「測れない良さ」まとめ
・電車の向かいに座っているおじさんの靴がオシャレだった。靴だけがいい人と、靴がその人に合っていていい人、その両方(靴も良くて本人にも合っている)があるよね。これは測ってない。
・測れるものと測れないものの仕分けを考えた時に、測れるものは交換できる。つまり客観的なもので、測れないものは主観的なもの。
・測れるものは経済的価値が定まり、お金で交換できる。
企業は基本測れることをベースにしていて、目標も数値化されている。
学校教育は測ること(客観性)を教えこむ文化だ。
・相手との誤差を生まないように、測ることのメリットはある。
「何かいい」というのじゃ伝わらないから、「ここがこういうふうに良くて、ここが最大の魅力です」と商品を宣伝するときには言葉をうまく使わなくちゃならない。
でも、どれだけ言葉を与えても、個人の解釈は違ってくる。
・バラエティー番組とかで「バンジージャンプ」の映像を見せられるけど、あれって絶対本人の視界と違うよね。
身体や風の感覚でスピード感は異なるし、車の中での時速40㎞とバイクの時速40㎞は違うはず。計測したら同じ時速40㎞だけど、体感速度というものがある。
テレビのバンジージャンプを自分の視界として体験した気になるんだったら、ヴァーチャルリアリティでも体験した気になるかもね。自分の列車が動き出したと思ったら、隣の列車が動き出していたってことはあるし。
・書写の先生に「美しさって何ですか?」と聞いたら、美しいと言われる甲骨文字を見せてもらえた。でも、その美しさの体験って、知識を入れたことによって得られたものだ。
知識のバックグラウンドなしに美しいと思うものってあるのかな?それと、美しいと思うような本能って備わっているのかな?
尊さは関係ありそう。
・景色への美しさとかそうだよね。
でもまあ、ナイアガラの滝の近くで住んでいたら、「もういいよ」ってなるよね。美しさには感動があって、そのうち慣れる。
・一昨日合った詩人は、世界とつながるために詩を使うと言っていた。既存の言葉では、何かしっくりこない現実があるのだと思う。
詩人は新たな言葉の使い方を発明するから。既存の言葉では表現しきれない現実性を生きるのが、詩人としての本性かな。
・あの人を「良い人だよね」って言ったときに、いろいろ含まれちゃう。
「良い人」としか言えない距離感なんだろうなって思う。仲が良ければもっと言えるはず。
・語彙力がその人の思考力だと思っています。
同じ言葉でも受け取る解釈が異なっていて、その感覚の違いがその人の良さなのかな。
・時代を経て測れる言葉が増えていく。
語彙力が増えれば、今まで表現できなかった世界のことを語れるようになっていくと思うんですよね。
でもまあ、長嶋さんのボールを打つときの「がーって来たやつをバーってやるんだよ」という感じは、何か本人の世界があるんだろうね。もちろん、教えるのが上手い人もいるけど。
・中世のドゥンス・スコトゥスという人が「測度」と「強度」という概念を出していて、基本的に科学と哲学は測度をベースにやってきた。真理を追い求めたとき、「誰にとっても絶対的な真理」は客観的に測れなきゃいけないから。
一方、強度というのは、感情の強さ弱さの度合い。「この怒りは強いな」と、外側の指標に頼れないけど、本人にはわかっている強さの度合いのこと。
「気づき」というのも強度で、長嶋さん本人がわかっている身体感覚はこの度合い。「今日はいつもより調子がいい」というのもこれ。
言葉は辞書に意味があるように、外側に用法が確定できるけど、その言葉の意味を理解するときの「気づき」の感じは強度。だから、同じ言葉でも解釈が異なってきちゃう。
・言葉を濁すというか、曖昧にするのが日本人特有の文化なのかな〜と思う。海外はもっとしっかり言うような。
テーブル会話終了、ここから全体
・感動もランキングつけられるから、測れそうな気がする
→測れないもの(強度)に、測る(測度の)道具を使って説明している。ランキングで測ったときに、「ランキングで測れる感動」に感動が変容する。
・美しいと思うときって、その対象を測れるじゃないですか。「この写真のピクセルは〜で、その時に脳に分泌があって…」と。
→対象を測ることと、そこに伴う感情を測ろうとすることは別のこと。感情は直接測れないから、感情と連動する身体反応や対象を計測しているだけ(それが科学的方法)。
・科学が発展したら、他人と神経を接続するというか、「他人の感じている体験」を自分も体験できると思いますか?
→景色は感じられても、そこに伴う思いれまでは無理だと思います。
・測る前のもの(A)にまず出会って、それは自分の中で測ったもの(A’)に変わって、それでも測ることは測れないな(測れない良さ)とまとまりました。
(会中では話せなかったこと)→「もの(A)」と「測れること」は対象としてのあり方が違っていて、「もの」は物質で、「測れること」は概念。
段階は、㈠(自分の中で)測る前、㈡(自分の中で)測った後、㈢その「測ること」が測れない、ということになる。㈠㈡が物質へのかかわり方であるのに対して、㈢は概念へのかかわり。だから㈢は測りにくい。
㈠㈡は外的指標(例えば他人の評価、数値)に頼れるが、㈢は概念に対する自分の感覚を測ろうとしているので、測れない。
・そっちのテーブルは「自分の中で測れるもの」が「測れること」で、こっちのテーブルは「客観的に測れること」が「測れること」なのかな。定義が違うだけで、そんな遠くないことを話している。
客観的に測れない自分の中のもの(感情など)はあるけど、細分化していけば測れるようになると思う。
↓実施したカフェの写真

2016.7.28 須山