感情計

感情に蓋をして生きてきた気がする、と言うのはあまりに“厨二病”的だろうか。

人格というのは日々受けるありとあらゆる影響の積み重ねで形成されるが、非常に稀ながら、ひとつの出来事がそれをガラリと変えることもある。

わたしの今の人格を形成した、わたしの中でひとつ圧倒的な出来事がある。

それは中学3年生の春に起こった、人生初の失恋。

失恋なんて誰にでもあるものなのは百も承知。だからこの文章では、圧倒的、最大などといった程度を表す言葉の前には必ず“わたしの人生の中で”という修飾語が入ることをご承知おき願いたい。


失恋した瞬間に理解したことがある。

それは前年度の担任が、道徳の中で言った言葉の意味。

恋をすると人生はバラ色になります

革新的な先生で、性教育を扱う中での発言だった。

性教育は決して恋愛を否定するものではない。むしろ恋はすばらしいものだから、ぜひ経験してほしい。でも、そのときのために今日の“性教育”の授業のことを覚えておいてほしい

授業はそう結ばれた。

そのときわたしは“バラ色”がピンと来なかった。おそらく、その授業を受けるもっと前からもっと後までずっと恋をしていたから、“バラ色”が見えていなかったのだ。中学3年の国語の教科書の冒頭に載っていた吉野弘の詩『虹の足』を思い出す。自分の幸せを、自分で気づけない。

3年半片想いした彼に、彼女ができたと知ったそのとき、わたしは視界から色が崩れ落ちた気がした。学校の教室が一瞬で灰色に変わったのをよく憶えている。


その日を境に、わたしの中で何かが冷めた。

その冷め方は顕著だったのだろう。中学校だとしばしば、周囲の友人に「自分のよいところ」を書いてもらう企画が為されるが、中学2年まで「明るい」が第一党だったわたしの評価は、3年の秋には「クール」に変わっていた。

もう今となっては未練も何もないが、当時はしばらく片想いの気持ちを引きずった。こじらせたと言ってもよいかもしれない。

でも、彼を忘れられない以上に、自分の“何か”があまりに冷めてしまったことに驚きを覚えた。何を見ても、読んでも、聴いても、感動が圧倒的に薄い。それは一種の焦りすらもたらした。

きっと、またいつか誰かに恋をすれば、わたしは“感情の動き”すなわち感動に出会えるに違いない。そのときはそう思うことにした。

けれども、そのあとどんな人を好きになっても、感動が戻った感覚はあまりなかった。むしろ冷めた部分が成長していったようにすら感じられる。


冷めた部分が台頭したのは、中学卒業後から都会に出て、広い世界に揉まれていた、という影響も多分にあるとは思う。

自信喪失を何度も経験し、わたしの自己肯定感は正常値から転落した。今となっては中学時代の“根拠のない自信”が眩しいが、それは人間誰しも大人になる中で失っていくものなんだろうな、とも思う。

ただ、わたしは舞台に立って人前で楽器を弾くという、自己肯定感が人一倍必要なことを職業としている。また、人を感動させることができる立場にあるとも言える。

誰よりもセルフコンフィデンスが必要で、誰よりもエモーショナルであるべきなのに。

心が躍る感覚もなければ、心がさめざめと泣く感覚もない。それはときに悲しみを最小化してくれて便利な機能ではあるけれど、その分、目盛りが喜びに跳ね上がることもなく。

正直、自分は感情をストレートに表現できないという負い目があって、現代音楽に逃げ道を求めたことがあるのは否定できない。結局現代音楽の魅力に取り付かれて、むしろ現代音楽で自分の自由を取り戻した部分もまたあるのだけれど。


修士課程に進学してついた先生が、最初に与えてくれた課題がブラームスのヴァイオリン協奏曲だった。ロマン派の王道。わたしがもっともうまくいかない、熱い情熱のこもった曲。

その曲を指定されたとき、たった一度演奏を聴かせただけですべてを見透かされた気がした。

そこで何かスイッチが入ったわたしは、以後意識的にロマン派の音楽を多く弾いている。これまで逃げてきたことに向き合うためだ。

でもやっぱりまだ、感情のマンホールのサビは落ちなくて。わたしは蓋をどこから開けるべくか考えあぐねている。

先生に言われた。指が回ったってそこに感情がなかったら音楽ではないよ、と。

知っている。わかっている。ただテクニックの練習ばかりしていても役に立たないのだと。音楽を結びつけていない練習には限界があるのだと。

そもそもがこのことをこうして人の目に触れるところに書くことすら、あえてしないできたので、せめて、せめて書いてみようかと思った。少しは蓋も緩むんじゃないか。藁をも掴む思いだ。

ここまで書かずにいたのは、失恋後も2年引きずった相手に悪いかな、と考えたのもある。でも、お互いもう20代も半ばに差し掛かりつつある今ならもう時効かな、って。いいよね。

しつこいようだが、未練はないし、彼とまた恋をできたらエモーショナルな自分が戻る、とも思わない。きっといつかはこうなっていた。偶然、失恋がそのタイミングを刺激してしまったのだろう。

こんな飽きっぽいわたしが、十代の半分もの時間を夢中になって過ごせたこと自体が、わたしの中では宝物だから、悔いもないし。

って書いたらちょっとだけ「弾けるかもしれない」って気持ちになった。携帯は置いて、練習してみよう。

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