【書評】謎床: 思考が発酵する編集術(松岡正剛 ×ドミニク・チェン)

松岡正剛とドミニク・チェンによる対談集。

刺激的、という言葉では力不足だろう。知のリゾームが大きく展開され、読者は感嘆と共にそこを遊歩することになる。テイストの異なる知の切り込みが、バシバシと交じり合う現場は、端で眺めているだけでも思考が触発されるものだ。疑問が、つまり考えることがどんどんと増えていく。そういう本である。

概要

目次は以下の通り。

第1章 僕たちは「胡蝶の夢」を見られるか?
第2章 シンギュラリティを迎える前にやっておくべき、いくつかのこと
第3章 発酵と腐敗のあいだで―フラジャイルな創造はどのように生まれるのか

大きく三章の構造になっているのだが、それぞれの章で固有の対象が語られているわけではなく、まさにリゾームのように内容が多様に接続しているので、ここでは全体的な視点を取ることにしよう。

中心となるテーマは、「現代の情報技術と私たち人間の関係」だ。コンピュータ、そしてインターネットというものは何をもたらし、何を欠損させ、これから何が充填されるべきなのか。そこに「日本の方法」的な視点が随時織り込まれていく。

まずは、ドミニクの指摘から見てみよう。

(前略)もっと根源的な、ある人にとっての情報の価値はその情報との出会い方にも拠るという経路依存の問題です。
 それより問題は、そうやってアクセスした情報、つまり、ほとんど何ら身体的負荷、精神的負荷をかけずにスルスル入手した情報というものを、人は非常に粗雑に扱ってしまう、ということなのです。

二つの指摘がある。前者はたとえば、ある本とどこでどのように出会ったかによって、その本そのものやそこに書かれている情報の価値が変わってしまう、というようなことだ。情報は、それ単独でインストールされるわけでなく、取り込まれるときの環境やコンテキストが必ず付随してくる。よって、いかに情報環境を設計するのかについては、情報そのものの内容に加えて重要である。

後者は、かなりやっかいであり、しかも現代的な問題にダイレクトにリンクしている。もう一つ、ドミニクの発言を引用しておこう。

(前略)あらゆる情報にアクセスできてしまうがゆえに、すべてが悪い意味で身体知にならないということがおきてしまうんですね。

うろ覚えだが、村上龍が「映画には映像喚起力がない」という旨のことを言った。映画は映像を示すのだからコンテンツの受け手に映像を喚起(イマジネート)させる力はない。しかし、小説は映像が欠損しているが故に、コンテンツの受け手の脳内に映像を喚起させる力を持ちうる。そして、その行為が、情報を受け手の内部へと染みこまさせる。

映像の喚起とは、──あえて主体的な言い方をすれば──自らで映像を、そして世界を立ち上げる、ということだ。そこでは脳の情報想像(創造)回路が発動している。そして、これは私なりの仮説だが、パソコンでファイルを読み込むときにそのファイルを「オープン」するように、脳においても、情報想像回路が働くときに記憶領域の一部が開き、そこに書き込めるようになっているのではないだろうか。

パソコンでは読み込み時にリードオンリーなのかライト可能なのかを選択できるのだが、脳ではそうした切り分けは行われていないのではないか。だから、記憶を使って何かをイマジネートするとき、記憶そのものが置き換わってしまう。そういうことが起こりえるのかもしれない。

だとすれば、何一つ身体的負荷や精神的負荷を必要としない情報摂取行為、言い換えれば、頭を使わなくてよい情報摂取行為は、表面的に情報をなぞるだけになる。メモリに読み込まれただけで終わってしまう。

ところが、現代の情報技術は次々とその負荷を、軽減ないしは駆逐しようとしている。なんなら何一つ脳には記憶なんて書き込まれなくてもいいじゃないですか、情報はすべてここにありますよ、という大手検索サイトの宣言が聞こえるかのようである。人間の人生というものが、経験される時間とその記憶から構成されることを考えると、容易には頷けない提案だが、奇妙な魅力を持っていることもたしかだ。なんなら人生だって「インストール」してしまえばよいのではないか、という囁きすら聞こえてくる。

映画『マトリックス』のように技術を一瞬で「インストール」できるなら、人生だって可能ではないか。『トータルリコール』的ではあるが、おそらく行き着く先は、『ソードアート・オンライン』のアリシゼーション・ワールドとなるだろう。

そのインストールされた世界でも、結局私たちはどこかで身体的負荷や精神的負荷を伴う何かを求めるようになる。私たちが休暇時間に「ゲーム」というわざわざ面倒な手間を抱え込むことを想起するといい。私たちは「インストール」された人生の中でも、やはり負荷による記憶の変質というものを必要とするだろう。だからそれは『インセプション』のような入れ子状の構造に過ぎないのだ。結局人は、どこかで「生きる」ことになる。だったら、今生きているここで記憶を求めてもよいだろう。

話が飛んでしまった。情報摂取行為に戻ろう。上記はコンピュータというテクノロジーの話だったが、当然そこにはメディアの話も関係してくる。松岡は以下のように述べる。

「わかった」といっても、そこには了解可能性の幅があるので、絶対にピンポイントではないんです。何か液滴の滴のように、じんわり広がっていくことでしか「わかる」ということはありえないはずですよ。にもかかわらず「わかった」と思うときは、たいていそれがピンポイントになっているので、ヤバい。

現代のメディアでは、「わかる」ことが尊重される。わかりやすく書くということだけではなく、「一瞬でわかる」ことが求められる。言い換えれば、「わかった気持ちにさせる」情報の形態が重視される。

先ほどのドミニクの話と絡めれば「すぐに簡単に入手でき、しかも即座にわかる」というなんの負荷もない状況がそこに発生するわけだ。技術とメディアが、非常に調和してダンスを踊っている。そこでは、私たちは情報に踊らされている。皮肉なものである。

しかも、それだけではない。次の松岡の指摘も絡んでくる。

(前略)そうなると、カテゴリーの成立そのものが専有的に他を排除することによってしか成立しないということになります。(中略)というのも、コンピュータによってなのか消費社会によってなのか、おそらくはその両方でしょうけれども、私たちが好むと好まざるとにかかわらず現在大量にインストールされている知識の中には、かなり片寄りがあるんです。(中略)情報プロパーとして、パラドキシカルなものとか、多矛盾性や二律背反するもの、「それではないもの」というような「余分」が入っていないんですね。それが私たちのインストールを固定化している理由です。「何かでありながら、そうではない」という状態が徹底的に嫌われている。

コンピュータは、「何かでありながら、そうではない」ものを扱うのがあまり得意ではない。不可能ではないにせよ、あるものの状態は0か1で表現した方がスムーズに行く。同様に「はざま」のものの扱いは、ファイル管理システムが持つ大きな弱点の一つである。

また、物を売るときにはカテゴリーを定めなければいけない。書店では本はどこかのカテゴリに配置される。KDPで本を売るときも、ジャンルを選ばなければならない(これが結構しんどい)。マーケティングだって、ポジショニングは重要な要素である。なるべく簡素に、伝わりやすく(≒わかりやすく)、他と直接競合しない(≒排他的である)ポジショニングが求められる。

コンピュータにせよ、消費社会にせよ、すっきりと収まるものが望ましいし、そのためには「何かでありながら、そうではない」を排斥した、わかりやすいカテゴリが求められる。

しかし、である。

アイデアとは「既存の要素の新しい組み合わせ」ではなかっただろうか。ある領域にある知を引っぺがし、別の領域へとぺたりと貼り付ける。そこで起こる反応作用がアイデアを生み出すのではなかっただろうか。

既存の知のパラダイムが持つ専有性を攻撃し、新しい組み合わせを見つけること。それをintellectualな脳の働きだとするならば、固定的なカテゴリしか扱えないものにはどうしても限界が宿る。だからこそ付箋という半粘着なものが考具になりえるのだし、松岡氏が言うフラジャイルなものに発展的可能性が宿るということでもある。

むしろそれは、タレブが言う反脆弱性のようなものであろう。変化を利得とする性質。仮留めにしか使えない弱さを、新しい機能として提出できる力。単に弱いだけではだめなのだ。変化を力にできる性質。ストレスやノイズを、うまく利用して突然変移できる力。そうしたものがどこかしらでは必要となってくる。

この点が現代のコンピューティングでは少々弱い。もう一つ、松岡氏が指摘しているのは、問い立ての弱さだ。

知能はQ&Aを次々に成立させる能力のことで、わかりやすくいえば「答えがある問題」に強い。知性は「答えがない問題」に向かっていくものです。(中略)たとえば、平和というワードを入れると、「川が濁っていますか?」というQが出てくる。すると川が濁っているか濁っていないかが平和に結びつくのかとこちら側でプロセッシングできるのですが、そういういインテレクチュアルな誘導がない。

少し前「進捗くん」という自作アプリを紹介したが、問いが投げられることによってこちらの思考が促進されることはたしかにある。もっとインテレクチュアルに寄せたもので言えば、奥出直人が『思考のエンジン』で紹介している「ソウトライン」(Thought line)というアプリケーションがそうだろう。

文章のテーマとなる一文を書くと、それに対してコンピュータが疑問を投げかけてくる。その答えを打ち込むと、さらに問いが返ってくる。その連鎖反応によって論理的構造を持つ文章を作り上げていく、というのが「ソウトライン」なわけだが、これは知の助産術の一形態であり、人間の創造性とコンピュータの見事な協力体制であるように思う。

現代であれば文章の形態素解析や構造解析の技術は進んでいるだろうし、AIとビッグデータの組み合わせて、有用な問いを返せる可能性も高まっているかもしれない。しかし、「ソウトライン」(Thought line)が、あまり普及しなかった──少なくとも事務系アプリケーションと同じようには普及しなかった──という点には注意する必要があるだろう。

片方でテクノロジーは、我々の負荷を押し下げようと邁進している。拙著のどこかにも書いたが、テクノロジーは常に便利さを志向するのだ。不便なテクノロジーは基本的には評価されない。私たちの生活は日に日に便利になっていくし、また情報摂取の負荷も押し下げられていく。

ここで思い出したいのは、宇宙飛行士である。重力のない空間で生活する彼らは、筋肉が酷く弱ってしまう。人間(及び他の生命体は)環境適応的なのだ。

だとすれば、私たちの認知的(情報的)負荷に対する耐性はどうなっているだろうか。負荷がギリギリまで薄められた世界で生活する私たちは、負荷がないものと負荷があるもの、言い換えれば、頭を使わずに「答え」が得られるものと、そうではないもの。どちらをより好むだろうか。「ソウトライン」的なツールが躍進しなかった理由は、この辺りに潜んでいるのかもしれない。

では、どうすればいいだろうか。たとえば「ナッジ」的な考え方で、問いの発生源的なものを埋め込んでいくやり方があるだろう(※)。意識的に選択しなくても、少々の問いに触れてしまう。人はそれを無視することもできるし、頭を働かせることに意欲を持つこともできる。
 ※余計なお節介に思われるかもしれないが、「ナッジ」の背景にあるリバタリアン・パターナリズムは弱めの余計なお節介を許容する考え方である。

おそらくその時代その時代でエンターテイメントとして消費されてきた文学作品には、そのような機能が内在していたのかもしれない。それをコンピューティングにおいて、今とは違うやり方で実装してみる、というのは(多少途方もないとは言え)面白い想像である。

おわりに

もう一つ、本書の後半では、情報の腐敗と発酵についての話が展開されていて、これも非常に面白い。この話はタイトルとも関係しているし、EvernoteとかWorkFlowyとかに情報を「貯める」話とも関わってくるしのだが、それについては本書を直接当たってもらった方がよいだろう。最後に出てくる「これからのメディアの可能性」もたいへん示唆的だ。

ともかくまあ、楽しい本であった。


Originally published at rashita.net on October 26, 2017.

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