【書評】質的社会調査の方法(岸 政彦, 石岡丈昇, 丸山里美)

ビッグデータの普及により、個人の立ち振る舞いがデータ化され、その行動が統計的に処理されるようになりつつあるわけだが、さすがにそれだけでは心許ない。

なにせビッグデータには、心情も物語も出てこない。そこでは人間を人間たらしめているものが綺麗さっぱり欠如している。ビッグデータの中では、人間も哲学的ゾンビも等しい存在なのだ。であれば、別のアプローチも必要であろう。

本書は、量的ではない、質的な社会調査の方法を記した教科書である。

概要

とは言え、「教科書」とは書いたが、あまり教科書らしい本ではない。それは教科書と呼ぶに値する内容が含まれていない、ということではなく、本としての佇まいが異なる、ということだ。

しかつめらしいアウトラインを押しつけてくる感覚はなく、むしろ先輩の社会学者からアドバイスを受けているような気持ちになる構成である。目次は以下の通り。

序 章 質的調査とはなにか(岸政彦)
第1章 フィールドワーク(丸山里美) 
第2章 参与観察(石岡丈昇) 
第3章 生活史(岸政彦)
ブックガイド(石岡丈昇・丸山里美)

まず序章では、本書の中心的テーマである「質的調査」とは何なのかが語られる。これについては後述しよう。

その後、本論として三つの調査技法、〈フィールドワーク〉、〈参与観察〉、〈生活史〉が紹介される。面白いのは、それぞれの技法について別の社会学者が担当しているところだ。章によって語られる内容やその手つきは異なりながらも、共通して浮かんでくるポイントもある。また、ある程度はっきり断言されるものもあるし、あやふやな状態で置かれるものもある。

そのような書き方こそが、質的社会調査のコアを成す性質なのだろう。その点にたいへん共感を覚えた。

質的社会調査とは?

質的調査に(とりあえず)対置されるのは、量的調査である。簡単に言えば、アンケート調査だ。

適切に設計された調査票を用い、無作為に抽出された人々から、意見を聞き取る。その意見は、後から統計処理しやすいように、「はい・いいえ」や「次の5つからもっとも当てはまるものを」といった形で、パッケージされる。著者の言葉を借りれば、「数値化のために極端にシンプルに切り詰められたいくつかの質問を組み合わせることで、目には見えない社会の大きな構造や変化を明らかにすることができる調査」ということになる。

もちろんこのアプローチは有用なのであろう。しかし、私みたいなへそ曲がりからすると、極端にシンプルに切り詰められる過程で、そぎ落とされたしまったものの存在がどうしても気にかかってしまう。それが一番大切なものだったらどうするのだろうか。たとえば、「はいやいいえでは選べない」という心情そのものが、その状況においてもっとも重要な要素だったとしたら。人間の心の機微というものは、まさしくそのゆらぎにある以上、シンプルに切り詰められたことでわかることもあれば、逆に見えなくなってしまうものもあるに違いない。

別の問題もある。適切な量的調査を行うためには、一定サイズの母数が必要である。そこから考えると、極めて限定的なマイノリティーの調査には使えない。あるいは使いにくい。その意味で、量的調査のまなざしは、はぐれものには向いていない。むしろ、その眼差しはつねに全体を向いている。人間を原子のように捉え、その原子から構成される物質であるかのように「社会」を捉えるわけだ。

それは端的に言って、疎外であろう。調査方法による人間の疎外だ。だからこそ、現場に足を運び、中にいる人と対話し、ときに自らも参画し、さらにその人の人生の語りをまるごと聞き取るようなことまで行う質的社会調査には意義がある。ある種の方向性に向かって進むときに、必ずそぎ落とされてしまう(あるいはこぼれ落ちてしまう)ものをてのひらで受け止める意義があるのだ。

著者のひとりは次のように書く。

こうした質的調査では、量的調査のような、すぱっと切れ味のよい、クリアな知識を得ることはほとんどありません。それはひたすら地味な、地に足のついた、地を這うような、地道な調査です。したがって、そこで得られる知識も、もたもたとした、あやふやな、まとまりのないものになりがちです。

もたもたとし、あやふやで、まとまりのないもの。汝の名は、人間である。その知識には、間違いなく人間が息づいている。

さいごに

本書の副題は「他者の合理性の理解社会学」であり、この「他者の合理性」を理解することは、通底のテーマにもなっている。

他者を他者のまま理解すること。他人の靴を履いて世界を見てみること。「自分だったらこうしていたのに」と乱暴な歩調で他人の人生を踏み荒らすのではなく、寄り添うようなテンポで「そうか、だからあの人はこんな風にしていたのか」と隣りを歩くこと。

もちろん、そんな行為には時間がかかる。背景を知り、関係性を把握し、心情を汲み取らなければならない。そんな面倒なことをするよりも、人=データとして扱い、原子の気持ちについてなんて考えない方がはるかに楽で、効率的である。そのやり方で扱えないものは、もはや存在しないものとしてどんどん切り捨てていけばいい──という心情で進んでいく社会はあまり好ましくないように感じられる。

もたもたとし、あやふやで、まとまりのないものは扱いづらいだろう。でも、だからといってそれを切り捨てていい理由にはならない。むしろ、それこそが唯一切り捨ててはならないものかもしれないのだから。


Originally published at rashita.net on April 5, 2017.

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