自由に生きよう

という言葉を耳にして、まっさきに思い浮かぶのは、「自由に生きるとはどのようなことなのか」である。

まあ、こういう曖昧な表現は、その人が望む状態を投射するものなので、あまりやいやい言うのも営業妨害感はある。でも、ちょっと考えてみたい。

たとえば会社員をしていると、フリーランスで仕事をするのを「自由」と感じるかもしれない。幸い私は、両方の仕事をした経験がある。で、フリーランスの方が自由なのかというと、なかなか微妙ではある。

もちろん、平日お昼の2時ぐらいに「そうだ、映画を見に行こう」と思ってバットマンとスーパーマンのバトルアクションに浸りに行くことはできる。誰の許可もいらない。その意味では、行動の選択に裁量はある。

でも、その結果はもろに自分に返ってくる。週末必死に原稿を書かなければならなくなったりする。自業自得といってしまえばそれまでだが、自分の行動選択に裁量があるということは、つまりはそういうことである。

結局フリーランスも、「使える主がいない」ということではなく、「使える主は自分」というだけであって、想像するほど自由気ままではない。そもそもそんな自由気ままでは、仕事は成立しない。あと、自分がやらないと誰も仕事を代わってくれないので、体調不良とかはもう最悪である。

結局の所、自由を維持するためには、高い代価が必要なのだ。でもって、会社員も何かしらの代価__偉い人に頭を下げるなど__を支払っている。結局、そこは同じなのだ。ただどんな代価を支払う覚悟があるのか、の違いがあるだけだ。

「自由に生きる」というのを、ありとあらゆる責任から解放される、みたいに解釈すると、山ごもりするしかなくなる。もちろん、それを心の底から望んでいるなら構わないが、そうでないならもうちょっとだけ状況をイメージする必要はあるだろう。

「自由」の自は、みずから、という意味であり、由は、よる、という意味だ。「夜」ではなく、依る、因る、拠る、に近い。

自分で行動を選べるということは、自分で行動を選ばなければならないということであり、その結果を含めて全責任を自分で負う、ということだ。

でもって、それは実はフリーランスに限ったことではない。誰しもが、自分で行動を選択している。ただ、その感覚が薄いのか濃いのかの違いはあるだろうが。

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