自分バッテリーのスイッチが欲しい話
近頃の私は、ある種「生きるのがめんどくさい」というフェイズに入ってしまっている。
これを文字化すると非常に反感をかうだろうし、幸か不幸か心配されあるいは非難され、おおむね世間からどんな反応が返ってくるか…ということはもちろん承知の上だ。
「めんどくさい」とはどういうことかというと、電気のスイッチをオンオフするように私の命バッテリーのスイッチを切れるボタンがあったら別に押してしまってもかまわない、と思っている状態である。そこに暗い思いはまったくない。いやむしろ、命を絶つには膨大なエネルギーがいるし、痛かったり苦しかったりしなければならず、またそれこそ面倒なプロセスを踏まねばならないので、そこまでする気力さえ湧いてこないのでやらない…と言う方が正しいであろうか。
何にも悩んでいないし、つらいこともない。病にも蝕まれておらず、衣食住にも困っておらず、人間関係には恵まれ、むしろ自分はかなり幸せな部類であるといえる。
そういう人間であれば「生きるのがめんどくさい」などと言ってはいけない、という論の上に社会は成り立っている。
でも、もう十分生きたのに、なぜ自分はまだ生きなくてはいけないのだろうかと思う。本当に、なんの悩みも辛さも痛みもなくても、もう生きなくてもいいでしょうか?と思うことはあるのだ。
ふざけるな生きたくても生きられなかった命があるのになんと不遜な、その命かわってやれ、と謗られることは十分承知。だから普通は言えない。
社会的通念からいくと比較的許されないというか受け入れられない(命は大切なもの)ので、この視点からの意見はそうそう交わされることがなく、声に出して述べる人も(少なくとも私の周りには)いなかったが、ほかにこんな風に思う人は本当にいないのだろうか?私がおかしいのだろうか?
だいたい人間はなんで生きているのだろう。
ただ種の保存だけを目指す生物学的本能ではくくり切れない世界に、なぜ人間だけが生きているのだろう?そもそも種の保存さえ、実は目指すべきものだったのだろうか?それさえ、我々がこの短い人類の歴史の中で勝手に作り上げた虚像なのではないだろうか、という気さえしてくる。
比較的能力はある方なので、社会におけるこの役をやってくれと期待されたらうまく全うすることもできる。自己肯定感にも満ち満ちている。きっとたいていの人には理解されないだろう。仮にこんなことを書きおいて私が死んだら、「きっと何か深い心の闇が…」と誰もが言うのだ。
繰り返し述べるが、本当に、私には何一つ悩みも心の闇もない!楽しいことは楽しいと思うし、おいしいものはおいしいと思うし、我が子はかわいく人生は幸せだ。
でもだからこそ、「心の闇」や悩みがない人は全員生きたいと思っていてこれ当然、という説がまかりとおっているのはなぜであろう?とふと思うのだ。
そして最終的にこう締め括るのは世間からの批難やバッシングを恐れる結局逃げか、と思わなくもないが、おそらく、ごく大雑把にまとめると私は「疲れている」ということになるのであろう(疲れてはいないが、もうそれ以外に言いようがない)心優しき我が友人や仲間たちは、口をそろえて「ルイさんがんばりすぎですよ」と言ってくれるのであろう。でも大丈夫、実は私はそこまでがんばっていないので心配はいらない。ただ生きてる以上何かしなければならないと思うからやっているだけだ。だからそれがめんどいのだ、生きてるから何かしなくてはならないというのが。
「恵まれている」存在の人間は、もう生きなくてもいいと思うことなど許されない。そして命を大切にして、この世でなにかをしなければならない。生きているのに何もしないなどということはあってはならないのだ。それがわかっているから、今日も私は生きている。
