対立から境界へ

週休2日が本当に週休2日なのか、いささか疑問がある。

若い労働者は呟く。「土曜日を平日の疲れを消化することに使ってしまって、結局日曜日になるのだけど、日曜の夜には『あぁもう明日仕事だ』と思ってしまって、丸1日も休めない。」

働き方研究家 西村佳哲は、ポートランドの景観を参照しつつ、「公共私」という観点から現代の日本都市に問題提起を行った。その内容は「『共』空間の欠如」という指摘であった。(1)

「公的(パブリック)」な空間と「私的(プライベート)」な空間がはびこる中、「共的(コモン)」な空間があまりに少ない、そして、この都市のありようは現代のわたしたちの精神性に直接的に影響しているのではないか。こうした問題提起であった。

ここから若き労働者の生きづらさの発生因子が推察される。私的空間から公的空間に引っ張り出される仕組みはあれど、公的空間から私的空間へ滑らかにランディングしていく支援をする空間が現在の都市にはあまりにも少ないのではないか。

「最近カフェがなぜこんなにも増えたのか」「なぜ若者がカフェに行きたがるのか」

これらの事象は、現代の行き場ない若者の欲望(ある場所性の希求)が背景にあるように思えてくる。カフェはいわば、都市の現代人のヤドリギなのだろう。

建築家安藤忠雄によって設計された東京大学本郷キャンパスの「福武ホール」という建造物は、「縁側」がコンセプトとなっている。「縁側」という空間は「共」空間の一つの様態であるかと思われる。(2)

「いやいや少ないと言われるけれど、緑のある公園がある」という声もある。その通りである。日本には海外先進国に比べて少ないけれど「公園」はある。だが、日本の公園のほとんどは文字通りの意味で「『公』園」である。それは公の所有物として管理され、私的に遊ぶ(所有する)ことはほとんどできない。ここで必要なのは(造語するならば)「共園」であるかと思われる。

最近「サードプレイス」という書物が日本で邦訳されたが、この書物が邦訳され、イベント等でも盛んに使われたのには、主催者が自らの企みを肯定しようとした以上の理由があるように思える。家でも職場でもない場所、そうした場所を一般化しているこの言葉は、自らに「カフェ」「サロン」「ワークショップ」などのキーワードあるいは場所をひとまとめにし、ある場所性の必要性を告げている。(4)

「境界の発生」という書物で赤坂憲雄は、昔、町村というのは「線」によって区切られていなかったことをわれわれに伝達している。元を辿れば町村は、ある領域とある領域が線によって区切られて、その両側に位置するものではなく、いわば点として点在していたものであり、その間にはどの町村のものでもない「境界領域」が存在していたという。そして、その領域を琵琶法師が行き来したり、異なる町村民が偶然に交流する場であり、混沌ではあるが新しいものがやってくる、生まれ出る源泉の場所でもあった。(3)

また、最近「LGBT」というキーワードが盛んにメディアに流れるようになった。

レスビアン、ゲイ、バイ、トランスジェンダーという4つの英単語の頭文字によって構成されるこのキーワードは、ヘテロ(男性→女性 / 女性→男性)ではない性愛のありようを象徴している。このキーワードが盛んに流れているのは、いわゆるヘテロな性愛を当たり前とした男/女という線引きを融かし、そして、その線引きの狭間に存在する者への差別を無くし、どちらでもない存在者たちの場所を認めようとする意志の現れに思えてならない。

さて、これまでの編集作業からわかる通り、わたしたちは二つを線によって区分けすることによってその間にある(あったはず)の領界を見えないようにしてきたこと、そして、今、再びその領界を見出そうとしていることに気づくことができる。

わたしたちは歴史的かつ建築的に、この間にある領界について勘所を明らかに喪失してきた。と同時に、現在それを見出そうとしている。

では、この領界はなにと呼べばよいのだろうか。ここではこれを「境界」と呼んでみたいと思う。

わたしたちが「共生」を可能にするとき、必ずわたしたちはこの「境界」に潜り込み、この「境界」を源泉として意味や価値を見出す。

線が引かれているのではない、引いているのはわたしたちである。

しかしながら、線を引くことで物事を区別しやすくすること、物事の認識がしやすくなること、こうした認知行為がわたしたちの快適さや向上にとっていくらか寄与していることも確かである。

ただ、何か、解釈の次元を超えて、既知の理解を超えて、新しい認識や直観を得るには、こうした境界線を一つの裂け目として潜り込み、「境界」へ到達しなければならない。

現在、シェアオフィスの開発・運営会社で働いているのだが、この会社はこの事業を2003年から行っていた。つまり、コワーキングやノマド、フリーランスという会社で勤めるのではない働き方や概念がメディアで盛んに行き交う前からこのような事業を行なっていたのである。

しばしば、「個人でも組織でもない働き方ができる空間」と言われるこうした場所(シェアオフィス)だが、わたしが働いている会社の事業(場所づくり)は明らかにこうした社会的二項対立から出発して発生した場所ではない。

むしろ、起源を辿ること。仕事の起源を辿ること。例えば、「本当に創造的に働くにはどのような職場環境がいいのか?」と起源の問いに還ること。

起源の問いに潜り込み、新たな可能性を見出すこと、直観を待つこと、そして、その閃きを現実化してみようと世界に挑むこと。こうした一連の運動がなければ、2003年にこうした空間(シェアオフィス)が社会的二項対立(個人か組織か)より先に発生することはないだろう。既知の二項対立(個人か組織か)の水準に陥り、停滞することは頑として避けなければならない。

「個人か組織か」という誤った問いの解答の真偽を判別するのではなく、問いの提起の仕方そのものを検討し、自ら正しく問いを提起しなおさなければならない。「真の自由は、問いそのものを決定し、構成する能力の中にある」。(5)

現実的な「問い」は潜在的な「理念」であり、どちらも実在的である。

線という裂け目から潜り込み、線を引く以前に、問い=理念に還ること。

起源を辿り、世界に境が生まれる前の「境界」から再び世界を眺めること。

それは「発見」のセオリーではないか。

参照: (1)西村佳哲 ひとの居場所をつくる人フォーラム:https://www.youtube.com/watch?v=B1D... 
(2)情報学環・福武ホール:http://fukutake.iii.u-tokyo.ac.jp/ 
(3)赤坂憲雄「境界の発生」:https://www.amazon.co.jp/境界の�... 
(4)レイ・オルデンバーグ「サードプレイスーーコミュニティの核となる「とびきり居心地のより場所」:https://www.amazon.co.jp/サード�...
(5)ジル・ドゥルーズ「ベルクソンの哲学」https://www.amazon.co.jp/ベルク�...