今日もマッチングアプリで、わたしの買い手を探す。
パパ活の良いところは、わたしが売り手側に回れるところだ。わたしの価値を、もっと価値がある資産に交換することができる。
わたしは資産が欲しい。
「若い女性としてのわたし」というふわふわした、特定の男の人しか興味を示さないような、価値が減っていくものではなく、もっと価値がある資産が欲しい。そう、もっと流動性の高い資産だ。世界中の人々が求めている資産が欲しいのだ。
だから、今日もわたしはマッチングアプリで、わたしの買い手を探し、お手当をビットコインなどの暗号資産にせっせと交換するのだ。これは、完全に正しい経済活動なのだ!
そう思って自分を納得させている。
ビットコインの仕組みを知っているだろうか?ビットコインは今日も真空から生み出されている。それを生み出すための資本さえあれば誰でも新しいコインを作れる。世界中のビットコインマイナーと呼ばれる資本家たちが専用のコンピュータを使ってビットコインを毎日「採掘」して生み出している。そんな大規模な採掘活動はわたしには出来ない。資本がないからだ。その人たちが今までに生み出したビットコインを買うしかない。
でも、パパ活であればわたしは売り手側に回れる。調達コストはゼロだ。
そんなことを考えながら、スマホの画面を気怠るく眺める。スタバの落ち着いた空間のわたしが座る一角だけが温度が下がったような気分になる。
マッチングアプリを開く、検索する、相手の素性を探る、 リスクを見定める。わたしという売り手と、どこかの男の人が、オーダーのマッチングを探り合う。
面倒だ。
マッチングアプリも、ビットコインのように板取引が出来たら良いのに。
大学の研究室に戻る。特に勤務時間のようなものは決まっていない。厳しい研究室になると、勤務時間のようなものが決めらていると聞いたこともある。わたしの研究室はもっと時間の自由が効く。それだけにチームの団結力に欠けるような気もするが、それが心地よかった。
コロナ禍でも、研究室には多くの人が集っている。学生は大学のお客さんなのだから、一番良いサービスを受ける権利があるというのがわたしの研究室のボスの方針だ。そのためには皆が集う必要があるのだという。外のお客を相手にする企業と、大学は違うのだという。少し面倒な気もしたが、悪い気はしなかった。
もし研究室に来なくても良いようであれば、暗号資産中毒になっていたかもしれない。それほどの魅力、いや、魔力がそこにはあった。ただ、あまり物事を深く考えられない頃に、うっかり暗号資産の話題を研究室の中で出したのはよくなかったかもしれない。
先輩と目が合う。
「おー、調子どう?ビットコインまた値上がりしてない?」
こうやって、格好の話の種を提供してしまうことになってしまっている。
「あー、そうみたいですね。儲かってますか?」
先輩は笑う。
「ちょっと値段上がりすぎだよね」
いつもこんな調子ではぐらかされる。先輩がビットコインを持っているのかどうか分からない。
「そっちはなんか調べてる?」
「いやー、忙しくてそれどころじゃないですよ〜」
あたしは笑顔で無難な返答をする。本当は毎日Twitterにかじりついて、必死に情報を追いかけている。
「botとか知ってる?」
突然の問いかけに、どきりとする。わたしの顔色は変わらなかったかなと思う。
「え、botってなんですか?なんかネットで色々迷惑なことするやつのことですよね?」
「いや、自動で暗号通貨の売買をしたりするプログラムのことなんだけどね。知らないならいいんだ」
わたしは、本当はこの話題に飛びつきたかったが、まったく興味がない素振りをつづける。
「へー、そんなものがあるんですね。もし何か分かったら教えてください!」
「あいよー」
会話を打ち切る合図に応じてくれてよかった。話を引き延ばすようなくだらない下心のない先輩なので助かる。わたしは、毎日の作業に戻る。
特に目立った成果は出なかったが、やるべきことは終え、研究室を出る。それなりに気分転換にはなった。心地よい風を受けながら、自転車を転がす。
先輩からbotの話題が出てきたのには驚いた。さらに深い話題を振られたり、botterと呼ばれる有名なSNSアカウントの名前をもし口にされたら、どうしようかと思った。先輩はbotをやっているのだろうか?
botというのは、”Robot”(ロボット)から作られた単語だと思う。正確な定義はないが、コンピュータを動かして何か外部の世界に働きかけるプログラムが総じてbotと呼ばれているようだ。先輩が言っていたのは、botの中でも、暗号資産を売り買いして利益を上げることを目指すトレーディングbotのことだろう。
わたしもbotを作っている。自らの資産を求める渇望と好奇心を埋めるように、botによるトレードを始めた。それは、夢のある心地よい世界だった。世界中のオタクたちが力を振り絞って、金色の果実を分け合う世界。しかし、わたしは全く稼げていない。稼ぐための道筋も見えない。一体稼げているbotterはどれくらいいるのだろうか?発想を変える必要があるのかもしれない。
どうやったらもっとbotで稼げるようになるだろうかとそればかりを考えて、帰り道を急いだ。
夕方になるとマッチングアプリのやりとりは盛んになる。中には、「大人6希望です」というメッセージがあった。
「大人」というのは買売春の提案のことだ。
わたしは大人をしたことはない。これまでのところ茶飯と呼ばれる飲食の時間のみを売っている。
少し心がグラつく。
6万円あれば、ビットコインであれば、0.01 BTC以上。イーサリアムであれば、0.15 ETH以上になる。少ないようだが、今少しでもコツコツ積み立てておかなければという焦燥感がある。
ひとまず、頭の中の先送り箱に入れておく。大人の関係に踏み込むのであれば、しっかりとしたリスク管理が必要だ。
わたしは考えるのをやめて、もう一度外へ出る。もう一度気分を変えたい。
売買春は基本的に合法であるし、時間効率や収益機会の広がりを考えれば、売れるものは売るべきなのかもしれない。経済的に考えれば、在庫があれば売るのが正しい。
売り物。売り物。売り物。売り物……
特に決まった行き先もないが、とりあえず地下鉄の構内へ入る。地下鉄に乗るのもいいだろう。もっと賑やかな場所へ出たかった。帰宅ラッシュに逆らうように都心を目指すことにする。駅のホームを行き交う人々はわたしとは違う真人間に思えた。わたしはホームの端に居場所を作った。
ツイッターを開く。ここのところわたしの追いかけている人たちは、NFTの話題でもちきりだ。どこかの誰かが、NFTを売って大金を稼いだとかいう景気の良い話が毎日のように出てくる。
はは、と乾いた笑いが口の端にかかる。そーんな売り物があれば苦労しないのよ。結局はNFTだって、売るためには高値で買わなくちゃいけないんだよ。この身ひとつでどうしろって言うのさ。
スマホを見るのをやめた。アナウンスと共に、電車がホームに滑り込む。湾曲したトンネルから現れる車両が好きだ。
その時わたしの胸はひとつのひらめきで高鳴った。
売り物がないなら作ればいいのだ。ビットコインはわたしには生み出せない。イーサリアムも生み出せない。
でもNFTはどうだろう?NFTは何もない真空から誰でも作れるはずだよね?
そうだ。きっとあるはずだ!わたしが作って売れるNFTが。
それから、わたしは狂ったようにNFTを調べ、探した。NFTの売り物を手に入れるのも容易ではない。
多くの人々を惹きつけるようなNFTは、チームがNFTプロジェクトとして運営している。しかし、わたしにはそれを今から一から作り上げる力はないと判断した。
またそのような魅力的なNFTプロジェクトを探して、値段が上がるNFTを安価な内にいち早く手に入れる時間もない。世界中の人が血眼になっていち早く投機のタネを手に入れるために情報収集しているのだ。勝てる気がしなかった。
なんとか既存の仕組みを利用して新しくNFTを発行する道を探ることにした。その選定にあたっては、いくつかの条件を設定した。
第一に、ある程度歴史があり箔がついているもの。
第二に、NFT取引サイトでそれなりに見栄えがするもの。
第三に、何らかの形で新しく発行できるもの。
この条件に当てはまるNFTがひとつだけ見つかった。ENSと呼ばれるシステムのNFTだ。
ENSは簡単に言えば名前の権利を管理するシステムだ。暗号通貨イーサリアムのブロッククチェーン上のアカウントに専用の名前を付けることができるシステムだ。付けられた名前には最後に「.eth」という文字が付く。
人の名前と違って、ENSで同じ名前を使えるのは一人だけと決まっているので、わかりやすい名前の権利には大きな価値がある。
調査の結果、この名前の所有権は、NFTとして発行され、流通できることがわかった。
つまり名前の権利を市場で売ることが出来るのだ!これまでに何百万円という値段で売れた名前も実際にあった。
NFT取引サイト上での見た目も悪くなかった。例えば、今までで割と高値で売買された名前の権利に「beer.eth」という名前があるが、NFTとして販売した場合にはこのような洒落た画像が掲示されることになる。
そして、ENSにおいては、自分で名前を考えて新しく作ることができる。そう、新しいNFTの完成だ。
とはいえ、価値が高そうな名前はすでに誰かが持っている。当然だ。ああ、ここでも資本、資本、資本の世界だ。一見旨味はなさそうに思えた。誰も買わない名前の権利を新しく発行しても意味がない。ジ・エンド。
ところが、念の為ドキュメントで仕様を調べている際に以下の興味深い記述が発見された。
ほとんどの人は読み飛ばすだろう些細な注意書きだが、要約すると次のようなことが書いてあった。
「大文字を含む名前は技術的には取得できるが、取得させてはいけない。」
奇妙な記述だ。そして、待てよ、とわたしの思考は踊った。
NFT取引サイトで大文字の入った名前を見かけたことがあった気がしたのだ。
NFT取引サイトのページを開く。ENSの名前の権利は、ENSドメインと呼ばれている。ENSドメインのNFTを絞り込んで表示する。
膨大な項目がリストされているが、わたしはその中にひとつ、大文字の含まれたENSドメインのNFTを確かに確認した。
NFTの画像にははっきりと最初の一文字が大文字として表示されていた。大文字の名前を含むENSドメインはNFTとして確かに売買できるのだ。
だが、その登録は推奨されていない。
わたしは、ここに歪みがあると確信した。
「先輩、イーサリアムのトランザクションの発行の仕方ってわかりますか?」
あくる日の研究室でわたしは思わずそんな問いかけをしていた。藁にもすいがりたい思いだった。
あれから、早速大文字が含まれたENSドメインを登録しようと試みたが公式ページから登録画面に辿り着くことすら出来なかった。取得させてはいけないと公式ページに書いてあるのだから当然ではあった。
これは…botの出番だな。とわたしは瞬時に理解したものの、そこには壁が立ちはだかっていた。「技術的には」可能だ。その技術とはイーサリアムのトランザクションと呼ばれる取引を自分で作り、ブロックチェーンに取り込んでもらうということであった。それが無知なわたしには難しかった。
「わかるよー」
先輩は笑顔で答えた。少し顔つきがいつもと違うような気がした。
「ちょっと詳しく教えてもらえますか?」
「イーサリアムだよね?」
「はい」
「ちょっとだけならわかるよ」
先輩はいつも手の内を隠している様子がある。本当はかなり詳しいのかもしれない。
「なにがしたいの?」
これに対する答えはもう考えてきた。
「MetaMaskを使わないで、プログラムからトランザクションを出すにはどうしたらいいのかなって」
先輩は少し考えるようなふりをしたが、予想通り、何がしたいのかわたしに細かくを詮索するようなことはしなかった。いくつかのライブラリの使い方やサンプルコードなどを丁寧に説明してくれた。先輩は少し嬉しそうだった。
「先輩…、もしかして暗号通貨かなり詳しいんじゃありませんか?」
「え、そんなことないよ?」
「絶対、儲かってますよね〜?」
「いや、持ってないよ。買っておけばよかったよね〜」
わたしは少し冗談めかして距離を詰めようとしたが、どうにも手応えがなかった。とはいえ、暗号資産を扱う者としては正しい態度だ。気に入った。わたしは、誰も信用しない人間を信頼する。いついかなる時も。
先輩に一言お礼を言って、話を切り上げた。
先輩のアドバイスは的を射たものだった。
とっかかりを理解すれば、やるべきことはごく簡単で、次のような簡潔なコードでENSドメインのNFTを取得するためのトランザクションの発行ができた。16行目が実際にトランザクションを発行している部分だ。わたしは、テストネットと呼ばれる本番にそっくりの環境で、テスト用のトランザクションの発行を繰り返し、botの動作を確認した。
大文字のENSドメインは取り放題だった。思いつく限り、高く売れそうな名前を取得した。DeFi.eth、NFT.ethといったマニアが飛びつきそうな名前だ。暗号資産をかじったことがあるなら、聞いたことがある言葉だと思う。
こうして、わたしは、いくつかのNFTの売り物を手に入れることに成功したのだ。