タクシー話をする物書きは三流なのか。

映画”Night on Earth”を昨夜観た。

テレビでやっていたものの録画ならまだしも、こちとらmediumに書く気満々でレンタルショップから借りてきたことは神と私のみが知り得た永久の事実だ。今や読者も知る公然の秘密なり。

さて肝心要の映画自体は、5つの都市それぞれで、夜の更け切ったころに(あのどうしようもない時間帯)それぞれのタクシーの中で起きる出来事のあれこれを描いたものだ。ジャームッシュ独特の嗄れたおじいさんの歌声みたいなものは、どちらかといえば鳴りを潜め、むしろほんのりオシャレな出来栄えだった。彼が監督を務めた本作が僕が生まれる前に公開されていたこと、そのことが僕の生の短さをより明確に示しているように思えた。5つの都市(ロサンゼルス、ニューヨーク、パリ、ローマ、ヘルシンキ)に登場する多くのキャブドライバーたちは煙草を吸う。しかも病的に。そして大人の彼ら彼女らは決定的に欠けているピースをそれぞれの中に背負っている。作中では欠けたピースは重々しく描かれることは少なく、むしろ欠けたもの同士が交わすコミュニケーションの齟齬のようなものに可笑しみを見出すような構成になっていた。


さて、表題のタクシー内の出来事を物書きの材料にすることはどうなのだろうか?タクシードライバーのプライバシーだとかそんな倫理的な厄介な問題ではなく、果たしてタクシーという密閉空間において経験されるナラティブは価値が低いのだろうか?

確かに、人生経験の浅い僕ですら、たまにタクシーに乗ればそれなりにエッセイにできそうな出来事に巡り合える。これは恐らく偶然ではなく、殆どのタクシー内で面白いことが起きている。タクシーの台数分だけ。

ここに個人的なタクシー話が2つばかりある。

トロントへの留学中、終電を逃し、永遠にやって来ないナイトバス(終電を逃してもトロントには電車の始発までバスが走っているが時間通りに来た試しはない)を待つことに痺れを切らした時には、右手を上げタクシーを呼ぶ。雪でもチラつきそうな外から肩をすぼめながら車内に入り、朝4時ごろの他愛もない会話を(どこから来た?日本から。なんのために?留学。みたいな感じ)交わしながら家まで帰っていく。世界で3人くらいにしか口にしてない秘密を異国の地の、顔も見えない夜の運転手に打ち明けたりしたこともあった。幾分、酔いと煙草の煙の回った頭とともに。

選挙があった際、投票所での集計結果を報告するアルバイトをしたことがあった。そのアルバイトは夜遅くまで(朝の3時くらいまで)票の集計に時間がかかる事から、帰りはタクシーチケットを依頼先から貰い、帰宅した。もう日が明けそうな4時半ごろ、湾岸線をひた走る車内では、本当に気のいい運転手の方と和歌山の釣り事情についてやタクシー運転手の仕事ぶりについてずっと話していた。年長者である彼の、タクシーという車内で相応しいとされる、若造に対してすら丁寧な口調での語りは、選挙の集計報告で疲れていた身体に心地よく埋め込まれたのを覚えている。


本作内で起きる5つの「タクシーバナシ」は観るものの好みを恐らく「五分五裂」(ゴブンゴレツ)とするだろう。どれでもいい。どうでもいい。あなたが何を選ぼうと僕にはなんの不利益をもたらすこともない。

それはまるで整備工がハリウッド女優を見つめるように。

平和なああでもない、こうでもないを無意味なまでのfワード連発の映像を、お好みのポテトチップスとともに、ご覧になることをちょっぴりとおすすめいたします。

ポテトチップス成分談義をライフワークとします者としましては、ワタリガニのクリームパスタ風ポテトチップス(そんなものあるのか、をノールックで出鱈目を言うのが当談義の粋と考えます)との相性がよいかと思われます。飲み物は牛乳で結構です。

2016/10/10

One clap, two clap, three clap, forty?

By clapping more or less, you can signal to us which stories really stand out.