“過ぎたる”か”及ばざる”か、そこに…

Twitterにおいて発生した発達障害者と健常者の話し合いにおける”配慮”と”ズルい”について

先日、とある発達障害者のツイートがバズり、それをきっかけにTwitter上で発達障害者と健常者の意見が頻繁に飛び交っていた。

これがそれらのツイートをまとめたものだ。このやりとりのなかで度々登場する”配慮”と”ズルい”について、発達障害者たちが「生きにくい」と声をあげるのは理解できる。だから「何かしらの”配慮”がほしい」と言うのもわかる。それに対して健常者たちが”ズルい”と感じてしまう気持ちも少しわかる。

「(発達障害の有無に関わらず)みんなにとって働きやすい生活しやすい環境」を望むことは発達障害者も健常者も同じだろうと思う。それにも関わらず健常者が躊躇っている原因は、それを実現し維持していくために提案された方法が”配慮”だからだと考える。

実現するために提案された方法が”配慮”だと納得できない健常者がいてもおかしくはないと思う。健常者でも普通に生活していれば少なからずストレスを感じている 。

発達障害者への配慮が健常者にも行き渡れば、みんなが楽な社会になると思ってます(@ice__snow,Twitterより)

すばらしい未来で私もこのような社会になることを望んでいる。しかし、これを目指すとなると、健常者は相手の障害の有無に関わらず接する人たち全員に”配慮”する必要が出てくる。いずれ「みんなが楽になる社会」になるだろうが、それよりも先に想像してしまうのは「超ストレス社会」だ。今、ただでさえストレスを感じて生活しているにも関わらず、さらに周りに”配慮”して生活することは、苦痛だから望まない、と考える健常者が多いように思う。

そして、その苦痛を埋め合わせるために健常者はギブアンドテイクを望むのではないだろうか。

発達障害者が求めている”配慮”とは、健常者が見返りなしに与えられるような簡単なものではないと思う。それくらい健常者も(もちろん発達障害者も)余裕がないと思う。

では、そのとき発達障害者はなにをギブできるのか。発達障害者は健常者にただ”及ばざる”存在なのか?それとも健常者が持ち得ない特別な能力を持つ”過ぎたる”存在なのか。そこに…。


“ズルい”と思っている健常者と”配慮”がほしいと言う発達障害者

“ズルい”と思っている健常者は「ギブしてもテイクされない」、つまり「キミたちはオレたち健常者になにもしてくれないでしょ。」と思っていないだろうか。それは発達障害者が健常者にただ”及ばざる”存在だと考えているからではないだろうか?

また、発達障害者は”配慮”が必要だと知ってもらうことに少しずつ成功してきているのではないかと思う。しかし、それでも”ズルい”と思っている健常者が一定数いることを考えると、ここから必要になるのは”ズルい”と思っている健常者を納得させられるような価値を示すことだと私は思う。これまで少しずつ積み重ねてきた準備と”過ぎたる”能力によって、これまで与えられるのを待っていた”配慮”を受け取りに行くことができるのではないかと思う。


今、発達障害者の周辺で社会が上手に機能していないことは事実であり、それに対して「発達障害者を排除すれば解決する」という行動をとり続ければ、いつか限界がやってくると思う。さらに、社会が求めるものの水準が上がれば健常者のなかにも生きづらいと感じる人がでてくると予想される。そうなる前に、不協和音に気づいた今のうちから、健常者は発達障害者に歩み寄り、発達障害者がその価値を発揮しやすい環境を整えてほしいと願う。