人間讃歌の巡礼―ジョジョの奇妙な冒険「スティール・ボール・ラン」

Nakamura, Yuko
NAKAMURA Yuko
Published in
May 2, 2019

仏教美術のレポートでジョジョのエッセイを書きました。

2018年夏学期、京大文学部で開講された稲本康生先生の「東アジア仏教美術研究」のレポートです。この授業で扱ったのは「玄奘三蔵絵」( 鎌倉時代 14世紀)を始めとした、玄奘三蔵の旅を描いた美術。

稲本先生のシラバス

仏教が外来文化であることに注目しながら、昔のアジアの関係性、かつての日本人が持っていたであろう仏教イマジナリーについて考えました。漢籍やらインドの地図を広げながら鎌倉時代の絵巻物を読む、たいへんグローバルな面白い授業でした。

そんな講義で課題の一つとして出題されたレポート、お題は…

「宗教を問わず、聖者の旅、または聖人の遺物がテーマの美術作品」

…スティール・ボール・ランやん!

という訳で、エッセイを書きました。一応ちゃんとした成績が出たので、シェアしてみます。このブログは、それに諸々追記して読みやすくしたものです。ちなみに、ネタバレ大あり。あらすじ等の説明も省きますので、ぜひ7部読んでみてください!

要旨

ジョジョの奇妙な冒険第七部、スティール・ボール・ランは、とある「聖人の遺体」を巡る物語である。この聖人の遺体を巡る旅で「聖人の物語」に関する2つの対立的な立場が描かれる。オーセンティックなカトリック美術の図像と、ある意味サブカルチャー的に消費されてきたキリスト伝説の図像。この2つのイメージがどのように物語に描き込まれているかを通して、この部の「ジョジョ」が選びとった「祈り」とは、何だったのかを解き明かす。黄金の精神の物語が「回転」をキーワードに再生される。七部こそ、「人間讃歌」というシリーズの主題を再提示する部だ。

目次
1.聖遺物のモチーフ:力と遺体
2.東へ向かうキリスト:青森県戸来村「キリストの墓」
3.「人間讃歌」としての祈りを取り戻す旅
4.回転=循環、そして再生
5.黄金の精神は循環する

1.聖遺物のモチーフ:力と遺体

一読して、この7部の物語の作り方が、「聖人の遺体」があるポイントを中継点に旅をするという「巡礼」であることが分かる。遺体の「聖人」は、連載中の第8部においてもまだ何者か判明していないが、手の平と足に穴が空いており[1]、茨の冠をかぶっているという描写から、イエス・キリストの遺体をモチーフとしていることは間違いない。

さまざまなキリスト教のモチーフ

著者の荒木自身が高校でキリスト教教育を受けた経験もあり、(荒木氏が持っている聖書についてはこのサイトなどで考察がある。)この7部でも、聖書の記述に基づいた描写や、キリスト教の宗教絵画のモチーフが多く取り入れられている。

例えば「聖人の遺体」を運ぶ、「153びきの魚」(ヨハネ21:11)に運ばれるシーン

また、7部の「ディオ」ディエゴ・ブランドーの生い立ち。「生まれなかったことにして川に流され、奇跡的に生き延びる赤子」という設定は、旧約聖書のモーセのイメージのようである。

聖人の眼球を見つけるシーンでは、北斗七星が目印となり、ジョニィや大統領側らがそれをめがけてやってくる。

この「星」を目指した先に「聖人」がいるという描写、幼子イエスが生まれたベツレヘムの厩まで星が照らして導いたというクリスマスのを彷彿させる。

星の導きで各方面から人が集まってくるというのも、まさに東方の博士、羊飼いらが集まってくるクリスマスの物語(マタイ2:1–12、ルカ2:8-21)通りだ。

(ちなみにこのシーンの連続して星が見え続ける描写は私が一番好きな場面である)

なお、考察サイトには、8部の壁の目やスタンドも、この「遺体」と関わっている、との考察があったり、6部のプッチ神父が「遺体」の本人なんじゃないかとか、そのような考察が並んでいる。

その中でも特に、物語の構成においても絵の表現においても、「聖骸布」のイメージは、物語の根幹に関わる役割を果たしている。

聖骸布のイメージ

現実にトリノに伝わる聖骸布でキリストの遺体を包んだとされる人物、「アリマタヤのヨセフ」が、この物語中でも「聖人」の遺体のありかを示す地図を残したとされる。

・ キリスト教絵画でよく用いられる「十字架降架」の図像を採用

・ 「聖人」の遺体を胎内に宿した、ルーシー・スティールの腹部に浮かび上がる顔は、現実の宗教絵画で見られる「ベロニカの聖顔布」の図像

聖人の遺体は「奇跡を起こす」と信じられてきた。

そして「十字架降下」や「ベロニカ」の主題を描いた宗教絵画は、当時のヨーロッパ人の信仰の道具としての機能も持っていた。すなわち、聖遺物のもたらす奇跡を期待したり、および聖遺物を手掛かりに瞑想してキリストのビジョンを描き彼に「出会いたい」という人のために描かれた。つまり、ヨーロッパ中世以降の素朴な聖遺物信仰がこれらの主題の第一の表象である。もちろん、スティール・ボール・ランにも、「あの方」に出会ったことに感激を示す、信仰心の篤いキャラクターはいる。

「あの方」の顕現に感動するブラックモア

しかし、物語を通じて、「聖人の遺体」は別のイメージを強く発している。それは「力」のイメージだ。

スティール・ボール・ランの裏で、聖人の遺体を集めようとしているのは、「大統領」。彼の遺体を集める目的は国家の繁栄、永遠の力である。作中でも、ベネチアが「千年王国」としての繁栄した例を挙げ、その繁栄の源として聖マルコの遺体の力に直接言及している。

作中で、大統領は、「安定した平和」は、結局のところ合意や対話よりも、「絶対的優位に立つ者」が治めることでしか実現しないと説く。世界のルールは「ナプキンを最初に取った者」が決める。その最初のルールを決める者となるため、遺体を手にするのだ、と。「遺体」を手にした国家は、運命のうちよいものだけを引き寄せ、繁栄する。「遺体」のある側が絶対の「正義」、持たない側が「邪悪」になるのだ。

「人知の及ばない絶対正義が存在し、それが権力をバックアップする。」というこのイメージこそ、聖骸布美術が持つ、別の、そして現代的な表象ではないだろうか。

キリストが地上に再臨し[3]、裁きの日[4]が訪れる。その時天国に行ける基準を司る神の代理人として、カトリック教会は権力をふるってきた。その権力が民衆支配のために提示したのは、「こうすれば天国に行ける」という希望であると同時に「さもなくば地獄の業火に焼かれる」という恐怖だっただろう。
「魔女裁判」「教会税」などの言葉で喚起される、暗く閉鎖的な中世ヨーロッパ、カトリック世界のイメージ…。「聖骸布」の根拠を示すがごとく描かれる宗教絵画は、当時の信仰者に畏れを抱かせたに違いない。そして、その再臨を振りかざしていた権威が、信仰の在り方として批判され、失墜したことまで、現代の私達は知っている。

カトリック美術の持つ権力性の表象は、この物語の「正義」と「力」のあり方の描写と、強い効果を持っている。それでは、一方的・独占的な「正義」に対置されるものは何だろうか?

2.東へ向かうキリスト:青森県戸来村「キリストの墓」

この物語が、アメリカを舞台にできる根拠、それは「聖人」が、「東へ行ったこ」とだ。

復活した聖人はユーラシア大陸を東に進み、東回りで海を渡って、先住民たちの暮らす「発見」前のアメリカに到着する。
この設定については、エルサレムより東に「イエスが来た」という伝説・伝承が複数残っていることが発想源だと指摘する考察が多い。その中でもこの物語との関連で注目されるのが、青森県新郷村(旧戸来村)にある「キリストの墓」だ。

作中の「聖人」は東の果てまでやってきて、海を渡る。このユーラシア大陸の東端とは、おそらく日本のことだと考えてよさそうである。松や波の描写に、日本絵画のイメージが見えるし、松の美しい入江のような景色から東北地方を連想する人も多いだろう。

日本にキリストが居たという説は『竹内文献』[5]といわれる竹内巨麿(1875~1965)の家に代々伝わる「偽書」に記述された伝承に由来する[6]。その伝承に親しんでいた鳥谷幡山が1935年8月に青森を調査で訪れ、当時の戸来村にて、「インスピレーションに導かれ」[7]キリストの墓を発見した。

この説は、1970年代のオカルト・ブーム以降注目され[8]、今ではすっかり観光地化された。荒木が1960年生まれであることから、ちょうど思春期に「ムー」などでこの話を読み得たといえる。

また、ジョジョはそのシリーズを通じて、日本でサブカルチャーとして消費されるオカルト・都市伝説・古代史に取材し[9]、その原因譚のような形で話題を書くことが多いことも、この「戸来村のキリストの墓」がインスピレーションを与えた可能性を考えたくなる。また、作者の出身地、仙台市の作品中での重要度の高さ[10]も、着想源としての可能性を高めている。

この「青森のキリストの墓」を組み込んだことで、『ジョジョ』シリーズに通底する作者の哲学が、そして第7部のコンセプトが、効果的に浮かび上がってくる。

縁的真正性と「人間讃歌」

新郷村ウェブサイトより

さて、この「キリストの墓」についてフィールドワークと歴史研究を組み合わせ、現代の宗教の在り方について考えた面白い論文がある。

岡本亮輔「フェイクが生み出す真正性――青森県新郷村「キリストの墓」の聖地観光」、筑波大学 哲学・思想専攻『哲学・思想論集』第39号、2013年に掲載されている。

これによると、この墓におけるポイントは、オカルト・ブームが始まった頃からメディア[11]も、そして今や大盛況の「キリスト祭」を運営する地元の人でさえ、本当に青森でキリストが死んだという伝承[12]を文字通りには信じていないということだ。

世界の他の地域にあるキリストの子孫伝説は、多くが新しい救い主への期待や別の信仰と結びつく可能性が指摘できるが、青森でこの伝承から派生した「青森で新しい救い主を待望する宗教」の存在や、「東北の民間宗教の神々の中にキリストが新しく含まれた」という話は聞かない。

そもそも、キリスト教が語る奇跡や、仏教における仏の身体的な設定は、現代日本人で歴史的事実として受け止めている人の方が少ないのではないかと思う。イエスとブッダが立川でバカンスを過ごすというマンガ、『イエスとブッダ』などは、こうした宗教設定をコミカルな笑いの仕掛けに使った代表例であろう。キリストがインドまで言っただとか、青森にキリストの墓があるなんてエピソードだって、一見、この系統のギャグマンガにできるような話題である。

だがしかし筆者は、荒木が、スティール・ボール・ランで、キリストの東進や青森の墓について、そのような態度で取り扱っているとは思わない。

岡本は、新郷村でのフィールドワークの結果、「キリストの墓」を地元の人が、史実としては信じていないが、「何等かの外来の人」「大切な人」の墓として、大切にしていることを指摘する。そして「縁的真正性」を感じている、つまり「大切な人が大事にしてきた、その伝統に価値がある、私たちも大切に引き継いでいこう」と説明する。

この説を元にスティールボールランに描かれた「キリストの東進」の意味を読み解いてみよう。

これは単なる不思議オカルト伝説ではなく、作中の「聖人」と彼に出会って彼を信じた、世界各地の人間!の表現なのだ。

遺体として力のアイテムになる以前の神になった人物の姿。彼を信じた人が人と繋ぐ、命の通った信仰の有り様として荒木は描く。

このような信仰の繋ぎ方は、ジョジョシリーズのテーマ「人間讃歌」に通じるものがある。

3.「人間讃歌」としての祈りを取り戻す旅

「人間讃歌」とは何か

さて、あるインタビューで荒木飛呂彦は、こう答えている。

僕は、UFOを信じていないんですよ。(中略) たとえば「人類の起源が宇宙人だった」とか、「人は神が作った」という類の話はすごく嫌いなんです。やはり、生物学的にきちんと辻褄が合っていてほしいんですよ。(中略) それと、超能力的なものを「宗教の世界」で説明するのも嫌なんですよ。 「超ひも理論」は、たとえ嘘臭くても、理論で説明しようとする姿勢には賛成できるんです。少しでも「開拓しよう」という気概を感じるし…… 結局、僕が言いたいのは「人間讃歌」なんでしょうね。

『KING』2008年4月号掲載、荒木氏と康芳夫氏との対談(後編)より

不思議な物語、超常的なパワーのやり取りに満ちたジョジョシリーズの作者、荒木だが、あくまで超人的な力よりも「人間讃歌」をテーマとして強調する。

このインタビューでは、「人間讃歌」を、人間・命が紡ぐ物語(世代を経た生物の進化、人類の進歩、分からない事象の科学的解明)を、超常的な力の一方的な行使(神による世界の創造、宇宙人がすごい技術をもたらした、超常的なものを宗教的態度で分からないままにすること)より愛するという意味で読めるように思う。

この荒木の世界観は、一部からずっと徹底して表現されている。1から6部では、人間を捨て、生命の限度を超えようとしたディオと石仮面の力に、ジョースター家と仲間が呼吸と太陽の力で立ち向かってきた。

そして7部では、大統領が遺体によって獲得する絶対的な支配に、ジョニィの「回転」が対置される。

そして、このスタンドは、自然を観察から黄金比を習得することにより無限の回転を得て完成する。「本物」の黄金比は命が繋いできたものだった。荒木の世界観が、見えてきた気がしないだろうか。

ジョジョは、奇跡のような、運命のような不思議を信じる物語である。しかしそこにあるのは超越した存在を硬直的に盲信する人間ではない。人間は、超人間的な特殊能力に、自然の法則・回転の力を解明し、身に着けた人間の知恵で立ち向かう。そして、形骸化した信仰を超え、命が繋ぐ祈りを取り戻すキーワードが「回転」なのだ。

何を祈る旅だったのか

物語の最後、ジョニイ・ジョースターはこれは「祈りの旅でもあった」と気づく。そう!『スティール・ボール・ラン』はやはり「巡礼」だったのだ。しかし、物語序盤で提示された「キリストの遺体を巡る巡礼」とは少し性格の違うものだ。

この「祈り」は、予め決められた「絶対正義」の証を巡り、正義の側につくための「祈り」ではない。ジョジョは、気づけば「祈っていた」。天気を祈り、眠る場所と食料を祈り、友と馬の無事を祈り、河を渡り…

荒木の提示する祈りの1つ目の重大な要素は、命ある人間の繋がりである。

ホンモノの遺体が持つ外形的な真正性が権威として古くなる一方、人が繋いだ物語は、血の通った息の通った祈りであり続ける。
だから、キリストは東へ向かっても、その真正性を失わない。きっと世界の各地で、キリストに出会い、キリストと共に人生に向き合った人の信仰があっただろうから。

もう一つは、人間の有限さへの愛と、自然への畏れ。

人間も信仰も完全ではない。世界が法則性なくもたらす不思議を信じる姿勢は、「遺体」が、不幸を異世界へ弾き飛ばす描写にも現れている。どこかで不幸な事故が起き、どこかで偶然の幸福が訪れる。最後にレースは、遺体を巡る戦いに全く関係のない、「運がいいやつ」ポコロコが優勝する。

すなわち、ジョジョシリーズを通して受け継がれる「黄金の精神」とは、圧倒的な自然がもたらす運命に、翻弄されながらも尊敬を持って対峙する人間の姿である。

1–6部でディオと吸血鬼は、太陽を拒んで「不死身」を手に入れたが破滅し、7部では、世界の法則を「遺体」という絶対正義で乗り越えようとした大統領が敗れる。

4.回転=循環 : 再生の物語

血の通った祈りを取り戻すキーワードが「回転」。1部の「呼吸法」に相当する、自然から人間が学んだ有機的なパワーの発生源が「回転」である。「無限の回転」を習得し、大統領に勝利したジョジョ。物語を通して、無限の回転、つまり循環し続ける人の営みがテーマになっていると私は分析する。

再生の物語

ジョニイは、最期に「これは再生の物語だ」と旅を振り返る。文字通り、ジョニイの足が再び動いた、という意味もある。表面上、「巡礼による奇跡」であろう。しかし、それは絶対的正義に一方的に、もたらされる「奇跡」観とは異なるのだ。

最期に、彼は「家に帰る」と言う。絆が断絶された家族が、彼のレースでの活躍によって、再生する。最後のコマで、大西洋が大写しになる。

「聖人」は、ローマから東へ東へ進み、北米に進んだ。ジョジョたちは、彼の遺体を巡りながら「祈り」を大陸の東から西へ紡いだ。そして、その彼が、大西洋を渡って、イギリスに帰る。祈りの旅を共にした、「友人」の遺体と共に。そう、一周!したのだ。

さらに、この海を渡る「遺体」は、権威の器となった「聖人のカラダ」ではない。モノとしてコレクションされる、権威の器ではない。祈りを込めて、思い出と確かな記憶と共に「亡くなった友」である。

弔い、友への祈り

「弔う」ということは、人間独自の特殊な行為である。人が、もう生きていない人間の体を保存したり丁寧に扱うのは、その人の生前の姿や行動を「思い起こす」ことで、生きた人間の物語を繋ぐためであろう。

スティール・ボール・ランでは、形骸化した「権威のアイテム」のコレクションになっていたこの「祈り」が、血の通ったものとして再生したことを、友の遺体との帰還は象徴している。

再生したのは、ジョニイの脚だけじゃなく、家族関係だけでもない。人間が紡いできた物語が再生した。死んだ歴史ではなくて、生きた祈りとして。つまり、この旅は、「祈りの再生」の旅だったのだ!

「無限の回転」は、自然にある黄金比によって習得される。有機的な、生きた祈りであってこそ、回転を続けることができるのだろう。

5.黄金の精神は循環する

最後にシリーズにおける7部の象徴的意味を考えよう。全体のコンセプトは「回転」。1部から続くジョジョシリーズでテーマだった「黄金の精神の継承」は世代を下るものだったが、そこに「循環」を加えたのが、この「スティール・ボール・ラン」だったと思う。

1–6部の世界が一周して、また1部と同時代の、しかし別の物語がはじまる。そしてこの循環を続けるジョジョの世界を繋ぐのは、血縁関係やスタンド能力といった外形的な継承ではなく、「黄金の精神」というヒューマニズムであることを、「祈りの再生の物語」を通して描いたと読めるだろう。

スティール・ボール・ランでは、カトリック美術の権威的、絶対的、独占的な表象を利用し、絶対的な正義と力を持って「世界の運命」を支配するイメージを描いた。一方で、「東にイエスが来た」というある意味トンデモだが、しかし確かに人間が伝えてきた思いに取材することで、逆説的に、作者独自の「黄金の精神」というヒューマニズムが、血の通った概念として描き出される。「キリストが日本からアメリカに渡った」という話があってこそ、祈りは世界を一周するのだ。

世界の運命を、「支配」するものではなく、人間が「廻して」いくものとして描いた再生の物語、スティール・ボール・ラン。

世界は循環する、命は循環する。人間が人間であること、信じること、思うこと。限りある人間が繋いでいくことで、「無限の回転」を続ける。

[1] 手の平か手首かは議論の分かれるところであるが、手と足の釘跡を見せたと聖書にはかかれている(ルカ24:39、ヨハネ20:27)

[3] イエス本人が弟子に約束し(ヨハネ14:1–3)、天の御使いも再臨を約束した(使徒言行録1:10–11)。

[4] 再臨の日、それまでの行いに応じて、報いをもたらすとした。使徒言行録1:10–11

[5] 岡本亮輔「フェイクが生み出す真正性――青森県新郷村「キリストの墓」の聖地観光」筑波大学 哲学・思想専攻『哲学・思想論集』第39号、2013年、60p

[6] 同論文によれば、『竹内文献』は、日本盟主論の枠組みにキリスト教圏をも組み入れたような世界観を提示し、「釈迦、孔子、申し、伏羲、モーセなど世界の聖人たちも日本で修業した」とされるらしい。

[7] 注4、同論文、61p

[8] 同論文、62p

[9] マヤ文明の石仮面(第1部)、切り裂きジャック(第1部)、ローマで新たに発見される地下遺跡(第2部)、スカイフィッシュ「ロッズ」(第6部)、悪魔の手の平(第7部)などなど…

[10] 第3部~第4部はS市杜王町という、仙台の故郷と思しき町が舞台になっている。さらにスティール・ボール・ランの次のシリーズ第9部「ジョジョリオン」(現在連載中)も、このS市を舞台に、スティール・ボール・ランに参加した日本人の末裔と、3.11の大震災以後、地形変動で隆起した「壁の目」から、物語が始まっている。

[11] 『学研ムー』Webサイトの2015年キリスト祭についての記事(http://gakkenmu.jp/column/1541/)でも、土産として売られる「キリストのハッカ飴」(ハッカ、アーメンをかけているらしい)について「バチ当たりなネーミング」、「ムー度満点である」!との記述。

[12] 注4同論文より伝承を要約すると、キリストは21歳のとき来日して神学修業に励み、33歳でイスラエルに戻り、日本で学んだ教えを説くが、十字架刑に処せられる。しかし、十字架で死んだ人物はキリストの弟であり、キリストは弟子と共に東へ落ち延び、八戸港から日本に上陸、「十来太郎天空」と改名し、ミユ子という女性と結婚して三女を育て、106歳で没したとされる。

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Nakamura, Yuko
NAKAMURA Yuko

東大法→京大院でアフリカ現代美術。京都出身。美術史、現代美術、ひょんなことから陶芸史も勉強中。A Japanese graduate student on African contemporary art and contemporary ceramics.