生き残った者の掟

偶然頂いたチケットでハンガリー映画の「サウルの息子」(ネメシュ・ヤースロー監督)を観たので、それに契機に考えたあれこれをここに書いておきます。まとまりのない印象の羅列に過ぎず、何らかの結論に至る考察もないが、それでも一応書き留めておきたい。映画の細部にはそれほど深く言及するつもりはないものの、映画を観るにあたってあらかじめその物語展開を知ることに抵抗があるという人は、ここから以降の文章を読まずにおくことを勧めたい。

映画「サウルの息子」はアウシュビッツにおいて同胞であるユダヤ人をガス室に送り、その死体処理に従事させられていた「ゾンダーコマンド」と呼ばれる人々を描いた物語で、主人公のサウルはガス室の中生き残った息子と思しき少年の絶命の瞬間に立ち会うことになり、その遺体をユダヤ教の教義に乗っ取り正しく葬るために、収容所内を奔走する。サウルは自分自身や仲間たちまでも命の危険に晒しながら、ちょっとどうなのかと思える情熱で、息子を葬るために遺体を焼却から逃れさせ、祈りを捧げるためのラビを探し、埋葬するための穴を掘る。当初観客は、父が息子を思う愛情が彼を突き動かしているのだと思うが、映画の後半でサウルにはどうやら息子がいなかったということが示され、次第にサウルの行動の動機は曖昧なものになっていき、その謎は解明されることなく映画は終わる。

このサウルが命を賭して少年の遺体を正しく葬ろうとした行為の動機を考えることこそが、この映画の作者が観客に突きつけた「生き残った者の掟」だということは言うまでもない。

私自身のことでいうと、最近身内の者が亡くなったこともあり、ここの所、葬儀というものが誰のためにあるのかをぼんやりと考え続けていた。もちろんそれは死者のためではなく、生き残ったもののためにあるのだけれど、葬儀という行為を通じて生者は何を得ようとしているのか。決して小さくはないお金を僧侶に支払い、その対価として得ようとしているものは何なのか。

日本での仏教の導入は、国家/民族を形成するにあたってそれまでに経験したことのない数の死者と向き合うことになった人々が、死者を正しく葬る技術を持っていなかったことに気づき、それらを大陸から輸入したことに端を発している。

「葬式仏教」と批判されることもある日本の仏教は、そもそも国家/民族というものに「死者」をいかに組み込んでいくかという明確な課題を持って迎えられたものであり、そのことでこの国の国家/民族の形成を背面から支えてきたものだということが出来る。また靖国問題をなどを見ても、「正しく葬る」ということ、死者をいかに扱うのかということ、それそのものが国家間の争点となりうる極めて高い政治性を帯びたものであり、生き残った者の生の政治的な正しさを担保するために欠くべからざるものだいうことがわかる。

いかにして死者を正しく葬るのか、そのことは現在においても生者に生々しく突き立てられる課題となっている。

アウシュビッツは数限りなく映像などで表現されてきたが、映像表現における殺戮が当たり前となり、どんな残酷な殺人シーンでもCGを使えば映像化することが可能となった今、その残虐性の本質を映画で描くことは簡単なことではなくなっている。「サウルの息子」の作者は、この映画において殺戮シーンをアウトフォーカスの中に置いて、ほとんど直接的には描かない代わりに、ナチスがいかに正しく死者を葬らなかったかということをくっきりと観客に提示していく。殺人行為そのものは一瞬目を逸らしてしまえば逃れることはできるが、遺体を正しく葬らないということはサウルたちゾンダーコマンドの逃れられない事実として生々しく突き立てられていく。

この映画の作者は、サウルを「自らの命を賭して少年の魂の尊厳を守ろうとした高潔な人物」として描こうとはしていない。おそらくサウルはゾンダーコマンドの任務によって損なわれてしまった自らの生を肯定するための最後の手段として「少年を正しく葬る」ことを選んだのだろう。

ゾンダーコマンドというその在り方の複雑さ故にあまり語られてこなかった存在を、映画のテーマとして扱うに当たって一番困難を極めたと思われるのは、同胞を欺き死に追いやったゾンダーコマンドたちの生をいかに肯定するのかということであったのは想像に難くない。

おそらく、少年を正しく葬ろうとしたサウルの物語は創作の域を出るものではないが、この映画の作者が史実から逸脱してまでも正しく葬ろうとしたものは、正視しえないものと向かい合わされ、生きながら殺されてしまったゾンダーコマンドたちの魂に他ならない。

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