倉下 忠憲

新海誠監督の最新作。私は 『君の名は。』 で新海作品デビューしたので、本作が二回目の新海体験となる。 タイムラインで噂を聞き込むに、「僕らの新海が帰ってきた」という評が多かった。何がその「新海らしさ」なのかは新海初心者の私にはつかめないが、『君の名は。』とは異なる作風なのだろうと心の受け身の準備をして映画館に向かった。 正直、物語のテンポとして序盤〜中盤はもたついていた印象はある。主人公のモノローグで話を進めすぎている感覚もあった。が、そういうモヤモヤも、後半からの怒濤の展開でひっくり返される。おいおい、それで話を進めちゃうの。それで大丈夫なの。という心配が駆け巡るが、「ということもあったけど、やっぱり世界は元通りに……」などという語りはいつまで経ってもやってこなかった。 そういう意味で、ごく平凡なカタルシスを期待していると肩すかしを食らうだろう。しかし、まさにその展開こそが私が本作を楽しんだ理由である。イマジネーションの力とはかくもすごいものかと圧倒された。ビジュアルの美しさや、音楽との融和など、本作を評価する点はさまざまあるだろうが、何にもまして、私はエンディングまでの道行きに心惹かれたのだ。

映画『天気の子』
映画『天気の子』

予告編から想像していたが、やはり切なく悲しい物語だった。中盤ぐらいから、ずっと泣き通して見ていた。 主人公である梓川咲太は選ばなければいけない。何を選んでも、必ず後悔が待っている選択をしなければならない。物語は進み、彼は選択の結果に直面する。どうしようもない絶望が彼を襲う。そういう物語だ。 少しネタバレを覚悟で言うと、シュタゲ的な覚悟が必要な作品だ。あまりにも、あまりにも切ない。しかし、人はいくつかある未来の可能性から何か一つを選び取って進んでいかなければならない。自分の掌から溢れ落ちる多くのものを後にしながら。 それでも、私たちは何かを変えることができるのだろうか。あるいは、そう信じることができるのだろうか。確定された未来を覆し、自分ではない誰かが何かを救ってくれる世界を期待してもいいのだろうか。思いは時空を超えるのだろうか。 未来の自分が、過去の自分に影響を与えるとき、因果はねじ曲がる。メビウスの環のようにぐるっとねじれてしまう。思いが時空を超えるなら、そういうことも起こりえる。あるいは、初めからこの世界はそのように作られたのかもしれない。あるいは、蝶の見ている夢なのかもしれない。

映画『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』
映画『青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない』

奇想天外であり、幻想的であり、実に記号的な作品である。 カッパ。なぜカッパ? 私はそれを喝破することはできないが(失礼)、そんな細かいことを気にしても仕方がない。シュールさを飛び越えて、ほんとんど悪いジョークの世界に飛び込んでしまったのではないかと思わされる第一話であったが、全体を通してみれば、非常に真っ直ぐな作品だったと言えよう。 つながり。 言うまでもなく、本作を貫くテーマである。では、その「つながり」とは何だろうか。 作中に何度か次のようなセリフが出てくる。 「はじまらず、おわらず、つながれない者たちよ」 これを逆向きに捉えてみよう。つながれるものたちには、はじまりがあり、おわりがある。つまり、つながりは切断と背中合わせなのだ。なぜか。 それは、つながりは異なる二者間によって交わされる何かだからだ。私がいて、あなたがいる。だから、つながれる。 「欲望を手放すな」 このセリフも何度も登場する。さあ、どの角度でもいい。自分の手を伸ばしてみて欲しい。上でも下でも右でも左でも斜めでもいい。手を伸ばした方向は、確実に「あなた」からは遠ざかっているだろう。手を伸ばすという行為は、自己から他者に向けてベクトルを設定することなのだ。言い換えれば、私は私自身に手を伸ばすことはできない。

アニメ『さらざんまい』
アニメ『さらざんまい』

きわめて熱い作品である。 今石洋之&中島かずきコンビの作品ということで、その熱さは予見されてはいたが、実際の熱量は予想をはるかに超えるものだった。なにせ2時間ほどの映画である。そこに本来なら1クール分くらい使うであろうエネルギーが注ぎ込まれている。熱くないわけがない。 もちろん、楽しみ方はいろいろあるだろう。サブキャラまわりの声優陣は、『キルラキル』を彷彿とさせるし、キャラクタ・イメージやロボットは、『グレンラガン』を彷彿とさせる。それだけで、なんとなく楽しい気持ちになってくる。 音楽は澤野弘之の世界観が全開になっていて、ターっと来て、そこから一気にダーっと広がっていくあの心地よさに溢れている。ビジュアルも派手でありながら、うるさいところがない。明らかに悪役っぽい堺雅人は、ほとんど狂人の域に達していて、感心を通り越して若干ビビってしまうくらいだ。あと、あやねるはかわいい。 演出も実に巧妙で、炎(炎上)ということがテーマであり、氷化が鎮圧の手段となっていて、血なまぐさいシーンがほとんどない。そこにポリゴン風味の描写が重なり、現実感が妙に遊離している。これは「リアリティーがない」という否定的な意味ではなく、何かのレイヤーが重ねられているような、そんな感覚になってくるのだ。

映画『プロメア』
映画『プロメア』

『オデュッセイア』が英雄オデュッセウスの苦難の旅であるように、本書も個人と責任を巡る一つの旅である。 無責任の体系、分人主義と間人主義、アレントのペルソナと演劇モデル、匿名の思想、レヴィナスの他者論、そしてロールズの正義論と無知のヴェール。 自由闊達に、個人と責任にまつわる論考が試される。あるいは、試されてきた歴史が検討される。 まず本書は、この点において面白く読める。専門家ではなく、なんとなくこうした分野に興味を持つ人に、一定のインデックスを差し出してくれる。これは有用であろう。 もちろん、それだけではない。タイトルが示すように、本書では「無責任の新体系」が模索されている。責任が過剰に追及されるこの社会における「無責任の新体系」。 ではその「無責任の新体系」とは何か、ということを考える前に、新がついていない「無責任の体系」について考えておく必要がある。 無責任はよくない。それは確かにそうだろう。しかし、「みんなが悪いんです」(皆に責任があるんです)という表現がされるとき、そこには結局誰も責任を負う主体が存在しない状況が生まれてしまっている。かといって、複雑に絡み合った状況で、「あいつが悪いんだ」と言ってしまえば、その他の人間が無罪放免となってしまう。無責任の領域に逃れることができてしまう。

『無責任の新体系』(荒木優太)
『無責任の新体系』(荒木優太)

本書のタイトルは「ハロー・ワールド」以外にはありえないだろう。どれだけググラビリティ(ググッたときに見つけやすい度合い)が低かろうが、本作は「ハロー・ワールド」だろうし、「ハロー・ワールド」であって欲しい。 そう思えるくらいに、新しい世界とその可能性を祝福する作品である。 三つの新しい世界 「Hello World」は、プログラミングの入門者が最初に表示させるテキストとしてそのミームを確立させている。その言葉は、繰り返されるある種の「おまじない」であり、自身に強い意味があるわけではい。だからこそ、象徴的な言葉になりうる力を持っているとは言えるだろう。 いくつかのコマンドを打ち込んだ後で、プログラムを実行する。そして表示される「Hello World」の文字。そのとき彼/彼女は、新しい扉を開く。とてつもないワクワク感を持って。 つまり、このおまじないは、未知の世界を歓迎する言葉なのである。 一つめの象徴はまさにそれだ。プログラミングを覚えることは、新しい世界への扉を開くに等しい。それは、何かを作ることが新しい世界の創造と等価であることも意味するし、また、何かを作れる能力が自分を新しい世界へと連れて行ってくれていることも同時に意味する。

倉下 忠憲

倉下 忠憲

物書きです。R-styleというブログを運営しています。ビジネス、経済、政治、投資、為替、麻雀、アニメ、ゲーム、ガンダム、iPhone、ライフハックなどに反応しやすい性質をもっています。