Border Break(ボーダーブレイク)が終わってしまった。2019年9月のことだ。2010年にリリースされた頃から、毎週のようにゲームセンターでプレイしていた。最終ランクはEX3。10年間ずっとプレイしていたことを考えれば、冴えない成績ではあろう。それでも、楽しくプレイができた。

生涯を振り返っても、10年間プレイし続けたゲームはほとんど見当たらない。オンラインRPGをやっている人ならばそれくらいの年月など軽いものであろうが、私はその手のゲームから早々に距離をおいてしまった。ハマりすぎるのが怖かったからだ。自宅で仕事ができる人間にとってパソコンゲームほど、やっかないなトラップはない。その点、アーケードゲームは安心である。ゲームセンターにいかない限りプレイはできない。徹夜でゲームなんて不可能なのだ。

結局、10年を続けているようなゲームは、──麻雀を除けば──ほとんど見当たらない。それくらい自分にとっては存在感の大きなゲームだった。それが失われてしまうことの悲しみは強い。

そもそも、ここまでの流れも長いものだった。

1998年に稼働が始まった電脳戦機バーチャロン オラトリオ・タングラム(以下オラタン)から始まるさまざまなバーチャロンシリーズ、ハーフライフ2サバイバー、そしてボーダーブレイク。最初はロボットVSロボットの対戦ゲームだったものが、徐々にカスタマイズ性が生まれ、格闘ゲームのように真正面からガチンコでぶつかるよりも、戦場を使って戦略的に戦うゲームへとシフトしていった。それはちょっと僕が大人になったことも関係しているかもしれない。

オラタンをプレイしていたのは高校生から大学生の頃である。その頃からずっとゲームセンターに通っていた。私にとっての遊び場であり、社交場でもあった。いつもの友人たちと、そしてゲームセンターでしか会わないプレイヤーたちとコミュニケーションが交わされた。自前の社交性に難がある私にしては珍しいことだ。共通の話題があるというのは、それくらい大切な要素なのだろう。

そうしたことも、もう終わってしまった。そう、今ではアーケードで遊ぶゲームがないのだ。そして、遊ぶゲームがないゲームセンターに足を運ぶ理由もない。

そもそも、単にボーダーブレイクをやりたいだけならば、PS4にゲームがある。オンラインで対戦できるので、形式的にはほとんど同じなのだ。でも、決定的な違いは見逃せない。それがゲームセンターにあるのかどうか、という点だ。

「ゲームセンターにゲームをプレイしに行く」

それが私にとって特別な行為だったと気がついたのは、当然のようにそれが失われてからのことだった。

最近アニメの第二期が始まった『ハイスコアガール』という作品がある。今30代後半から40代前半の人間(特に男性)ならぶっささるコンテンツだろう。もちろん私もぶっささった。

ストリートファイターⅡやバーチャファイターが稼働していた頃のゲームセンターは特別な場所だった。それは学校を代表とする「体制側」から忌み嫌われる場所であり、実際、社会の怪しい側面とも接続があった。そこはヤンキーたちの集い場であり、ゲーム好きたちが集まる場でもあった。

コインを入れ、まったく知らない人間に対戦を申し込む。ファミリーコンピュータで遊んでいた世代の人間からすれば驚くべき挑戦である。現在はむしろ、対戦と言えば見ず知らずの人間と、(ネット越しに)行うものという認識が一般化しているかもしれない。しかし、昔は違った。そこにはたしかにスリリングな緊張感があったのだ。

実際、自分が負けるとゲームの筐体をドンっと殴るような輩(やから)もいた。それが物理的距離1mくらいに存在しているのである。これはちょっと怖い。

逆に対戦後に話しかけられて仲良くなることもあった。別の中学の生徒だけではなく、今から考えれば大学生くらいだがそのときはもっとはるかに大人に見えた人たちもいた。そういうつながりで、ゲームの情報が交換されたりもした。

そう。昔はインターネットがなかったのである。ゲームの情報は、「現場」で集めるか、あるいは月一程度で発売されるアーケード攻略雑誌を読むしかなかった。情報源が少なかったので、貪るように雑誌を読んだように思う。隠しコマンドを見つけるために、延々と練習した覚えもある。はるか昔の記憶だ。

NEOGIO(ネオジオ)が発売されたときは狂喜乱舞したし、手持ちの資金(ようするにお年玉の蓄積である)をすべてつぎ込んで本体といくつかのカートリッジも買った。家でスティックを使いながら、餓狼伝説SPECIALがプレイできるのは格別な体験だった。

それでも、ゲーセン通いがなくなることはなかった。むしろ、より熱心に通うようになった。結局、人間とはそういう生き物なのだ。慣れれば好むし、好めば慣れる。その繰り返しだ。

それでも時計の針は止まらない。さまざまなものが変化してしまった。環境しかり、ゲームの流行しかり、僕や友人の生活しかり。ずっと同じではいられない。どれほど好ましかろうとも、同じ場所に居続けることはできない。少しずつ、少しずつ、かつての熱狂は失われていった。それはどうしようもないことなのかもしれない。

ボーダーブレイクというゲームは、ほとんど綻びつつあった僕とゲームセンターの関係をつなぎ止める最後一本の糸であった。それが切れたことで、僕の中から何かが失われてしまった。それはかつて大切だったものであり、時間が経った今ではそれが大切なのかどうかわからないくらいに馴染んでしまったものでもある。

今でもゲームセンターには楽しいゲームがいっぱいある。だが、ここから10年プレイし続けるようなゲームは存在しないし、これから出てくることも期待できない。マーケット自体が大きく動いてしまっている。それはもうひっくり返すことが不可能なくらいに定着した事実である。

とは言え、僕たちがゲームを失うことはない。ゲームは人類にとってかけがえのない存在である。

でも、ゲームセンターは違う。あるいはそこにある空気とそこで養われる(あえて言えば)文化は違う。それは一度失われてしまえば二度と取り戻せないものである。

もちろん別の場所で、別の芽が生まれていることだろう。でも、それに触れるには、僕はもう歳を取りすぎてしまった。コミットする対象が増えすぎてしまった。

だから今の僕はそれを懐かしむだけに留めている。それ以上のことを求めるのは、誰にとっても不幸な出来事にしかならない(資本主義は除いておこう)。なにせ、今の僕には、今の僕のやるべきことがあるのだから。

ゲームセンターは私にとってどのような場所であったか?

それは自分の家とはまた別の意味でのHomeであった。それは変えるべき場所であり、出ていくための場所でもある。


新海誠監督の最新作。私は 『君の名は。』 で新海作品デビューしたので、本作が二回目の新海体験となる。

タイムラインで噂を聞き込むに、「僕らの新海が帰ってきた」という評が多かった。何がその「新海らしさ」なのかは新海初心者の私にはつかめないが、『君の名は。』とは異なる作風なのだろうと心の受け身の準備をして映画館に向かった。

正直、物語のテンポとして序盤〜中盤はもたついていた印象はある。主人公のモノローグで話を進めすぎている感覚もあった。が、そういうモヤモヤも、後半からの怒濤の展開でひっくり返される。おいおい、それで話を進めちゃうの。それで大丈夫なの。という心配が駆け巡るが、「ということもあったけど、やっぱり世界は元通りに……」などという語りはいつまで経ってもやってこなかった。

そういう意味で、ごく平凡なカタルシスを期待していると肩すかしを食らうだろう。しかし、まさにその展開こそが私が本作を楽しんだ理由である。イマジネーションの力とはかくもすごいものかと圧倒された。ビジュアルの美しさや、音楽との融和など、本作を評価する点はさまざまあるだろうが、何にもまして、私はエンディングまでの道行きに心惹かれたのだ。

本作は、セカイ系と言えばセカイ系だろうし、その視点からの論評もあるだろうが、今この現代においてセカイ系というカテゴリがどれだけ力を持っているのかは私にはよくわからない。それに、本作のモチーフも全体的に「現代的」ではない。家出して東京、拳銃、キャッチャー・イン・ザ・ライ。登場するITテクノロジーを10年前に戻しても、ほとんど破綻なく本作は語れるだろう。

それでいてなお、本作が2019年に封切られる理由は何だろうか。人類は、その生誕から天気と付き合ってきた。気候が荒れすぎればそもそも生きていけないが、しかし、雨が降らないと食物は実らず、動物たちも飢え、人類も立ちゆかなくなる。しかしながら、天気というのは、人類の意のままにならないものの代表でもある。

そこで人類は、祈った。作品にも出てくるてるてる坊主などは身近なその例であろう。テクノロジーのように、自然を意のままに従わせるのではなく、こちらの意を天気に届ける、という形によって、天気と人類の調和を願ったのだ。

しかし、現代の人類は、あらゆる自然現象を意のままに従わせることに躍起になっている。その対象は、人類という形そのものにも向いている。その道行きの到着点は、一体どこなのだろうか。そして、そのとき人類は何を体験するだろうか。

もともと、自然現象は人類を活かすために調整されているわけではない。それらは好き勝手に降り、好き勝手に上がるものだ。その環境の中で、私たち人類が生きている。それだけの話なのだ。だから、もともと世界は狂っているのである。人類という視点から見れば。

その上で、私たちは何を選択するのだろうか。どのような世界をその手に掴み取るのだろうか。

とまあ、いろいろ書いているが、実際的に言えば、この作品は須賀さんの物語でもある。大人になってしまった、青年の物語。本作がセカイ系なのだとしても、それに十全に浸かり切らないのは、彼の存在があるように思う。

彼は、主人公たちの冒険を半分理解している。しかし、もう半分は理解せずに、彼らの選択の結果を「思い込み」だと一蹴する。それは、大人の無理解であると共に、優しさでもある。

たとえ、大人であっても、いや、大人であるがゆえに、自分がなぜ涙を流しているのか、わからないときがある。自分の行動を、自分で説明できないことがある。それが、人間というものである。

人間には、どこかしら無理解が付きまとっている。世界についても、他者についても、そして自分についても。あるいは、そのことを知っているのが、大人なのかもしれない。


予告編から想像していたが、やはり切なく悲しい物語だった。中盤ぐらいから、ずっと泣き通して見ていた。

主人公である梓川咲太は選ばなければいけない。何を選んでも、必ず後悔が待っている選択をしなければならない。物語は進み、彼は選択の結果に直面する。どうしようもない絶望が彼を襲う。そういう物語だ。

少しネタバレを覚悟で言うと、シュタゲ的な覚悟が必要な作品だ。あまりにも、あまりにも切ない。しかし、人はいくつかある未来の可能性から何か一つを選び取って進んでいかなければならない。自分の掌から溢れ落ちる多くのものを後にしながら。

それでも、私たちは何かを変えることができるのだろうか。あるいは、そう信じることができるのだろうか。確定された未来を覆し、自分ではない誰かが何かを救ってくれる世界を期待してもいいのだろうか。思いは時空を超えるのだろうか。

未来の自分が、過去の自分に影響を与えるとき、因果はねじ曲がる。メビウスの環のようにぐるっとねじれてしまう。思いが時空を超えるなら、そういうことも起こりえる。あるいは、初めからこの世界はそのように作られたのかもしれない。あるいは、蝶の見ている夢なのかもしれない。

だとすれば、寄る辺となるのは、一体なんなのだろうか。

「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」 | 青春ブタ野郎シリーズ


すさまじい。圧倒的な作品だ。

とは言え、 グレッグ・イーガン星新一 のようにある特徴に突き抜けているというよりは、非常に多面的・多層的な面白さを強く感じる。こればかりは読んでいただくしかないだろう。

大きなテーマは、異星人とのファーストコンタクトである。しかし、これも単純ではない。そのテーマの裏側に、地球文明が持つ限界への自覚が描かれている。この点で、 『ニック・ランドと新反動主義』 を彷彿とさせる。しかし、本作品はそうした自覚を描きながらも、そこにある問題点もあぶり出している。本作を読めば、そうか加速器って大切なんだな、ということをありありと考えるようになるだろう。非常に(科学)啓蒙的である。

作品としては、ある部分でハードなSF要素を持つのだが、しかし、グレッグ・イーガンのような美麗で精緻な世界を目標とはしていない。SF作品に用いるのはいささか奇妙ではあるが、そこにはほとんどコミカルとも言える「非現実的」な描写がある。そうした部分に関しては、星新一が描く世界のようにシニカルかつユーモアが満ち溢れている。不思議なバランスだ。

モチーフも多様である。最新のVRの話が出てくると思えば、そこに出てくるキャラクターたちは地球文明を形作ってきた思想家や科学者である。ここにも、啓蒙的な要素が感じられる。さらに、作品を序盤を飾るのは、中国の思想的な(ときに暴力を多分に含む)歩みである。そこに背を向けることを著者はしていない。

そして、これらの要素が、巧妙なストーリーテリングとテンポの良い文体で語られていく。時間が移り、世界が動き、表現が変転する。使えるものは何だって使う。そんな気概すら感じられる。巧妙なブリコラージュ。あるいは一周回って天衣無縫な感触すら受ける。この作品は、こう描かれるしかなかったのだ、という意味において。

その上で、一番重要なのは、そうした多様な要素を持つ作品が、きちんとエンターテイメントとして成立している点である。カメラに奇妙なカウントダウンが映り込んできた段階から、私はページを繰る手が止まらなかった。ひさびさに、空き時間があれば続きを読みたくなる作品であった。

三部作の第一部なので、本作でストーリーは完結していない。というよりも、「いよいよ盛り上がってまいりました」というところで終わってしまう。はやく次の巻が読みたくて仕方がない。


原題は『Les Identités meurtrières』。

人間が、ただ一つの帰属にのみ、自己(意識)の成立を頼るのならば、その帰属先を守るための争いは、自身の生命の維持と等しくなり、絶対的なテーゼへとなりはてる。

単に争うのではない。残虐な殺戮すらも肯定してしまう機関がそこでは生じてしまう。「私たち」と「彼ら」を区別、峻別、差別し、デジタルのスイッチのように「彼ら」を否定することで、「私たち」を肯定しにかかる。そのためならば、あらゆる行為が──おおむね正義の名の下で──正当化されてしまう。

人は複数の存在だ。複数の属性を持ち、複数の性質を持ち、複数の意識を持ち、複数の趣味を持ち、複数の(ときに相反する)価値観を持つ存在だ。それらの還元的な断片ではなく、その全体として人を捉え直すこと。個人のホーリズム。

その雑なるものを許容する眼差しは、自分だけではなく他者との関係性を結び直す役にも立つだろう。あるいは話は逆なのかもしれない。雑なる他者を受け入れるとき、はじめて私たちは雑なる自分を許容できるようになるかもしれない。純血ではありえない、自己。

文脈を剥ぎ取った「自分」と、文脈を剥ぎ取った「相手」が、「素直」に交流するのではなく、多様で複雑な属性を飲み込むいろとりどりの「自分」と「相手」が、そのときどきの文脈において交差する。そのように関係性を捉え直すこと。

帰属意識が厄災をもたらすからと言って、それを抹消しにかかるのではつまらない。あえて、それを飼い慣らすこと。アイデンティティを複雑なままにしておくこと。

この問題は、今後日本人が海外に出て行き、また海外から日本に移り住む人が増えれば増えるほど、(観点的ではなく)実際的な問題へと変質していくだろう。


奇想天外であり、幻想的であり、実に記号的な作品である。

カッパ。なぜカッパ?

私はそれを喝破することはできないが(失礼)、そんな細かいことを気にしても仕方がない。シュールさを飛び越えて、ほんとんど悪いジョークの世界に飛び込んでしまったのではないかと思わされる第一話であったが、全体を通してみれば、非常に真っ直ぐな作品だったと言えよう。

つながり。

言うまでもなく、本作を貫くテーマである。では、その「つながり」とは何だろうか。

作中に何度か次のようなセリフが出てくる。

「はじまらず、おわらず、つながれない者たちよ」

これを逆向きに捉えてみよう。つながれるものたちには、はじまりがあり、おわりがある。つまり、つながりは切断と背中合わせなのだ。なぜか。

それは、つながりは異なる二者間によって交わされる何かだからだ。私がいて、あなたがいる。だから、つながれる。

「欲望を手放すな」

このセリフも何度も登場する。さあ、どの角度でもいい。自分の手を伸ばしてみて欲しい。上でも下でも右でも左でも斜めでもいい。手を伸ばした方向は、確実に「あなた」からは遠ざかっているだろう。手を伸ばすという行為は、自己から他者に向けてベクトルを設定することなのだ。言い換えれば、私は私自身に手を伸ばすことはできない。

「つながる」という言葉は、他者を自分の中に取り込み、それを自己同一パラダイムの中で統治することではない。そのような歪んだ欲望のあり方は、エヴァンゲリオンが人類保管計画で示した通りだ。統一された自己の中にあっては、私たちは他者を持たない。手を伸ばすことができない。

カパゾンビ化してしまったものたちはどうだっただろうか。完全完璧な、決しておわることのないつながりを欲していたのではないだろうか。顕現しえない他者性の中で、ゆっくりと溺れ沈んでいったのではないだろうか。

ちぎれたミサンガが示すように、つながりとは「切れうる」ものだ。なぜなら、つながりは他者なる両者によって交わされるから。決して同一にはなれない、異なる欲望を持つもの同士の刹那的な交流。それが「つながり」である。「切れうる」からこそつながれるのだし、つながれたとしてもまた切れてしまう。でも、つながろうとする気持ちがあるかぎり、私たちはつながりを新しく紡いでいける。


きわめて熱い作品である。

今石洋之&中島かずきコンビの作品ということで、その熱さは予見されてはいたが、実際の熱量は予想をはるかに超えるものだった。なにせ2時間ほどの映画である。そこに本来なら1クール分くらい使うであろうエネルギーが注ぎ込まれている。熱くないわけがない。

もちろん、楽しみ方はいろいろあるだろう。サブキャラまわりの声優陣は、『キルラキル』を彷彿とさせるし、キャラクタ・イメージやロボットは、『グレンラガン』を彷彿とさせる。それだけで、なんとなく楽しい気持ちになってくる。

音楽は澤野弘之の世界観が全開になっていて、ターっと来て、そこから一気にダーっと広がっていくあの心地よさに溢れている。ビジュアルも派手でありながら、うるさいところがない。明らかに悪役っぽい堺雅人は、ほとんど狂人の域に達していて、感心を通り越して若干ビビってしまうくらいだ。あと、あやねるはかわいい。

演出も実に巧妙で、炎(炎上)ということがテーマであり、氷化が鎮圧の手段となっていて、血なまぐさいシーンがほとんどない。そこにポリゴン風味の描写が重なり、現実感が妙に遊離している。これは「リアリティーがない」という否定的な意味ではなく、何かのレイヤーが重ねられているような、そんな感覚になってくるのだ。

もちろん、この作品の熱さは、そんなレイヤーなどをぶち抜いて観客の心に突き刺さるだろう。そこが単純にすごい。

もう一つ巧妙だと感じるのは、「悪」なるものの扱いである。個人の心性に原因を求めるのではなく、まったく別のものにスライドさせて作品を終えている。そのような形を取らない限り、この作品の幕引きに了解は得られなかっただろう。個人の心性に原因を求める限り、調和というのはやってこないのである。

燃えるような情熱と、ネットで盛んに起こる炎上。そして、火消しの情熱。

この作品を見終えたあと、私たちが世間の炎上に感じるのは、「よく燃えているな」というのではなく、むしろ「不完全燃焼なんだな」という気持ちであろう。

そのような思いの転換が何をもたらすのかは、今のところわからない。

▼:「プロメア」オリジナルサウンドトラック


『オデュッセイア』が英雄オデュッセウスの苦難の旅であるように、本書も個人と責任を巡る一つの旅である。

無責任の体系、分人主義と間人主義、アレントのペルソナと演劇モデル、匿名の思想、レヴィナスの他者論、そしてロールズの正義論と無知のヴェール。

自由闊達に、個人と責任にまつわる論考が試される。あるいは、試されてきた歴史が検討される。

まず本書は、この点において面白く読める。専門家ではなく、なんとなくこうした分野に興味を持つ人に、一定のインデックスを差し出してくれる。これは有用であろう。

もちろん、それだけではない。タイトルが示すように、本書では「無責任の新体系」が模索されている。責任が過剰に追及されるこの社会における「無責任の新体系」。

ではその「無責任の新体系」とは何か、ということを考える前に、新がついていない「無責任の体系」について考えておく必要がある。

無責任はよくない。それは確かにそうだろう。しかし、「みんなが悪いんです」(皆に責任があるんです)という表現がされるとき、そこには結局誰も責任を負う主体が存在しない状況が生まれてしまっている。かといって、複雑に絡み合った状況で、「あいつが悪いんだ」と言ってしまえば、その他の人間が無罪放免となってしまう。無責任の領域に逃れることができてしまう。

どちらの道であっても、責任というものが、見えない無責任を生み出している。むしろ、誰かの無責任を担保するために、別の誰かの責任が求められている──かのようでもある。

一体どうすればいいのだろうか。

たしかに誰かが責任を取れば、不毛な「誰が悪いのか」ゲームを終わらせることはできる。それは個人の選択として立派なものであろう。しかしそのことは、ゲームを終わらせるために誰かに責任を取らせておけばいい、という発想も容易に促してしまう。これは大変に危険なことだ。

私たちは、どんな風に責任を負えばいいのだろうか。どのように、責任と無責任を切り分ければいいのだろうか。

本書は、さまざまな角度から、このことについて考えていく。その旅路自体がたいへん面白い。

しかし、本書が一番に面白いのは、そうした考察を経て、ロールズの正義論と無知のヴェールに至り、さらにそれをテキスト論へと接続させている点にある。私はこれを非常にアクロバティックだと感じた。そんな話が飛び出してくるなど、第七章まではまったく予想していなかった。まるで、『青い鳥』風の物語を読んでいたら、旅の果てに「一番大切なのは、一緒に旅していた妹だった」と兄が気がついた、という結末に遭遇したような感覚である。

もちろん、予想していないものが出てくる楽しさだけではない。第八章で語られるテクスト論自体が、非常に興味深い。

著者は楽しく読書することを肯定している。専門家のような、あるいは批評家のような、「かっこいい」読み方ではなく、ただただ内容を楽しむ読書を肯定している。多様な物語に接する中で、無知のヴェールへと接続すること。低俗性・大衆性に宿る無知の方から、正義に必要なヴェールへと近づいていくこと。

なるほど。なんともトリッキーなロジックではないか。しかし、一億人の国民を「啓蒙」するよりは、はるかに現実的ではないだろうか。

勧善懲悪の物語に感動するのは、たしかに単純だし、そこには愚かしかもあるかもしれない。しかし、正義を為す主体と罰される主体に、さまざまなものがはめ込まれたとしたら、どうか。ある作品では強盗は罰され、別の作品では強盗が悪徳な代官を懲らしめる。そのような物語を通り抜けた先に、私たちはどんな罰と救いを強盗に与えるだろうか。

メタ的に「強盗」という概念を整理する必要はない。いや、そうしてはいけない。そうした処理を経て、「すっきり」してしまった後には、結局どちら側かの正義しか残らない。そうではなく、どちらでもありうるんだ、という飲み下しにくい状況を引き受けること。ペルソナとしてルーチンに処理するのではなく、一回一回の事象と相対すること。

そのような心持ちになるためには、それこそ「徹底的に頭の悪い読者」として、あたかもそこに一人の人生があるかのように物語と接する必要があるだろう。それも、たくさんの物語と。

というわけで、なんとも不思議な誤読感のする本だ。自分が読んでいた本が、途中ですり替わってしまったかのようでもある。でも、手にしたかったのは、そういう本であったのかもしれない。


2010年に発売された本書であるが、めでたく2019年に電子書籍版が各種ストアから発売されることとなった。だいたい10年である。

これはつまり、ある種の「答え合わせ」ができるようになったことを意味する。つまり、ネットで成功しているのは、本当に〈やめない人たち〉であったのか、と。

圧倒的な二行

セクション5「アンケートからなにが読み取れるかⅡ─クロス分析」にこんな一文がある。

ところが、インタビューを終えてみると、このまったく正反対のことをやってきたと思える両者がほぼ同じことを口にする結果となりました。つまり「面白いと思えることをやっていて、気づいたらこうなっていた」ということです。

ここで言及されている両者とは、デイリーポータルZの林雄司さんとGoogleマップの開発チームである。この二つが横に並んでいる時点でこの本の「わけのわからなさ」(褒め言葉)が感じられるわけだが、その両者に共通点を見出し、その特徴を著者は二つ挙げている。

・プランを考える前に手を動かしてどんどん作ってしまう
・ネットの外にあるものをネットの中に持ち込む

この二行は、10年経った今から読み返してみると圧倒的である。当時はそんな風には思わなかった。赤線すら引いていない。でも、この二行は本当に大切なことだったのだ。どういうことだろうか。

いくつか関連する箇所を引いておく。

こういうやり方が、ネットのロジックとそもそも親和性が高いということが言えるでしょう。機会均等性があらゆる人に開かれており、なおかつすべては結果で判断されるのがネットという世界です。

このことからわかるように、ネットでは予定した結果に向けてプランを練って実現していくよりも、まずは行動してしまうことが、ある意味予定していなかった結果に結びつきやすいと言えるのです。

この本が出て数年後、ブログブームが訪れた。しかも、プロ寄りの(つまりプロブロガー寄りの)ブームである。そこで行われていたことは、突き詰めれば、

・手を動かす前にしっかり勉強してプランを考えましょう
・ネットの中にあるものをネットで循環させましょう

と言える。もう一度、最初の二行を引用しておこう。

・プランを考える前に手を動かしてどんどん作ってしまう
・ネットの外にあるものをネットの中に持ち込む

おどろくほど対比的ではないか。そして、「しっかり勉強してプランを作り、ネットの外にあるものを何一つネットの中に持ち込んでこなかった」ブログがどうなったかは、今さら説明するまでもない。

これが、私が考える答え合わせの結果である。

さいごに

おそらく、一番のポイントは、「ある意味予定していなかった結果」にあるだろう。

予定している結果を望むなら、「手を動かす前にしっかり勉強してプランを考えましょう」というのはある程度機能するように思う。それは試験試験に臨むのと同じだからだ。ただし、望んでいる規模が得られるとは限らない。15万円の月収を求めて、得られるのは5000円かそれ以下、というのはありえる。なにせ、そのルールでプレイしている競争相手は多いのだ(≒機会均等性が開かれている)。得られる結果は、そうした他のプレイヤーにダイレクトに影響を受ける。

しかし、「ある意味予定していなかった結果」は、そういうのとは全然別である。突然、別のゲームが始まるのだ。しかも、自分ができる(あるいは得意な)ことがルールに組み込まれているゲームだ。

もちろんそれは、たった一人で作り出せるものではない。他の人に「見出されて」生み出されるものである。でもって、そこでログが効いてくる。いったい全体ログなしで何がわかるというのか。何が伝えられるというのか。

ログは雄弁に、あなたが「誰」であるかを語る。それはプロフィールなんかよりもはるかに「誰」に迫るものだ(アレントが使う「誰」を思い浮かべてくれればいい)。それがあるとないのとでは、まったく違ってくる。

ただしこれは、歯を食いしばってログとなりうるような活動を意地でも続けなさい、という話ではない。それでは本書のタイトルが〈やめない人たち〉になっているニュアンスがすべて損なわれてしまう。そうではなく、著者がシンプルに言うように「面白いことじゃないと続かない」のだ。つまり、面白いと思えることをやればいい。で、その結果をネットに流すように意識する。それがログとなっていく。そういう流れである。

〈やめない人たち〉は、面白いことに夢中になっている人たちである。あるいはついついそれをやったり、思わずむきになって取り組んでしまう人たちである。保証された結果に向かって努力する〈続ける人たち〉ではなく、己の関心と、その結果を他者にGiveすることを厭わない人たちである。

もう一度言うが、本書のタイトルを「成功したければ、続けなさい」と読んでしまえば、それは誤読である。そんな仮言命法で切り取れるほど、ネットの世界は単純ではない。あるいは、ネット以外の世界もそうなのかもしれないが。


本書のタイトルは「ハロー・ワールド」以外にはありえないだろう。どれだけググラビリティ(ググッたときに見つけやすい度合い)が低かろうが、本作は「ハロー・ワールド」だろうし、「ハロー・ワールド」であって欲しい。

そう思えるくらいに、新しい世界とその可能性を祝福する作品である。

三つの新しい世界

「Hello World」は、プログラミングの入門者が最初に表示させるテキストとしてそのミームを確立させている。その言葉は、繰り返されるある種の「おまじない」であり、自身に強い意味があるわけではい。だからこそ、象徴的な言葉になりうる力を持っているとは言えるだろう。

いくつかのコマンドを打ち込んだ後で、プログラムを実行する。そして表示される「Hello World」の文字。そのとき彼/彼女は、新しい扉を開く。とてつもないワクワク感を持って。

つまり、このおまじないは、未知の世界を歓迎する言葉なのである。

一つめの象徴はまさにそれだ。プログラミングを覚えることは、新しい世界への扉を開くに等しい。それは、何かを作ることが新しい世界の創造と等価であることも意味するし、また、何かを作れる能力が自分を新しい世界へと連れて行ってくれていることも同時に意味する。

それだけではない。本書が描くもう一つの「新しい世界」は、現在「シンギュラリティ」などと呼ばれている特異点後の世界である。技術が──もう少し言えば、さまざまな技術の創発が──、人間ならざる知性を切り開く。私たちはその世界を、戸惑いながらも、きっと歓待するだろう。ようこそ、新しい世界。

もう一つ、ぜひとも書き残しておきたいのが、本書が提示する新しいヒーロー像、というかアンチ・ヒーロー像である。しぶとく、かつしたたかに生き延びること。ビジョンを持ちながらも、そこにたやすく命をベットしないこと。共同体という大きな物語に飲み込まれることなく、しかし、リトル・ピープルの躍進を是としないこと。

このような生き方──というよりもいっそ在り方と表現すべきだろう──は、間違いなく、これまでの日本人が抱く価値観からすれば異質であろう。「命がけ」という自己犠牲は、あまりにも甘美であり、人の心を打つ。それは私たちが社会的動物だからだろうが、問題は、それが一瞬にして思考停止をもたらしてしまう点にある。

使命をあまりに高く掲げてしまうと、その他のものが相対的に無価値になっていく。その無残な結果が「犠牲」や「大義のため」という言葉で均らされていく。個々人の生が、機構を維持する物語に回収されていく。そこにある美しさ/おぞましさは、近代的な価値観であり、現代的な価値観ではない。

現代を生きる私たちが胸に抱きたいのは、イデアで満ちた非現実的なヒーロー像ではない。かといって、異能/異世界への逃避でもない。スキルを身につけ、チームを作り、現実の問題を解決する人間だ。そうした人間の在り方を肯定することは、間違いなく新しい世界を言祝ぐことと呼応している。

藤井氏の作品は、全体的に大人っぽいというかダンディーな雰囲気が漂うのだが、それでいてどこか子どもの頃に感じたわくわく感を呼び起こしてくれもする。

きっとそれは、我々が未来に希望を抱くときに感じる気持ちなのであろう。

倉下 忠憲

物書きです。R-styleというブログを運営しています。ビジネス、経済、政治、投資、為替、麻雀、アニメ、ゲーム、ガンダム、iPhone、ライフハックなどに反応しやすい性質をもっています。

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