今の私のいる場所 ーFediverseにたどり着いた哲学専攻の自分語りー

ueno
Mar 7, 2024

啓蒙とは、人間が自分自身に責任のある未成年状態から立ち去ることである。未成年状態とは、自分の悟性を他人の指導なしに使用する能力がないことである。このような未成年状態が自分自身に責任があるのは、この未成年状態の原因が悟性の欠如にではなく、自分のもの〔自分の悟性〕を他人の指導なしで使用する決心と勇気の欠如にある場合である。かくして、あえて賢くあれ!(sapere audel!)、すなわち、君自身の悟性を使用する勇気を持て! これが啓蒙のモットーである。 (カント 2022 : 177–178)

カントの啓蒙概念

上記の一文は西洋哲学を学んだ人なら、知らない人はいないであろう一文です。

いわゆる「ドイツ観念論」を代表するイマヌエル・カントが1784年に記した論文「啓蒙とはなにか、この問いへの回答」(Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung?)の冒頭に掲げられている、まさに啓蒙主義の標語とも言える言葉です。
ここにはどのような意味が込められているでしょうか、少し読み解いてみましょう。

まず、「人間が自分自身に責任のある未成年状態」という言葉が出てきます。これを文脈に照らして展開すれば、「人間には自分の悟性を決心と勇気と共に使用する義務がある」とカントが主張していることが理解できます。
ここで2つの点に注意しましょう。まず、カントの言う「悟性」(ここは「考える力」と理解してもよいでしょう)は、人に生来備わっているとカントは理解している点です。その力は、政府や教会や何らかの権威に与えてもらう必要はない、とカントは考えています。

もう一つの重要な点は、その悟性は「他人の指導なしで使用」するものであるとカントが考えている点です。ここはなかなかショッキングですね。一歩間違えば教育否定になってしまうようなロジックですが、カントは教育否定をしたいのではありません。
「啓蒙とはなにか」の全体を読めばわかりますが、社会に権威として、もしくは伝統として存在している判断基準に盲目的に従うのではなく、自分の悟性(考える力)で物事を考えなさい、ということです。

この考え方は「啓蒙主義」の基礎中の基礎ですが、伝統や権威に支配されていた封建制の社会では革新的な考え方でした。
まさに個としてのプライド、尊厳を勇気を持って高らかに宣言するものだったのです。このカントの思想は、現在の法律概念、またEUなどの政治・共同体概念にまで引き継がれています。自律した「個」が社会を形成する、それが近代が確立した基本概念の一つです。

私の20代

さて、なんか哲学入門みたいな話になってきました。しかし、哲学入門を書きたいのではありません。

私は17歳から哲学を学びはじめました。最初に手に取った哲学者はカントで、私もカントの啓蒙思想には憧れと共感を感じたものです。滋賀の片田舎で17年を過ごした自意識過剰の子どもには、その考え方は「新しい」ものでした。
そして当時の私は考えました。「これからは自分で考え、自分のことは自分で決めてやろう」と。それが哲学的「自律」(英語では autonomy と言います)なのだ、未成年状態を脱して大人になることなのだ、と。

そして18歳になり、大学生となりました。
私は初めての一人暮らしで、何もかもが不安でいっぱいでした。そこで頼れるものは「自分の悟性(考える力)」でした。金もないし。

まぁ、よくある話なのですが、そうやって不安の中でさまざまな経験を積み、「社会」や「政治」などのことをかじりはじめると、私は自分がいっぱしの大人であり哲学者になった気分になっていきました。
正しさ」を自分は知っており、自分は「正しい」行動をしている。しかし周囲はそれについてわかってない。なので、社会を自分が「啓蒙」しなければならない、そんな気分になっていきました。

ちなみに啓蒙(英 enlightenment)は「明かりをともす」という語義です。暗闇がはびこった盲目的な社会に明りを灯さなければならない、そんな当時の私の気分にぴったりでした。

SNSで気炎を吐くのはもちろん、リアルでもさまざまな人にひどい言葉を投げつけました。
口では「議論」と言いながら、それは「難癖」や「恫喝」に近いものでした。それが「自分でものを考えること」=「自律」だと思っていたのです。

しかし、当然そういうことをやっていると人は離れていきます。

そりゃそうです、四六時中「正しさ」を振りかざす幼稚な人間と一緒にいたいと思う人なんて、そうそういません。いたとしても、同じように「正しさ」を振りかざす人たちだけです。私の人間関係は暗く閉鎖的になっていきました。
それが私の20代でした。

大学卒業後

まぁ、20代の大学生がそれをやっていても社会は「若いんだからしゃーない、いつか大人になるだろ」と甘く見てくれます。
しかし、24歳で大学を卒業し、社会人となるとまたニュアンスは変わってきます。「20代だからまだ良いけども、そろそろ大人になりはじめろよ」という圧力が加わってきます。

大学卒業後は製造業に就職しました。そこは自分のような大卒の人間のほうが少数派の世界です。大学で養った万能感や未熟さは、なかなか通用しない粗っぽい世界でした。蹴りとか飛んできたし。
しかしプライドは非常に高かったので、そんな未経験の世界でもなんとかやっていけました。どんどん仕事のやり方を吸収して、数年後には現場の責任者になっていました。

私の悟性(考える力)は現場でも通用する、これが知の実践だ」と得意げだったのを覚えています。

しかしそこでもすぐに身動きがとれなくなりました。責任者になると後輩の育成もしなければならないからです。この育成で詰んだ。
なにかミスやトラブルがあると「なぜ俺の教えたとおりにしないんだ?」や「なぜ自分で考えないんだ?」などの他責的な言葉ばかりが出てきます。そうやって他責的になればなるほど、後輩や部下も私を離れていきます。
しかし私には他責しか出来なかった。そりゃそうです、ここまで全て自分の悟性(考える力)でやってきて、自分で成功を積み重ねてきたのだと信じていたのだから。そんな「正しさ」を振りかざす人に、人はついてきません。
私は現場の責任者として、新人教育という職務を果たすことができませんでした。

もちろんカントは私のような馬鹿ではありません。
主著『純粋理性批判』を読めばわかりますが、カントは理性や悟性に明確な限界を設定しています。悟性(考える力)だけでどこまでも進めるはずはない、カントはそれをわかっていました。僕はさっぱりわかっていなかったのですが。

30代になって

30代になると、そんな私のやり方も許容されなくなります。周囲も「もういい歳になってきたんだから、いい加減にしろよ」という対応になります。
周囲は子育てや責任のある仕事で忙しく、日々のことで精いっぱい。「正しさ」なんてとうに捨てて、もっと柔らかな有用性を身に付けています。私だけが「正しさ」にしがみついていたのです。

そんな中で仕事にも限界が来て、退職することになりました。

再就職してもすぐ上手くいかなくなりまた失業し、無為なやけっぱちの日々を過ごしていたのですが、いろんな縁があってふたたび哲学を学ぶようになりました。
そんな中で私はアメリカの哲学者、ウィリアム・ジェイムズに出会います。彼の有名な『プラグマティズム』というテキストには、こんなことが書いてありました。

「真なるもの」とは、ごく簡単に言えば、われわれの考え方の促進剤に過ぎないので、それは「正義」がわれわれの行い方の促進剤に過ぎないのと同様である。ほとんどどんな考え方についてみても促進剤なのである。結局において、また全体の過程を通じて促進剤なのである。なぜかと言えば、目の前のすべての経験に促進的に応ずるものは、必ずしも将来のすべての経験にも同じ程度の満足を与えるとは限らないからである。われわれの知るように、経験というものはさまざまな風に煮えこぼれるもので、われわれに現在の方式をさまざまに修正させていくものである。

「絶対的に」真なるものとは、将来の経験が決して変えることのないものを意味し、われわれの一時的な真理がことごとくいつかそれに向かって集中するにいたると想像されるあの理想的な消点である。それは完全な賢者や絶対的に完全な経験と同じもので、もしこれらの理想がいつか実現される日が来るとすれば、その時にはこれらの理想すべてがいっしょに実現されることであろう。それはとにかく、われわれは今日は今日えられる真理によって生きねばならず、今日の真理も明日はこれを虚偽と呼ぶ心構えをしていなければならぬ。(ジェイムズ 2010 : 222–223)

これを読んで、「自分の考える力でどこまでも行けるはずだ」と思い込んでいた私は衝撃を受けました。
ここでジェイムズは「真理」という哲学の重要な概念を「考えるための道具」にすぎないと断言します。つまり、絶対的な「正しさ」なんて存在しないという宣言です。自分は絶対的な「正しさ」を知っていると思っていた私とは、全く違った世界観です。

そしてさらにジェイムズは、今日の自分が信じていた真理は明日否定される可能性がある、と言います。これは可謬主義(英 Fallibilism)という考え方です。
人間は常に限界がある存在だから、常に誤りを含んでいる。生活の実践の中で、人は学んでいくが完全になることはできない」というジェイムズの姿勢に度肝を抜かれたのを覚えています。そんなこと、考えたことがなかった。

しかし、周囲を見渡せば多くの人がそうやって生きています。今の自分の信条を譲り合い、また時にはぶつかり合いながらも話し合い、あたらしい見解を見つけだしています(良い夫婦げんかでもそうだ)。また、不完全な自分や他者を受け入れて「お互い様だから」と自分の自由を制限して、相手を優先させることも多々あります。

しかし、それが私にはわかっていなかった。私は社会を「個のぶつかり合い」という、「万人の万人に対する闘争」(ホッブズ)と捉えていました。なので、そこで個を譲らず戦うことが近代以降の価値なのだ、それが人間の尊厳なのだと信じていました。
しかし現実は全く違った。なんてこった。

それに気付いて、カントやヘーゲルといった「ドイツ観念論」の哲学者を読み返してみると、彼らがいかに「社会」を大切に、そこでの人の利他の営みを大切に考えていたのかに気付かされました。
斎藤幸平氏の『100分 de 名著 ヘーゲル 精神現象学』にはそんなヘーゲルの姿勢が「相互承認」という考え方でこのように説明されています。

赦すことは、相手の立場をそのまま受け入れることでもありません。ここで重要なのは「告白」と「赦し」の応答は、善悪をめぐる当初の自分の見解を双方が(部分的に)改め、対称的に変わっていく過程であるということです。
相手との意見の違いを認めたうえで、協働して、吟味しあう態度がここに形成されます。双方が、批判し合い、それを受けて自分の「偽善」を反省して歩み寄ることで、そこから協働で新たな知と正しさの基準を生み出していく — — これこそが「赦し」が成立させる相互承認の関係です。 (斎藤 2023 : 118)

私が理解した貧しい「啓蒙」の行き着く先は、孤独と孤立でした。
しかし本当の啓蒙は、人間の限界を認識し、社会の中で相互を赦し、批判し、協働してゆく豊かなものだった、そんな単純なことに気付くのに10年以上かかりました。

Fediverseとの出会い

そんなこんなを考えてぼう然としている時に、私はFediverseに出会いました。最初はよくわからなかったのですが、構造を学んでいくうちに「これは多元主義(英 Pluralism)がベースにある共同体だ」と理解しました。

多元主義とは上記のジェイムズの立場で、さまざまな可能性と原理と限界をもった共同体がそれぞれ自主独立して存在する、そんな世界観です。多様性と少し違うのは、多様性は相互理解を強調しますが、多元主義は「さっぱり理解しえないこともある」という限界を積極的に認める点です。

Fediverseを見ていると、さまざまなソフトウェアがさまざまなサーバーを成立させ、そのソフトウェアにもフォークが複数存在しています。そしてそれぞれに思想があり、それらは相互理解が全くできなくても、同じプロトコルを使用し「共存」しています。

「正しさはいつも一つ」と思い込んでいた私にとって、この発想はまったくなかった発想です。
ここから学ぶことは多い、そう思ってまずmastodo.jpに、そして今はfedibird.comにいます。そこから見る景色は学びにみちています。あるところではモデレーターが喧嘩し、あるところでは協働し、あるところでは鎖国し、、、、同時に、サーバーやソフトウェアを横断してユーザーがさまざまなカルチャーを生み出しています。

そんな多元的な世界でのキーワードは、上記ヘーゲルの指摘する「協働」という概念でしょう。モデレーターもユーザーも、消極的な受け身というよりも、一緒になって文化や運営方式を生み出していく姿勢がFediverseでは求められる(ことが多い)。

協働、それは20代の私には全くできなかったことです。
協働をするには「正しさ」を振りかざす姿勢を捨てなければいけません。正しさだけでは共同体はできない。妥協、議論、理解、歩み寄り、批判、、、そのような協働関係を結ぶには、正しさではなく「相互承認」が重要です。
斎藤幸平氏は以下のように指摘します。

相互承認は「自分も間違っていた」と認める態度なので、自分から進んで疑い、絶望し、学ばなければいけません。これは難しい。私たちは自分を棚に上げて「あなたは間違っている」と指摘したり、糾弾して黙らせたりはできますが、そんな批判に直面した相手はむしろ態度を硬化させ、口先だけの約束で欺いたり、決別を宣言する可能性もあります。(中略)
協働の負担を嫌がる人たちは、対立する相手と議論したり、「なぜ彼らはそう主張するのだろう」と想像力を働かせたりする代わりに、「あいつらは話のわからないバカだから」と斬って捨てます。時間も手間もかかるだけではなく、自分も傷つくことのある他者との協働の道を選ぶか、「バカは相手にならん」と自分たちだけの価値観に閉じこもる道を選ぶか — — その選択は私たちの「自由」です。 (斎藤 2023 : 130–131)

以前はまったくできなかった、そして価値を認めていなかった「協働」という実践に、今私はFediverseで取り組んでいます。

まぁ、当然よちよち歩きなので、頼りなく失敗だらけのものですが。。。

開かれた協働の可能性に向けて

さて、ここまでは木野どど松さんの記事「Fediverse で『コミュニティ』を運営している話」に感銘を受けて、自分自身を振り返った概観と来歴を書いたものです。

木野さんがモデレーターをされている Firefish サーバー「㐂五亭(どどいつてい)」のルールには「尊厳」(英 Dignity)という言葉が2回出てきます。
この言葉は、私も20代から大切にしてきた言葉で、ルールを読んだ時に強く印象に残りました。大辞林4を参照して語義を見てましょう。

そん げん[0] [3]【尊厳】(名・形動)文ナリ
尊くおごそかで侵しがたい・こと(さま)。「生命の━」「夫帝王極めて━なり/明六雑誌五」

20代の私は人間の尊厳とは、個が自分の主張や自尊心を社会の中で主張して、闘い取るものだと考えてきました。

34歳、現在、Fediverseにいる私の「尊厳」の定義は大きく変わりました。現在の定義は、「他者と協働するために、自分に与えられた権利や自由を自分から制限し、相互に承認しあう人間の営み」これが人間の尊厳だと感じています。
他者を不当に傷つけないために、共同体を崩壊させないために、みんながつくった良い文化を守るために、私たちは自分たちに与えられた無制限の自由を自ら制限・放棄し、他者やルールに歩み寄らなければならない。

しかしそんな面倒な営みから得られるものは、無制限の自由を主張し闘争をくり返していた時の孤独とは違う、豊かで味わい深く、そして複雑なものです。やっとそういった関係性が自分にも見えてきました。
時間の無駄が長すぎるぜベイベー、、、、、

まぁ、そんな当たり前のことに気付くのに34年かかったという愚か者の自分語りでした。お読みいただき、ありがとうございました。

またFediverseで会いましょう!

参考文献

カント, イマヌエル(2022)『道徳形而上学の基礎づけ』 御子柴善之訳, 講談社

斎藤幸平(2023)『100分de名著 ヘーゲル 精神現象学』 NHK出版

ジェイムズ, ウィリアム(2010改版)『プラグマティズム』 桝田啓三郎訳, 岩波書店

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