ふるさとを口ずさみながら。

「志を果たして いつの日にか帰らん 山は青きふるさと 水は清きふるさ と」この有名な「故郷」を作曲した岡野貞一は、幼少の頃岡山のキリスト教会 で宣教師からオルガンを習ったことが契機となって、作曲家への道を志したそうだ。彼が見て「美しい、素晴らしい」と感じたわがふるさと。しかし、今この日本では、環境のみならず、こどもたちの安心安全をめぐる状況すら非常に危うくなっている。日本アカデミー賞で絶賛され、話題となった映画 「ALWAYS~3丁目の夕焼け」の頃、昭和30年代は、地域に共同体が存 在せざるを得なかったという意味で、今とは違った意味で古き良き時代だったかもしれない。しかしながら、時代 は移り、家族の形態や地域のあり方は様変わりしてしまった。今岡野が生きていたら、このような日本の状況をとても残念に思うであろう。私たちの「ふる さと」をこのままにしておいて良いとは到底思えない。

「肝苦しい」と書いて「チムグリさん」と読む。これは「他者の痛みや苦し みを思うと、自分のはらわたが痛いほど苦しい」という意味を持つウチナグチ、 つまり沖縄の言葉である。しかし、私たちの現実はどうであろうか?「勝ち組、 負け組み」という言葉に象徴されるように、他者への配慮や思いやりといった 事柄は、どこかへ置き去りにされてしまったように感じるのは、私だけではあるまい。

しあわせとは何だろう?あるキリスト教の牧師が、その漢字を見て「幸せとは、土と¥から成り立つもの。すなわち、土地とお金を求める生き方である」と揶揄している。しかし、その結 果はどうであったか?今の日本の状況を見ても明らかなように、そのような「しあわせ」の在り方は、もう終わりにしなければならない。では、私たちがめざ すべき「しあわせ」とは一体何なのか。

私が暮らす岡山の瀬戸内海には「長島」という小島がある。ここにはハンセ ン病に罹った方々の療養施設があったことで知られている。ご存知のようにかつては隔離政策がとられ、本土と行き来するための橋すら存在しなかった。元 患者の方々からお話を伺うと、偏見と誤解で多くの差別が繰り替えされてきたことが分かる。対話を通して、「病気にかかった方に対する痛みを覚えない」ばかりか、「自分たちの目に触れないようにすることで、その存在に気がつかないふりをしてきた」思いやりに欠ける自分たちの姿を思い知らされるのだ。

岡野貞一が感銘を受けた聖書には、重い皮膚病人(ハンセン病)を 癒すイエスキリストの記事が掲載されている。その箇所は「イエスは、はらわたがちぎれる想いに駆られ」と訳されている。原語であるギリシャ語は、 splanchnizomai。これは、「内臓」すなわち腸や肝臓をさす名詞(splanchnon)に由来する。当時、内臓は人間の感情の座であるとみなされていたため、同語 は「憐れみ」や「愛」という言葉に転化したらしい。

偏見がゆえに誰もが忌み 嫌い、近寄ることすらしなかったハンセン病の患者の方々に、イエスキリスト は自ら近寄り、助けた起こしたと聖書は言うのである。「出会った人の痛みに響 きあい、弱者とされている人々と共にある生き方」。このような生き方こそを「仕合せ」とよびたい。人と人がつながり、痛みや喜びに響き合って、「お互いに仕 え合って生きる社会」こそを再構築していかなければならないと思うのである。 それは、誰もがチムグリさんを感じる、愛に満ち溢れた社会と言い換えることができる。

では、具体的に、何から始めればよいのだろうか? 若者に絶大な人気を誇る Mr.Children は、楽曲「タガタメ」の中で、「こどもたちを被害者や加害者にし ないために互いに愛し合おう」と歌い上げている。では「愛」とは何なのだろ うか? ある時、こんなことを教えてもらった。「愛」は英語でLOVE。これを分 解して、「Listen」「Open」「Voice」「Enjoy」と読むと分かりやすいと言うのだ。 「よく聴き」「心を開き」「声をかけ」「楽しむ」。このような行いがあるところ こそが、愛に溢れた共同体と呼ぶにふさわしいとのことだった。

岡山は「晴れの国」と呼ばれる。読んで字のごとく非常に災害が少なく、結 果的に助け合いの必要性が少ない地域であるとよく言われてきた。しかしそれ は事実であろうか。歴史学者である E.H.カーの著書『歴史とは何か(WHAT IS HISTORY?)』には、 「歴史とは、現在と過去との対話である。現在に生きる私た ちは、過去を主体的にとらえることなしに未来への展望をたてることはできな い。複雑な諸要素がからみあって動いていく現代では、過去を見る新しい眼が 切実に求められている」という言葉が書かれている。そのような視点で歴史を 紐解くと、日本の社会福祉の先駆的働きが岡山で多く行われてきたことに気づ かされる。中でも数年前、マツケンこと松平建さんが主演し、映画にもなった石井十 次の働きは特筆すべきものである。

十次は 1865 年(慶応1年)日向の高鍋城下に生まれ、郷里で結婚し、教員を務 めていたが医学を学ぶために 1881 年(明治 14 年)岡山県立医学校に入学した。 在学中、キリスト教への求道を深め、84 年に岡野と同じ、岡山教会にて洗礼を 授かる。同時に孤児救済をなしたミューラーの話に感銘し、市外の大師堂にい たひとりの孤児を引き取り、三友禅寺の一室を借りて、孤児教育会を起こした。 当時弱冠 22 歳であった。

89 年には「自分が人を救う道は、孤児救済事業であると確信し、医学校を退 いて岡山孤児院を設立した。その運営は幾度も困難に襲われたが、創意工夫に よってそれらを乗り切り、多くの成果をあげた。1905 年には、東北の大飢饉の ため院児が 1000 名を越えたが、これらのこどもも大切に育み、多くの人々から「石井のお父さん」と呼ばれ、心から慕われた。救世軍を起こした山室軍平は 「石井に近づくことは、火に近づくことだ」と言っているが、まことに激しい 炎のような生き方であった。この炎のような生き方にふれて、社会事業を生涯 の仕事としようと願った若者も数多くいたようだ。前述の岡野貞一は、93 年に 鳥取から岡山に移住していたので、石井の働きをつぶさに見、影響を受けたの ではないかと推察される。二人はこのふるさとを少しでも良いものにしようと 努力したに違いない。私には彼らのこのような生き方こそが「よく聴き」「心を 開き」「声をかけ」「楽しむ」という愛の実践であったように思われるのだ。災 害、犯罪などを通して危機的状況におかれている人々が増加している今の社会 を二人が見たら何をなそうと思うだろうか。たぶん勇気をもって一歩足を踏み 出し、何らかの方法で愛を伝えようとするのだろう。

私の友人に、優れた英語教師である「本城武則さん」というベストセラー作家が いる。よく受ける質問は「なぜ日本人は、英語が話せないの?」だそうだが、 彼の答えは「日本人が互いにあいさつができないから」ということだ。例えば、 お店に入って店員さんから「おはようございます」と言われて、「おはようござ います」と返す人は、日本にはまずいない。日本人同士で知らない人と会話で きなければ、当然外国人と会話できるはずがない。まずは、日本人同士が、『気 兼ねなく』『自由に』『いつでも』『誰とでも』会話できるマインドを作ることが 大切だと彼は言うのである。

このお話は大変示唆に満ちている。いくらこども たちの安全を心配していても、それぞれの親同士があいさつしたり、声をかえ あえる状況を作らなければ、その気持ちは具現化しないと思うのである。実際 に私の娘の通う小学校では、PTA が中心になって学区内の地域の落書き調査や消 去活動を行い、いかに自分たちを取り巻く状況が悪いかを思い知らされた。そ こでお互い挨拶を交わすことを提唱し、そのような動きの中から、いまや地域 の方々が中心となってパトロール隊もが発足し、毎日のように大勢の大人がこ どもたちを見守ってくれるようになった。まさに思いを響き合わせた愛の「響 同体」であると感じている。一歩踏み出すことで地域は変わり始めたのだ。

一隅を照らすという言葉がある。「一隅」とは今あなたや私のいるその場所の こと。家庭や職場など、自分自身が置かれたその場所で、愛を実践し、明るく 光り輝くことのできる人こそ、何物にも変えがたいと感じている。自分のため ばかりではなく、誰かのしあわせを求めていきたい。ひとりが光れば、誰かも 光る。そんな小さな光が集まって、日本を、世界を照らすのではなかろうか。 石井の生き方はそれを証明している。肩肘を張らず、岡野が作曲した「ふるさ と」を口ずさみながら、目の前にある問題に誠実に対処する、そんな小さな積 み重ねを続けていきたいと願っている。

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