫌だ」ではお話にならないから。
 どこぞのお偉い方のように、それっぽいことをでかい声で伝えていく必要がある。経済、政治システムについての話じゃない。一人一人の意識の問題だ。

少なくとも二人には「今日来て良かった」とでかい声で言っていただけたのが良かったと思っている。