in 西武珈琲
参加者8名

「心を許せる境界」

・個人的には他人に心を許していない、疑いの目を向けてしまう。
友人よりは家族と楽しみを共有する。

・家族とは関係が変わることがないし、無償の愛もくれるから、信頼している。

・親に対しても、子に対しても、同僚に対しても、それぞれのコミュニティに合った程度の話をする。

・自分をどれくらい出せるかが大切で、「ここまで話せる人」とか「ここから話せない人」とか、カテゴリー化している。

・上の家族とは話合わないからなぁ…。
そもそも、何か新しい知見を与えてくれる人にしか興味がないから、道具のネットワークで人間関係を構築している。
他人に話せないことなんてないから、自分の過去の話をして、何か相手に与えられるなら、それも道具として使う。ギブアンドテイクの関係、そもそも心を許せる境界がないのかも。

・本を読んで、その著者を尊敬する。心の中で、その作家と対話している。そのとき、その人に心を許している。
尊敬も大切なのかな。
→でもゼミの先生も尊敬しているけど、何でも話せるかと言われると…。
本なら自分が否定される可能性がないからかもね。

・まず込み入った話をするとき、自分の価値観をさらけ出す。その反応によって、価値観の近い人と遠い人が分岐する。価値観の近い人が気兼ねなく話せる。
人に合わせて生きる人より、自分の生き方を持っている人のほうがいいなぁ。

・価値観が合わなくても、おもしろい人だったら心を許せるかも。

・僕にとっては、全人格的に心を許せる人がほしい。
非常識なことをして関係性を壊してしまう人は嫌だ。恋人なら、浮気をするとか。

・「すべてを受け入れてくれないと心を許せないのか」というところがそろそろ問われる頃合い。
「心を許せる」の定義は?

★「心を許せる基準」と「心を許せる人に何をするのか」というところの違いがあって、例えば「価値観が合う人」は基準で、「自分をさらけ出す」というのは何をするのかの部分。
そこらへん明確にしましょうか。

・「気を使わなくて済む人」が心を許せる人かな…関係性の維持に努力しなくてもいい人。

・基準には「安心感」、「肯定してくれる」、「裏切らない」という点があるかなぁ。
これらが満たされるのには時間がかかるから、やっぱり今のところ心を許せるのは家族。

・「尊敬」、「安心感」。これが心を許せるの境界。
→でもこの場にいる人の境界に過ぎない可能性もあるよ。ツイッターとか公共の場で「辛いアピール」する人には通用しない気がする。

★日常的にはそうだけど、非日常に遭遇した人…家族を失った人が、本当の意味で心を許せるのは「同じ境遇の人」だけなんだよな…。

・境遇が似ていると、心を許しやすいかもしれない。
→でも距離感も大切。近すぎると自分を見ているようで、同族嫌悪に陥る。
趣味話題が合っても話せないときあるし、少し距離がある人のほうが話しやすい。

・心を許せる許せないで境界引くって、なんだか上から目線の気がする。境界の外に分類された人、心を許せない人をどう思ってるのかな?
→上下関係で見てるより、単に好き嫌いだと感じる。
→私は倫理観のない人(他人の気持ちをわかろうとしない人)はやっぱり下に見ているな。

★普通なら「安心感のある人」、「肯定してくれる人」、「尊敬できる人」とかが心を許せるけど、相当辛い出来事に遭遇したとき、心を許せる境界が組み変わるのかな?
→違うと思う。本当に弱っているとき大切なのは、他人からの「理解」や「共感」で、それを手がかりに立ち上がっていく。
そして余裕ができたら「安心感」や「尊敬」が気になるのだと思う。

・友だちのハードルが低い人はパワーがある。余裕があるから。

ちょうど終わりの時間に「初期のセットアップとして共感や理解が要る。そして余裕ができたら豊かな基準が出来上がる」という「境界拡張」というモデルが出たので、当面はすっきりした印象。
 他の班では、心を許すのに信用の段階があって、まず(1)道徳の共有があり、次に(2)趣味などのパーソナリティの共有があると考えたようである。信用は、自分の理想をどれだけ他人に投影できるかによるという。
 
 著者としては、自分で出したテーマのくせに話しにくかった。当初のテーマ設定の意図である「家族の話を間接的に扱う」というのは難しかった。もっとわかりやすいテーマ設定でないと根幹に踏み込めないのか、それとも自分の班に明確な問題を抱えている人が居なかったのか。
 それぞれの境界の相違がなぜ生じているのかも話したかったが、そこまでは踏み込めず。ただ、このテーマを設定したときには想定してなかった「遺族の境界」と、それにつながる「境界の拡張」というモデルが意見として出たことは、収穫だったのではないかと思う。

↓カフェの写真です。