カップヌードルのCM

倉下 忠憲
2 min readApr 9, 2016

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カップヌードルのCMが話題となっていた。で、その後中止になったらしい。「話題」の人が出演しているということで、まあ、ありそうな事態だと思えた。

カップヌードルCM中止 矢口真里さん・新垣隆さん出演「不快な表現」と謝罪(ハフィントンポスト)

当初、私のタイムラインでは「よくやった」とか「面白い」という声が上がっていた。チャレンジングなものを評価するネット的な評価軸だ。

で、上記のようにCMが中止となるとどうなったか。「がっかりだよ」とか何かそういう声が大きくなった。ほんとうにごく一部「日清、がんばった」との声も聞こえたが、それは小さいものだった。

短絡的に言うのもなんだが、たしかにこれでは新しいことにチャレンジしにくいだろうな、という感覚が湧き上がった。

新しいことにチャレンジしたら批判される。でもって、その失敗を認めて取り下げても批判される。だったら、もう、はじめから何もしない方がマシであろう。

上場企業として、消費者から一定の声が上がればCMを自粛するのは当然の判断だろう。それを押しはねるのは、芸術家のすることであって、企業の広報がやることではない。でもって、こういう批判がくることも当然織り込んでいただろう。でも、CMを流す、という判断をしたわけだ。で、そこには風刺的な意味合いがあったに違いない。

新しいことに批判が来るのは、どのような環境だってそうだろう。でも、何かをして失敗したときに、「今回は残念だったけど、次はがんばってね」というエールが届くかどうかは違いがあるかもしれない。そして、後者があればチャレンジャーはチャレンジし続けられる。

が、今の日本では「失敗者」は、もはや烙印なのである。そこにはいかなる擁護も必要とされないし、むしろ拒絶される。そして烙印は、いくらでも攻撃をしかけても良いという免罪符としても働く__ということに対する風刺が今回のCMだったように感じたが、まさしくそのCMこそが、その状況にはまり込んでいるのは滑稽を通り越して、いっそ喜劇的ですらある。

誰かの失態を批判するだけで、リカバーへの期待をかけない。そんな環境で、新しいチャレンジが次々生まれるとしたら驚きである。

考えすぎであろうか。まあ、そうかもしれない。

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倉下 忠憲

物書きです。R-styleというブログを運営しています。ビジネス、経済、政治、投資、為替、麻雀、アニメ、ゲーム、ガンダム、iPhone、ライフハックなどに反応しやすい性質をもっています。