家に本を並べること

あるいは本棚と手帳の類似性について


なぜ人は書庫を作ってまで本を持ちたがるのか

四角の書棚と丸い書棚。

本を置いておく、という機能にさほど違いはないけれども、視覚的な印象はやはり違う。というか、全然違う。

同じ「本に囲まれる」のでも、四角と丸とではこんなにも違うのだろうか。

もし、その違いが印象以上のものであったなら、つまり私たちの脳に作用しているのなら、電子書籍ではなく紙の本を家に置くことには、それなりに意義があるのだろう。意味があるのだろう。

だって、四角と丸が違うのだ。ゼロと四角も違うに違いない。

とある表現を拝借すれば、「情報圧」が実質的な意味を持っていることになる。

『街場のメディア論』の中で内田樹氏は、本棚を「理想我の表れ」と表現している。自分はこういう本を読む人なんだと思われたい欲望が、書棚に投射されていると言うのだ。

だとすれば、自分の書棚に囲まれていることは、自分の理想我を常に確認することになる。ある意味では、手帳に達成したい目標を書いて、毎朝チェックするのに似ているかもしれない。

でも、それだけなのだろうか。

本棚と手帳は似ているところがある。

手帳は、過去と未来が共存するツールだ。今日は2月26日だから、私の手帳には2月25日までの記録と、2月27日以降の予定が書き込まれている。日付をまたいだ瞬間、予定は記録として生まれ変わる。もちろん、最初から記録として書き込む場合もある。

本棚はどうか。

本棚も、既読の本と未読の本が並ぶ。並べない人もいるだろうが、並べる人の方が多いのではないだろうか。特に、たくさん本を買う人は。

自身の過去と、自身の未来が一望できる。本棚はそういう場所なのだ。

それぞれの本は、それぞれ違った情報を私に与えてくれる。過去に興味があり、そして今は興味が無くなった本。過去から現在にまでずっと興味があり続ける本。そして、これからワクワクして読もうとしている本。

自分に関する情報が、本棚から伝わってくる。

やはり、自分なのだ。

個人的に、無料で私の手間ゼロで全ての書籍が電子書籍化できるとしても、それを頼もうとは思わないだろう。そこに合理的な理由を見出すつもりはない。単にそうしたいから、そうするだけだ。

本が家にたくさんあると嬉しい。

それで十分ではないだろうか。生きていくなんて、だいたいそんなものである。

が、どこかの時点で、それが叶わないことも起こりえるだろう。トラブルがつきものなのも人生だ。

その時、ふと全ての本を捨ててしまったとして、私が失うものが「嬉しい」という気持ちだけではなかったとしたら、それは悲しいことだ。

でも、捨ててみるまでは、本当の意味ではわからないのかもしれない。

人と本の関係は難しい。人と人の関係と同じように。