friends.nico を始めて思ったこと

或いは思い出

rosylilly / Sho Kusano
11 min readDec 11, 2017

この記事は nico.friends アドベントカレンダーの11日目の記事です。

friends.nico にアカウントを登録して何日が経過しただろうか。億劫ながらに電卓をはじいてみれば236日前だそうだ。236日。7割年強の時間を過ごした計算になる。道理で「ずっと昔からあったような、つい最近出来たもののような」という変な感覚値に陥るわけだ。

Mastodon というソーシャル・ネットワーキングサービスの骨子を最初に知ったのはおそらく2月か3月か、そのあたりで、 GitHub Trending という、最近人気のあるリポジトリで Ruby アプリケーションの1つとしてランクインした時だ。最初に見かけた時の感想は「ああ、また人類が SNS を作っている」という諦念や呆れに近い感覚だった様に思う。

mstdn.jp が始まり、 nullkal がシンデレラになっても僕の中で Mastodon は始まらなかった。始まったのは間違いなく friends.nico に登録してからで、何よりも真っ先に at-Pizza を実装してからだと思う。

I believe @ピザ is a VERY important feature of niconico.

我ながら正気を疑う PR 文だが、まぁかくして at ピザは friends.nico でも動くようになり、我々はいつでも、好きな時にピザが食えるようになったのである。

そうして低頻度ではあるものの、 friends.nico を覗く日が増えていった。

ある時はチャットして遊び、ある時は下ネタで盛り上がり、ある時は生放送に Skype をかけ、久々にインターネット遊びらしいインターネット遊びをした。当時(今も)の僕は Twitter にも Facebook にも LINE にも(ここにあなたが気に食わない SNS の名前が入る)にも疲れ切っていたし、とにかく許されているコミュニティが欲しかったのだ。何に許されているのか、うまく言語化して伝えられないことを詫びよう。しかし、僕は明らかに空気や、ノリや、ニュースや、ゴシップや、あるいはそれらを見て自分に発露する感情そのものに疲れ切っていたのだ。

そうした疲れから Twitter や (略) を逃げ出して今 friends.nico を楽しんでいる一人として、少々散文的だが思い出や強く思ったことを残し、今年の締めくくりとしておく。

脳をストリームする

昔 Twitter の利用法を指して「脳をストリーミングするのに使ってる」と書いたか言ったか思ったかしたことがある。実際問題、僕はおそらく喋ることと同等の速度でテキストコミュニケーションができるし(相手にもよるが)、ほぼ思ったことを直接的にキーボードを通じて表現できる。

そういったストリーミング思ってること書いてもいい手帳みたいなサービスは Twitter 以前だと mixi その他様々なサービスだった様に思うが、当時はどれも日記やブログといった体裁で、腹が減っただの眠いだのというほぼ動物的書き込みは実現し難かった。

そこに彗星の如く現れた Twitter はある種の救いめいて見えたし、なにより同様の感情を抱える人類が世界中にいた事に驚愕もしたものだ。当時の Twitter にはまだリツイートも、ハッシュタグもなかったが、なくてよかった。求めていたのは独り言に木霊する別の誰かの独り言であって、当時の日本語圏 Twitter ユーザーは日本人と見れば即フォローするぐらいまでの勢いがあったと思う。僕もそうしていた。

しかし、今や Twitter に脳の中身をストリームするのは大変な危険を伴う。

僕のツイートはきっとブーストされたり Togetter にまとめられたりして切り抜かれ、コンテキストを剥奪され、誰かにとっての都合のいい世論を形成するツールになりうるだろう。僕は僕の書き込みがそういった使われ方をすることを望まないが、インターネットに公開したものはどう扱われても文句は言えない、と言われるならまさしくそうなのであろう。であるなら自衛手段は自明である。書くべきではない。

今現在、 friends.nico では脳をストリームするほどの使い方はしていない。あーいや、少しは多分垂れ流しになっている。多くても書き込みのうちの半分くらいだと思う。どうか許してほしい。

そうして friends.nico へ

うだうだと過去の所属についての愚痴を連ねてしまったが、まぁそんなこともあって割と friends.nico というタイムラインを僕は気に入っており、また不思議なタイミングでチームへ誘われた為、今現在僕は一応プロデューサーということで friends.nico 運営チームに属している。

就任発表の当日、本当にタイミングよくタイムラインが彼氏・彼女の不在で盛り上がっており、嫁自慢をした結果クソバトと罵られ、そのままプロデューサー就任の発表と繋がったことは記憶に新しい。就任直後に「クソ**さんよろしくお願いします!」とユーザーに挨拶されたサービス責任者もそうはいないのではなかろうか。密かな自慢である。

そうしたドラマチックなチーム参入後僕は自身に幾つかのルールを課した。

  1. 僕が気に食わない friends.nico の使い方を認める。
  2. friends.nico は現状の使い方を否定しない。
  3. より魅力的な遊び方を模索する。そして提案する。
  4. ルールは少なく、ガイドを多く。

いくつかマイナーチェンジしたルールもあるが、概ねこのようになっている。あえて言葉にはしていないが、常日頃その辺のユーザーと変わりないような friends.nico の使い方をしている時はユーザー各位も「運営」というラベルに目隠しをしてくれるし(こんなにも有情なユーザーは見たことがない!)、事が起これば皆声をかけてくれる。適切な距離感、というのは常に難しく扱いに困る概念であるものの、今現在であれば少しはそういう距離のとり方が出来ているものだと思いたい。

プロデューサー就任後激変したライフスタイルの1つに、明らかに friends.nico を見ている時間が増加したことがある。就任前は日に2時間も見ていればいい方で、その頻度も週に2日くらいだったのが、今となっては見ていない時間を探すほうが難しいレベルである。酒飲んでる間は見てないこと多いけど。

ああ懐かしきラグナロクオンラインよ

諸兄らは MMORPG というゲームジャンルを覚えておいでだろうか。もしくは現役プレーヤーだろうか。

ああいった大規模ゲームの遊び方の1つに、チャットするだけ、というものがある。ただ、ひたすら、チャットするだけ。ロビーで、ギルドハウスで、自宅で、バザー広場で、チャットする、だけ。

外部の人にとってその光景は異様である。ラグのない回線選び、強靭なステータスを得るための作業時間、攻略サイトでの調べ事、それらを乗り越えていきつく先が、チャットて。最初から Yahoo チャットでもやっとれよというのはごくごく正しいツッコミであるが、そうではない、そうではないのだ。

「天気の話ができる」というのは、コミュニケーションの礎としてとても重要なことだ。何もまっこうから天気の話でなくていい。つまり、住空間や文化圏、前提や文脈を同じくする多人数が存在し、そこに属して会話するのが楽しいのである。学校の友人と放課後遅くまでおしゃべりすることが楽しかったのであれば、それの代替品だと思っていただいて構わない。

そしてレベル上げが必要なく、攻略サイトもいらず、回線品質が生死に直結しない現代のロビーが僕にとっては friends.nico というだけの話なのだ。それは生活に必需でない存在であり、潤いに欠かせない類の持つべき場所の1つだ。

Mastodon というロビー

Mastodon は思想の違う管理者による思想の違うインスタンスが複数存在しており、どれに属するかはユーザーが自由に意思決定することができる。

天気の話が出来ない場所に来たなと思えば別インスタンスへ移ればいいし、どこにも場所がないなら自分で作ってもいい(すこし大変だと思うけど)。脱中央集権を名乗るイデオロギーに僕はあまり深い感銘を抱いていないが、管理者をユーザーが選べるというこの一点において、僕は Mastodon ネットワークを高く評価している。

人が集まる場所は衆目を集め、高い広告フィードとして価値を持つだろうが、もしマーケティング担当者がこの業界、引いてはこのサービスに明るい担当者がつくならば、適切な(それこそその広告がニュースとして歓迎される)インスタンスを選択できるだろう。そうあれかしと期待をしてきてうまくいった試しがないので期待してないが。

中央存在的なロビーは強い魅力を発するのは当然として、それらの垣根を超えて輝く個人もまた存在する。そういった時、リモートフォローという方法で(Twitter 出現以来意味がねじれてきたが)フォロワーになることができるという点も好きだ。僕も実際にリモートでフォローして追っている気になるユーザーは存在するし、その人のフォロワーである自覚もある。

とある人のフォロワーになりたいがために、水の合わないコミュニティに参加する必要はないし、そういう振る舞いをせずに済む機能がでてきたことは望ましい。コミュニティはただ存在し続けるだけでも高い労力を強いるのだ。望まぬ人が入ることで無用の混乱や諍いを生むきっかけが起こらないのであれば、ソレに越したことはない。

相応の苦労は場所への対価として適正価格か

コミュニティを維持するには管理が必須だ。もし管理せずコミュニティが健康なままでいられるとあなたが思っているならば、あなたは多分コミュニティに属したことがないか、壊れる前に離脱してきた人だろう。

天気の話ができるほど前提や文脈が近くても尚、雨が好きか嫌いかは個々人で異なる。近頃風で言えばダイバーシティであり、個人の趣味趣向は大切にすべきだ。だが、それが諍いの元にならないとは限らない。

そういった細かい出来事に対応していくのも、プロデューサーとしての業務に含まれている訳だが、これがどうしてなかなかコストがかかる。具体的に言うと1トラブルあったら1本のストロングゼロと友達になりたくなる程度の気分の落ち込み方をする。

そんなコストを払ってもなおルールを引かないのは単純で、ルールでがんじがらめにしても何も面白くないのが一点。ルールを作るとルールを破る、もしくは穴をつこうとする人類がいることを僕が忘れていない、の二点が理由になる。適法なら何をしても人を傷つけないし問題ないと真顔でいう人類はこの世に存在し、下手すればキミのとなりに座っているのである。

ルールは基本的に管理者のコスト減に繋がる。適切なガイドラインが存在すれば、事が起こった時の対処を別の人間に任せることが出来、意思決定者はルールを引く立法機関としてだけ機能すればよくなる。だが、前述の観点から僕はその方式を採用してないし、コストを払う選択をした。

このコストが適切な価格かについては、個々人で様々な意見や観点があるが、事僕にとって僕が判断するという点でいうならちょっと高めだけどまぁいいかなという感じである。それほどまでに僕は friends.nico のタイムラインが気に入っているという証左ではあるものの、その熱意が消えた時が怖いので、ある程度安くしたいなという気持ちも強いのだが。

まぁいまんとこいい額ってことで。

何がいいたかったんだっけ

特になんも言いたいことはなく、ただただ思ってることを書いておこうかなという具合で始めたが想像を絶するほど長くなって反省している。大した文章量ではない予定だったのだが。

ここに書ききれていない考え事やうまく言語化されていない諸々などもあるのだが、それらをダンプするには今日というタイムリミットの残り時間があまりにも少ないので、この辺で一度筆を置いておく。こういう話に真剣に興味のある人がいるならまた別の機会で喋ることに吝かではないのだが、そんな人も多くはあるまい。

最後に、遅刻してすまんかった。分量書いたから許して。

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